目次
夏の女王
1. 女王の国
2. 夏トンボ博士
3. 人工的な処女
4. ボトルシップ
5. スターマイン
6. 虫かごの島
7. 夏の女王

夏の女王

 

1. 女王の国

 ――私は「女王の国」にいる。
 十五歳の時ここに来た。

 私は真夏になると、必ず政府に申請をして山の上の別荘で過ごすことにしている。
 人気がある避暑地はなんといっても海側なので、深い緑に囲まれて、比較的静かに真夏を迎えることができる。 崖を回る遊歩道からはネット越しとはいえ遥か真下の白い砂浜も見渡すことができるし、わざわざ海の近くにいかなくてもこうして筵に寝転んでいると、私の瞳の裏にはいつだって波が寄せて、耳には潮騒が届いている。

 

2. 夏トンボ博士

 私は義従兄のおかげで生きている。

 私より四十も年上のおじさんとの血縁関係が正確にはどのようなものであったのか、今となってはよくわからない。 親戚は残念ながらウイルスへの耐性が低かったらしく、軒並み死んでしまったからだ。 母は再婚だったし、義理の父は無垢な私の眼にはおじいさんにしか見えなかった。彼は少なくとも、義父側の親戚の一人だった。
 小学校に上がった頃に、母が再婚した。都心のアパートから郊外の桜の樹がある邸宅へ。友達もおらず、居心地の悪い家を避けるように私はよく一日中裏の山や畑にいて昆虫たちを観察して過ごすようになった。
 殊に学校のない夏休みなんかは、田舎の屋敷に預けられたこともあり、これ幸いと昆虫採集に出た。 母に念押しされた日焼け止めもせず、虫かごに捕虫網、大きめで耳たぶあたりまで落ちる麦わら帽子という出で立ちで朝から晩まで山の中を歩いていた。
 朝露のスニーカーを掠めて飛ぶ鮮やかな蝶たち。 青空の下のトンボ。 湿り気のある土、朽木の中の幼虫たち、夕暮れの涼しさに暮れる空。 心細さを駆り立てる巨大な木々の影と茜色の雲。時には夕立に襲われることもあった。 私だけの知る秘密の洞窟(今思い返せばただの横穴にすぎなかったと思うが)で雷をやり過ごし、温かい水の匂いに呼吸した。 傍らにクワガタやらカミキリムシの詰まった虫かごを抱えながら。
 母は私に深窓の令嬢らしくあってほしいのだと幼心に知っていたが、生憎そんなものに興味はなかった。結局、「おてんばなお嬢様」というラインで譲歩してくれた母は、物分かり良く昆虫採集の道具を用意してくれた。もっとも標本作りのための毒瓶がほしいと言い始めた時にはさすがに理解の限度を超えたらしい。真っ蒼な顔で叱られたので、私は大人しくクワガタを飼育するだけで諦めた。とても残念だったけれど。
 冬になると、次の夏休みが来るのを楽しみに、クリスマスプレゼントの昆虫図鑑を読みこんで退屈な雪の季節を乗り切った。世界は広い。南米の昆虫に憧れて、いつか世界中を回って昆虫の標本をつくろうと心に決めて毎日図鑑を抱いて眠った。

