蜂の巣を落とす

 欧州で飛行機が落ちたのは、いつだったか、猛暑の夏のことでした。
 兄はどうしても都合がつかないというので、私は勤め先に頭を下げ、能面のような母を支えて、身元確認のために海外へ飛びました。もっとも機体がばらけて海に落ちた以上、身元もなにもないようなものでしたが。
 父とはもう会えない。永遠に。
 次々と必要になる手続きを通して、それだけが確かな事実となりました。

 奇しくもお盆の頃でした。目まぐるしく遺体不在の葬儀を終えて、気がつけば私と母だけが実家にぽつんと座っていました。葬儀で余った緑茶を水出しにして注ぎ、母は遠いところを見ていました。
 久しぶりの実家は、昔のままのようです。染みのある壁も、まっすぐな廊下も、雑然とした台所も、記憶の通り。母が世話をしていた庭がやや荒れていることが気になるといえばなる、そのくらいです。裏庭は繁り放題、枝の隙間は虫だらけでした。よく、子どもの頃は広かった家が、大人になると小さく――などと言われますが、数年振りに訪れてもやはり実家はだだっ広く、裏手から続く蔵も、記憶通りの威圧感でした。
「手伝えることあるかな」
 淡々と遺品の整理をし、形見分けの準備を進める母に訊ねたところ、
「お父さんのものが色々あるでしょうから。蔵の掃除をしてちょうだい」
 と、掃除用具と鍵を手渡されました。
 勝手口から外に出て、苔色の飛び石を踏むと、記憶通り小さなひなたに出ます。すぐに蔵の入り口。脛を刺す夏草が丈高く伸びており、扉に続く石段はところどころ欠けていました。
 なにかを踏みそうになったので歩みを止めます。しばらく正体がわかりませんでしたが、見覚えはありました。
それは蜂の巣でした。蜂の巣が足元に落ちていました。少しだけ傷んでいますが、落ちてあまり時間がたったようには見えません。蔵の角、雨どいの脇には蜂の巣落としに使ったであろう長い棒と、婦人用のウィンドブレーカーがまとめて置いてありました。
 母は虫が嫌いです。ひとり暮らしの母が、死ぬ思いで巣を落としたところを想像すると、滑稽でもあり、気の毒でもありました。こういうときくらい業者を呼べばいいのに。兄がいればよかったのですが、この期に及んで地元の友人と遊び歩くのだから呆れます。
 蔵の屋根を仰ぐと、まだもうひとつ、もっと高いところに大きな蜂の巣が見えました。
 ポーチから電話を出し、地元業者を検索して石段に座ります。蝉の声に重ねて待受け音が響き、しゃがれた地元訛りの男が会社名を名乗りました。
「あの、蜂の巣の駆除ってお願いできますか」
 なんとなく母に聞かせたくなく、抑えた声で訊ねます。
 電話向こうではええもちろんもちろん、と安請け合い……していたのは、途中まで。蜂の巣の場所が「蔵」であると伝えると、なぜか途端に渋り出しました。
「割増料金とか要りますか」
「いやいや、そういうんじゃないんですよ。ただねえお客様、耳にしたことありませんか。このあたりでは昔からある話なんですがね、」

 彼の説明を耳にしながら、蘇ってきたのは公民館の風景。町内会の子ども会合宿で、語り部を招いて郷土の言い伝えを学ぼうという行事があったのは、いつのことだったでしょうか。他愛もない言い伝えだけれど、実家に蔵があったので、私はあの時とても怖かったのです。
 思い出しました。

 蔵の蜂の巣を落とすと、当代の当主が死ぬ。
 だから、蔵に蜂の巣を見つけてもそっとしておくものだ、と、付け加えられた教訓も。

 生温い残暑の空気が、夏草を揺らしています。
 ちくちくと剥き出しの足首が痛みます。
 ……母はいつも陽気だったから、父を愛しているとばかり思っていました。でもそれは、何があっても両親は仲良くあってほしいという、子どもの勝手な期待だったのかもしれません。
 きっと、何があっても結局のところ兄妹なんだから。と、親が子どもへ期待を押しつけるのと同じこと。それだけのことなのです。
「わかりました。そういうことでしたら、無理に駆除しなくてもいいので。ええ。はい。……ありがとうございます」
 電話を切ると、私は蔵の扉に背を向けたまま、夏草を踏んでいきます。綺麗なグリーンのアマガエルが飛びすさります。
 父はいなくなった。永遠に。
 蜂の巣は落ち、先代の当主は死にました。
 けれど所詮は迷信です。蜂の巣ひとつが、落ちただけで、そんなことはありえません。私は虫の嫌いな母のため、もうひとつの巣を落としてあげたいと思うだけ。
 もくもくと広がる白雲が一瞬だけ、太陽を遮ります。
 きれいに畳まれたウインドブレーカーを拾い上げると、土埃に交じって、母の匂いがしました。

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