 そんな娘を扱いかねたのだろう。あくる夏、私はいつもの田舎で夏休みを送ることなく、船にゆられて見たこともない島へ行くことになった。義父の甥とかいう四十絡みのおじさんが昆虫博士であり、その研究調査に一ヶ月南のナントカという無人島に行くのが恒例になっていて、それに同行して自由研究をして来たらどうかという半ば強制的な提案がそれだった。
 従兄であり、その後十年近くに渡って私の保護者となったそのおじさんは、夏トンボ博士と呼ばれていた。 私も親しみと尊敬を込めてそう呼んでいた。 だから今後も彼のことを夏トンボ博士、と呼ぶことにする。
 少し、博士について説明をする。夏トンボ博士は本名を「弘文間 岬 (こうぶんかん みさき)」といい、その道では名の知られた昆虫博士だったそうだ。
 丸眼鏡に長い両手。 何個も眼がついているかのように夏草の茂みの中でも目当ての虫を見つけるのが早く、熱中すると手をだらんとして見入ってしまう姿から夏トンボ博士、と呼ばれていた、らしい。 奥さんはいなかった。 四十歳になっても昆虫達が僕の愛人なのだと大真面目に宣言しており、家の者達も学問に身を捧げるとはそういうものかもしれない、と諦めていたそうだ。
 専門はトンボではなくカミキリムシだというからおかしい。 けれど昆虫でさえあれば大概の質問には淀みなく答えてくれたし、甲虫類でも鱗翅類でも、私が見つけるたびに嬉しそうに説明してくれる人だった。
 私は母に連れられた船着き場で、初めて博士に会った。
 今でこそ私の記憶に温かく残る夏トンボ博士の眼は親しげに笑っているけれど、その時の彼は不機嫌さを隠しきれていなかった。 無理もない。 私は空気の読めない母の気遣いで麦わら帽子にワンピース、下には花柄の水着などを身につけさせられており、研究調査に向かう博士のお供としては実に相応しくない格好をしていた。 これまた夏らしいサマースーツの母が手を引き、博士ににこやかに礼をする。 権力ある伯父の歳若い後妻が、足手まといの何も分かっていなそうな少女をひと夏押しつけるために作り笑いで頭をペコペコと下げる。 あまり気持ちの良くない光景であったに違いない。 博士の後ろには助手の大学院生、菊地くんが唖然としていて、私はとても恥ずかしかった。
 母に抱きしめられ(いい子にしてるのよ)、船に乗り、浜が遠ざかってから、博士は咳払いをし、その格好ではとてもダメだし邪魔なんだという趣旨のことを言葉少なに伝えようとした。 私が麦わら帽子を抱いて見上げると博士は目を逸らした。 苛つく気持ちを隠そうともしないのにはだいぶ傷ついたのだが、無理もないだろうと思った。 母のことは嫌いではなかったけれど、彼女は自分の物差しを大事にしすぎて他人の物差しを無視するようなところが多分にあったし、それで人を不快にさせることも、娘がそのとばっちりを受けることも初めてではなかったので。
 ところで私は当然ながら虫捕り三昧で過ごす心積りであったため、母には内緒で夏休みの宿題をベッドの下に隠し、空けたスペースに活動的な服と靴と昆虫図鑑、虫捕り道具をめいっぱい詰め込んできていた。麦わら帽子を無愛想な博士に押しつけて、リュックサックから私の宝物達を出して見せ、私にとってこの機会がいかに貴重なものか、どれだけ昆虫が好きなのかを子どもながらに切々と訴える。船は小さく、ひっきりなしに揺れたけれど、気にしてなどいられない。替えの靴を掲げて服装を抱きしめて、裁定を待つ。
「着替えてもいいですか?」
「それなら話は別だ!」
 夏トンボ博士はニヤリと笑った。
 そして麦わら帽子を私に被せ直してくれ、翅が震えるように長い腕を肩のわきにあげてみせた。

「『擬態』は生きていくための大切な知恵だものねえ?」

 波飛沫の冷たさと、揺れる足の裏。
 彼のこの言葉は、今でも私の大切な宝のひとつだ。


3. 人工的な処女

 緑が濃い。
 汗がじっとりと腿の裏を伝う。
 転落防止のネット越しに、遊歩道の柵と白浜、色とりどりのビーチパラソルがおもちゃのように小さく見える。
 実際に海で泳ぐことは禁じられている。塩味のする人工プールで我慢しなくてはならないと聞き、私はますます海沿いの別荘地への興味を薄くしていた。
 好きでもない男、というか監視ロボットのカメラに水着を見せつける趣味もないし。私たちに人を好きになったりデートしたりする自由はもはやないと分かっているけれど。
 この女王の国には、乳幼児から三十代くらいまでの女性が数百人暮らしている。
 日本には八つの「女王の国」が設置されており、おおまかに年代別で区切られている。他にもいろいろなデータを総合的に判断して「国分け」されているらしいけれど、よくは知らない。この国は私よりも年上の女性が多くて、ここで生まれたという娘も何人かいる。

 今ではノンキャリアの女性は世界中で貴重な存在になったのだ。
 まるで保護しなければならない、絶滅危惧種の昆虫達みたいに。
 定期的に健康診断と実験時間を設けられているし、生殖可能年齢になったら卵子の提供もしなければならない(私もしている)。どこかに私の遺伝子を引く子どもがいるのかもしれないけれど、肝心の母親は処女なのだ。
 すでに決まった伴侶が居て、奇跡的に夫婦ともに感染せずに生き延びた人たちを除いて、セックスも許可されていない。 卵子を提供するだけして、私生活では永遠の処女。 誠に遺憾ながら、私が医学の発展を祈る理由には「セックスができるようになりたい」というのも含まれている。この国にいる限り、恋人は否応なしにノンキャリアの女性限定だ。そうやって性別を超えた真実の愛を見つけた子達だっているかもしれないけれど。
 年頃の女の子みたいな興味を抱くことくらいは許してほしい。このままでは私の一生に知り合った成人男性が、博士と菊地くんの二人だけになってしまう。
 女性だけが保護される理由。
 それは、女性には炎天死病の予防措置はできても、治療が不可能だからだ。


4. ボトルシップ

 無人島とはいえ、水も果物も豊富で、植木鉢ごと持ってきたミニトマトは元気だった。
 助手の菊地くんは釣りやダイビングが趣味で、魚を取るのがうまかったし、私もやり方を教えてもらった。研究調査に毎年使っているという小屋はしっかりしていて、新しく夏トンボ博士が持ってきたすだれを取りつければ日中でも涼しかった。自家発電機もあった。
 携帯電話は当然圏外。菊地くんは恋人がいるそうで、怒っているだろうなぁとよくぼやいていた。
 私は友達もあまりいなかったし、親と連絡がつかなくても博士さえいればそれでよかった。その頃には私と博士はすっかり仲良しになっていた。
 太陽が高くなる前に日陰で眠り、日没とともに起きる。深夜になると再び眠り、夜明けとともにまた起きる。博士は夜にしかいない昆虫や日の出前にしか現れない虫達がいるのだと言って私を連れて行きたがった。昼の島も魅力的だったのだろうが、幼い私は熱意はあれど眠気に勝てなかった。
 博士は、可能な限り私のために時間を作ってくれていた。とはいっても、もちろん仕事で来ていたわけなので、専門の採集は私が寝ている時にしていたようだ。
 昼間の採集では、どうしたって蝶ばかりに目が向いてしまう。夜に動きまわったことで、私は改めて蛾の美しさを知り驚いた。実家の裏庭で見かける限られた種類と違い、様々に違うそれらの区別はつきにくかった。博士は鱗翅類にも詳しく、採集した蛾の名前を当てっこするたびに、きまって博士の方が正解なのだった。
「こんなに似ている意味が分かんない」
 私は連続で予想が外れて、少し機嫌を悪くした。 博士が何か言いかける菊地くんを遮り、なだめるように屈んで笑う。
「そうだね、意味なんてないかもしれない。でも、彼らは生きるためにわざと『似せた』のかもしれないよ。意味があるかもしれないと、考えるのも楽しいさ」
 博士からは、そんな宿題が毎日出たので、雨の日でさえ退屈しなかった。
 毎日毎日、次に起きた時のことを想像して眠りに落ちるのが幸せだった。だからこそ帰る日々が近づいているのが寂しく、目を閉じる瞬間すらも惜しかった。
 島の南側には崖があって、眠りのしじまに波の砕ける音が遠く届いていた。

 迎えがくるのは三週間後のはずだった。
 それが来なかった。

 おかしいなぁと頭を掻く博士の隣で手をつなぎ、水平線をいくら見つめても船は一隻も通らなかった。
 海の様子はいつもと変わらなかったのに、僅かに不吉な予感がした。
「マジかよ。美和に怒られるなぁ」
 菊地くんがガックリと肩を落とすわきで、博士は嬉しそうだった。
「これであと一日、愛する虫達と一緒にいられるぞ」
 そう私にウインクしてみせたくらいだ。私は黙って頷いた。家に帰りたくないとさえ思っていたのに、いざ迎えが来ないとなると不安で堪らなかった。

 迎えは次の日も来なかった。
 その次の日も。

――やがて関係者の一人がようやく奇特な研究者達を思い出したらしい。
 入道雲がもくもくと伸びる真っ青なお盆の空。
 近くの島の漁船が、凍るような報せを運んできた。

 パンデミック。

 私たちがこの島へやってきてすぐの頃。
 南米で新型ウイルスと見られる強力な伝染病が発見され、防疫措置の致命的な遅れにより国境をすり抜け、瞬く間に全世界へと広がった。空気感染するそれは世界中で感染者をだし、その半数以上が数日中に死んでいた。医療機関も混乱し、対応が後手後手に回っているという。そしてどうやら、特に若い女性の致死率が群を抜いて高いのだと。

 菊地くんは恋人の名を呼びパニックになり、半ば漁師さんを脅すようにして船を出させ、島を出て行った。そして戻ってこなかった。
 私も家に帰りたくて泣いたけれど、夏トンボ博士は私を絶対に船に乗せようとしなかった。どんなに泣いて喚いて訴えても。  
 漁船は定期的に報せを携えやってきた。博士は私が船と接触しないよう、私を縛って閉じ込めさえした。
 しばらくの間、その島で博士と暮らした。私は深く博士を恨んだ。

 でも私は博士のお陰で生き延びたのだ。

 耳に残る潮騒と海の色。
 研究小屋の日差し除けのすだれ。
 スコール、炎天、入道雲。
 憎々しかった匂いが、鮮やかな夏がとても懐かしい。


5. スターマイン

 女王の国では日暮れに音楽、宵闇のお香、そして夏は空いっぱいの打ち上げ花火。
 隔離され、娯楽の少ない私たちを楽しませるためには少なくない税金が投入される。楽しませるためというより、変化の少ない「女王の国」の娘達が、退屈から余計な好奇心を抱きすぎないようにするためだろうけど。主に監視ロボットの目を欺ける死に方とかに対する。
 「国」の外では賛否両論あるらしいが、私としては有難い使い道だ。一応、一晩の退屈は紛れる。
 別荘の自室から華やかなスターマインを眺める。三連発。
 花火を横目にいったん窓際を離れた。
 サイダーを冷蔵庫から出してグラスに注ぎ、扉を閉じる。グラスを持ったまま花火の良く見えるテラスに出る。
 設置した白い布とライトには蛾が数匹群がっている。 今夜もいつもの羽模様だ。 毎年のことで、窓に寄ってくる種は取りつくしてしまったのかもしれない。
 見知った彼らを眺めながら冷えたグラスに口を付けた。甘くしゅわしゅわと口の中で弾ける炭酸には、花火に必要な風味がなくて物足りない。
 ラムネの味はどんなふうだったろうか。思い出せない。

 博士と出会い、運命が変わったあの夏。
 それより前の記憶はまるでどこかで見た古いアニメか映画のように非現実的でひどく遠い。

 盆踊りだとか、花火だとか、母に着せられた金魚柄の白と赤の浴衣だとか。
 もしここで私が浴衣を着てみたいと望めば多分手には入る。でも誰が私のうなじにドキドキして手を握ってくれるのだろう。
 ロボット?人外に恋をするほど冒険的にはなれない。
 女王の国には夏の夜も花火も(ひょっとしたら)浴衣もあるかもしれない。
 でも酔っ払ったおじさんの呼び声や屋台のソース焼そば、手を引く母にカキ氷をねだる幼児達の泣き声は、私の記憶の中に響く祭り太鼓は、もはやどこにもない。
 本当に私にあった出来事だったのだろうかとさえ思う。
 夜風が頬を冷やす。
 一階のガーデンテラスでは二十歳をすぎた女性達のグループがビール片手に踊ったり歌ったりしていた。
 木陰で性交をしている同性カップルもいる。

 そうしないとやっていけないのだ。
 私たちは。


6. 虫かごの島

 博士を恨んで憎んで過ごした数ヶ月の後。
 遅ればせながら政府の決定が出た。私と夏トンボ博士は、政府の衛生管理官に連れられて、ノンキャリア居住指定海域のとある島に移住した。普段から人の行き来が少なく、感染を島全体で免れた海域だそうだ。
 そこでようやく私たちは家族の死を知らされた。
 島には政府の指示で仮設住宅が建てられており、そのうちのひとつに二人で暮らした。ひとつひとつの居住地は数戸の住宅で構成され、万が一にも島内に感染者が出た時に伝染が広がらないよう、それぞれが遠く離れていた。移動の自由は制限されていて、毎週末にロボットが必要な物資を運んできた。
「衣食住には不自由しないが、外に出る自由だけがない。牢屋にいるのと同じだね」
 博士が言った。私も頷いた。
「虫かごにいるみたい」
「その発想は面白い。愛するものの気持ちを理解できる貴重な機会というわけか」
 博士は冗談でも私の気を紛らわすためにでもなく、本気でそれを言っているようだった。 ちなみに私は面白くなかった。昆虫が好きといっても、自分が虫になりたいわけではなかったのだ。
 部屋は壁が白くて病院の一室を切り離したような場所だった。 フィルタリングされたうえに回線速度が遅いとはいえ、まがりなりにもインターネットがつながるので博士は大喜びだった。
 そして私たちは、政府の広報とネットの情報からようやく伝染病がどのようなものだったかを知ることになる。
 「炎天死病」と名付けられたそれはひと夏で北半球の人口の半数近くを死にいたらしめたという。 体の熱が上昇し、焼けるような下腹部の熱さに苦しんで死に至る。 女性の致死率の高さは、子宮における炎症の拡がり方に影響があるらしいが、詳しい解明についてはまだということだった。 医療関係者も研究者もおおぜい亡くなっていたので、研究も思うように進まなかったらしい。
 結局、病原体が特定できるまでに半年弱。感染経路の特定にさらに数ヶ月、不充分ながらワクチンが開発されるまでには数年を要した。 そのワクチンもキャリアになってしまってからでは効果が薄く、一度も感染したことがない人間に予防として使えるのがせいぜいだった。 それでも格段の進歩だったのだけれど。
 深刻だったのは、その数年の間に、ノンキャリアで生存している女性の数が全世界で異常に少なくなってしまったことだった。

 私は、その島で十五になるまで暮らした。
 勉強は夏トンボ博士が教えてくれた。 博士はしばしば脱線するきらいはあるが、予想より優秀な教師だった。 おかげで学力が著しく劣ってはいないと思う。
 島内の昆虫を二人で採集してまわり、ありあわせの材料で標本も作ろうと頑張った。(やがて物資が限られていて難しいことが分かり、図鑑を作ろうという計画に変更した。紙とペンさえあればなんとかなるからだ。) あまり雨の降らない島だったので、私には珍しい虫がたくさんいた。 私以上に博士は熱中していて、この人は虫さえいればどこでもそれなりに幸せなんだなあ。と呆れたものだ。
 できれば恋もしたかったけど、居住区に男性は博士と寝たきりの老人しかいなかった。(思い返せばそれは意図的な配置だったのだと思う。貴重なノンキャリアの少女が狼のど真ん中に放り出されるなんてとんでもない!) 通信の限定されたWEB世界からメール友達を見つけるので精一杯。 残念ながらチャットもメッセンジャーも回線が遅すぎて無理だった。
 おしゃれをしても見る相手がいない、という環境は確実に女の子らしさを削ぐと思う。

 そうしているうちに。
 世界的な流れがノンキャリア女性の保護へと移り始めた。
 人口の急激な減少に歯止めをかけるためという理由は勿論のこと、貴重品はいつの世も乱獲され高値で取引されるというわけで、女性の公的な「保護」はその意味でも急務だった。
 炎天死病により、もはや人類は絶滅危惧種だったのだ。
 ワクチン開発以来、発症を遅らせる技術や治療方法は飛躍的に進歩していたけれど、女性に限っては、発症して子宮に炎症が広がったら最後、どんなに手を尽くしても回復が見込めなかった。発症後の女性の死亡率は依然ものすごく高かったのだ。薬に耐性を持つウイルスも報告されており、ワクチンの効かない新型が流行した場合、今度こそ、人類は子孫を残せず緩やかに死に絶えて行くと思われた。
 そこで政府が打ち出した感染予防と出産可能人口確保のためのノンキャリア女性の隔離保護というのが、「女王の国」政策だった。私と博士が住んでいたような数多あるノンキャリア隔離区域から、出産可能な年齢の女性達を選抜して、現在のような監視の緩い仮設住宅ではなく、もっと厳重な警護の元におくのだという。
 招集は密やかに次々と行われているらしかった。噂ばかりが囁かれて初夏の木洩れ日にさわめいていた。

 やがて暑くてけだるかった、風鈴のもとでアイスを頬張りながら扇風機にあたっていた午前中。隔離島に来て何度目かで迎えたお盆の頃。

 ついに私のところにも、黄色い招集状がやってきた。
 博士に招集状を見せると、博士は分かっていたことのように、君の安全が何よりも一番だ、行くべきだと柔らかに答えた。 扇風機がすだれを揺らしていて、テーブル上の虫かごで、カミキリムシがのんきに蠢いていた。
 国家の存続にかかる招集に拒否権などあってないようなものだったけれど、型どおりに承諾の返事をして迎えの日を待つ。

 私はパンデミックの夏以来、島に閉じ込められた恨みと反抗期で、しばしば夏トンボ博士に八つ当たりをしてきた。 いざ、別れが現実になったそのときになって、それはどんなに大切な時間の浪費だったのかを知った。

「ごめんなさい。博士」
 夏トンボ博士に別れを告げるときに謝りながら泣くと、博士も泣きながら笑って、私の頭を撫でた。
「謝ることなんてないさ。君と一緒にたくさんの虫達と出逢えてとても楽しかった。君が大きくなるのを見ることができて毎日が優しかったよ」
 五十を越えた博士の頭には白髪が少し目立っていた。疲れをにじませた手は皺だらけで大きく、私はそのときようやく、別に恋の相手は夏トンボ博士だってよかったんじゃないかと気付いた。もう遅かったけれど。
 そうして。
 政府の用意した小型飛行機に乗り込んで、遠ざかる島と雲の波を窓から食い入るように見つめて、十五の私は虫かごみたいな島を出た。


7.夏の女王

 「女王の国」政策というのは日本のプロジェクト名だ。名称はさまざまでも各国とも似たようなことはしているらしい。
 ノンキャリアの女性を半強制的に保護区に移動して、ナンバリングして管理。全滅のリスクを減らすために保護区は複数作られる。日本の保護区は、前にも言ったけれど、八つだ。保護された女性達は衣食住が保証される代わりに徹底的な健康管理と医療実験への協力、卵子の提供を義務付けられる。
 その代わり好きな服も比較的容易に手に入るし、本だって読める。 夏は政府に申請すれば移動の制限された別荘地区でバカンスの真似事だってできる。 私が今こうして夜明けの遊歩道を捕虫網片手に歩いているように。
 贅沢したくなければ仕事もしなくて良い。 私は贅沢がしたいので、ちょこちょこと内職したりするのだけれど。
 衛生面にリスクのある活動が厳しく制限されるので、夜中の昆虫採集がほとんどできなくなってしまったのは辛いといえば辛い。せいぜい道から外れない範囲で網を振り回すくらいしか出来ない。
 ただ、まあ、おかげで博士との話題ができる。
 夏トンボ博士は今もまだ虫かごの島にいる。
 手紙によれば、今年から島のインターネットの回線が早くなったようなので、テレビ電話が使えるそうだ。 通信を政府に申請しているので、許可が降りればお盆明けには何年か振りに写真ではない博士に逢える。
 彼はまだまだ現役だ。
 もうすぐ還暦だけど、相変わらず島のあちこちを巡り歩いているらしい。 私と作っていた昆虫図鑑も、博士曰く完全版には程遠い。 一方、生態の研究も楽しいようで、相変わらず脱線する手紙は毎回良く分からないことになっている。 それでもいい、構わない。 ボケてしまうにはまだ早い。もっと私の成長を見ていてほしい。
 世の中は変わってしまった。
 女王の国に本当の意味での自由はない。
 私の身寄りは博士以外にいないし、博士だってあと何十年も生きていてはくれないかもしれない。
 それまでに医学が進歩してくれなければ、夏祭りに私の浴衣で盆踊りだってかなわない願いではあるけれど。
 世を儚んで片道切符の白病棟へ移ってしまう「国民」の気持ちが分からないわけじゃない。時々、私は何者なんだろうと眠れなくなることもある。 言葉を交わした仲間が消えた時などは殊に空虚で、海を渡る蝶や蛾に嫉妬を感じることすらある。
 でも博士が教えてくれた。
 擬態。
 生きるために自分を変えていくのだって大切なことなんだって。生きるために子孫を残すためだけに、命を技術を惜しげなく次世代へ繋ぐ、私と夏トンボ博士がこよなく愛した、小さく強い彼らのように。 生きるために生きていく。
 博士に勧められて作り始めた「女王の国」の昆虫図鑑も、昼行性の昆虫だけじゃ完成には程遠い。 監視の目をすり抜ける方法も諦めず探して、できれば夜中の昆虫採集もしたい。 ロボットの目はどうやったらごまかせるのだろう? いっそ生物学だけじゃなくて、機械工学の勉強に手をつけてもいいかもしれない。 時間はたっぷりあるのだ。
 誤魔化しでも脅しでも、言い訳なんて幾らだって考える。死ぬ方法なんてその後で、いつしかずっと先で良い。
 私はここでなんとかやって行こうと思う。
 涼やかな朝の風、明けていく空の色は変わらない。
 虫の王国を目指して博士と菊地くんとゆれる小型船で目指したあの空は今も変わらない。
 私は人類という種の女王の一人として、真夏の訪れを今年もめいっぱい、楽しむことに決めている。

END

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