蜂の巣を拾う

 家内のふるさとは蔵の多いところでねェ、なんでも江戸の昔には醤油づくりでたいそう栄えましたそうで。なかなか趣深い町なンですよ。酒も旨いしねェ、アハハハハ。そうそう。胡瓜のたまり醤油漬けを肴にね、こう、クイッと。ウン。ああ「面白い話」でしたね、すみませんよ。おじちゃんお酒の話になるとつーい、嫌だねえ呑んべえってのは。ウン。ハイハイ。その蔵町にゃこんな言い伝えがあるんですわ。
 蔵の蜂の巣を落とすと、当代の当主が死ぬ。
 っていうね。ちょっと怖いでしょ。しかもこれが本当なの。マジ。真面目な話。ウチの家内が産まれるちょっと前、義理の兄さんが実際に見たっていうのよ。
 蜂ってのはブンブンチクチクさぞかし強くて恐ろしいやつらに見えますけど、儚い生きモンらしくてね。冬んなると、子供を産まなきゃいけない女王蜂を残してみーんな死んじゃう。蜂の巣もね、駆除だなんだって騒がれますけど、放っておいて冬になるとみんな死んで中身は空っぽになっちゃう。だからこの話にもね、蜂は出てこないんですよ、寒いときのお話だから。
 ちょうど今くらいの時期でしょうかね、家内のふるさとにも初霜が降りた。それで初雪こそまだだけれども、霙(みぞれ)がべちゃべちゃ降って、風はビュービュー吹いて、古い家がぎしぎし揺れる。すると八十近かった爺ちゃんが風邪をひく。ああ喉が痛いおれは死ぬ、馬鹿だよこの爺さんはなにが死ぬものかねただの風邪だよ、婆さんひどいじゃないかおれは死ぬね、もう死ぬ、そうだ孫の顔を見たい呼んでくれ。婆さんは連れ添って長いもんだから本気にしなかったが、爺さんが毛布をぶん投げ枕をぶん投げ大騒ぎするんで、息子たちに宥め役として来てもらうことにした。
 三人の息子が揃ったときにゃもう霙は止んでいた。しかし冷たい風は相も変わらず山の側からピュウピュウ、ごうごうとがなりたてていて喧しい。
「あのなあ親父。気を強く持てよ。ただの風邪だよ。なぁ二郎」
 ガタガタガタガタ。窓枠が揺れる。
「そうだぜ父さん。正月には二人目の内孫も見られるんだからさ。女の子だぜ。なあ三郎」
 ぎーしぎしぎし。柱が軋む。
「そうとも父ちゃん。あんまり母ちゃんのことを困らせるなよ。ほら、しっかりしろよな。当主が死ぬ前にゃ蜂の巣が落ちるモンなんだろ? こんなに風が強いってのに丈夫なもんだよ。ほら、落ちていないじゃないか」
 冷たい風がビュウビュウと吹きすさび、三郎の指差した上窓の先、蔵の庇にかかっていた蜂の巣が、さらに激しく揺さぶられる。爺さんも、三人の息子も、婆さんも、みな吸い寄せられるように顔を上げる。
 で、その瞬間。冗談みたいに蜂の巣がポロリと落ちた。ポロリと。
 同時に柱の陰から爺ちゃんを驚かせようと隠れていた孫息子――この子がおれの義兄なんだが――は決定的な瞬間を見てしまう。爺さんのからだが急にビクビクッと跳ねて、動かなくなっちゃった!そりゃもう怖いなんてもんじゃあない、間髪いれずに情けない声で咽び泣いた。
「じ、じっ、爺ちゃんが死んじゃったー! ウワァアァアアーン!」
 爺ちゃん死なないでええぇと飛び出して縋り着いたボウズの首根っこを二郎が掴んで引き剥がし、慌てて顔を覗き込むと、これが確かに「息が止まってる!」。
 こりゃ大変だ、と立ち上がろうとした一郎二郎三郎よりも素早くしゃっきと背を伸ばしたのが婆さんだ。
「一郎、二郎、三郎! 誰でもいい、今すぐ落ちた蜂の巣を元の場所に戻しておいでな」
 いやいや、いやいやお袋、しっかりしてくれよ。母さんまでどうにかなっちゃったらおれ達どうしたらいいのかわかんないよ。一郎と二郎はぽかんと口を開けた後、すぐさま婆さんの説得にかかったが、そこはちゃっかり末っ子の三郎だ、ふらりと立ち上がると縁側の窓を開けてはだしで外へ出て、寒風などものともせずにテクテク蔵へと歩いて行った。
 そして庇の下に転がっていた蜂の巣をそいやと拾って登り棒の要領で、柱にするするよじ登り、腕木と庇の隙間に蜂の巣をぐいとつっこんだ。
 孫息子が泣き叫んだ。
「ウワアアアァーン! じ、じっ、爺ちゃんが生き返ったー! ウワアアァアン!」
 爺ちゃんよがったよおおおぉとまたもや縋り着いたボウズの首根っこを掴んで引き剥がし、一郎二郎が慌てて顔を覗き込むと、これが確かに「息を吹き返している!」。爺さんカッと目を見開いて、
「あんまり喉が痛いから死んだミツコが向こうで手を振っていた」
「馬鹿言ってんじゃないよアンタは、蜂の巣が落ちたから息が止まっただけじゃないか三郎のおかげで生き返ったんだよ、あとミツコって誰だい」
 金婚祝いまでした夫婦の危機に一郎二郎の呼吸も止まりそうになったその時だ、三郎が隙間に差し込んだ蜂の巣がまた、強風にあおられて――ポロリ。
 また爺さんの息が止まった。
「ウワアアアァーン! ウワアアァアン!」
「ええい、一郎二郎、蜂の巣がもう落ちないようにしておいで! 押入れの中の工具箱を持って三郎の手伝いにお行き!」
もうなにがなんだかわかりゃしないが、一郎は慌てて工具箱をひっくり返すと、瞬間接着剤を大きな手のなかに握りしめて風の吹き込む縁側から外にえいやと躍り出る。その背中をのたりのたりと二郎が追う。いざというときのために接着剤剥がしをこれまた握りしめている。背中じゃ幼い息子が「爺ちゃんを助けてぇええ」と泣いている。婆さんは爺さんの死に顔を厳しい顔で見つめている。
 さて三郎は、転がっていった蜂の巣を追いかけ追いかけ、庭の池の前でようやく拾って蔵の前に戻った。そこにちょうど兄二人が駆けてきて、またもや爺さんの息が止まったと聞いてあれまと仰天、三兄弟は力を合わせることにする。こたびの結果は言うまでもない、三本の矢が合わさればこれはもうなによりも強いと戦国時代から決まっている。
 首尾よく蜂の巣を元通りに固定して、念を入れて風除けまで作った一郎二郎三郎は、寒さにぶるぶると震えながら爺さん婆さんのところに戻ってきた。
 ちょうど爺さんが上半身を起こしたところだった。ボウズがまた泣いている。今度は一郎二郎三郎も涙を浮かべた。親父もう大丈夫だから死ぬなんていうなよ、孫娘も見られるなぁ、具合はどうだいもうどこも痛くないかい。蜂なんかに負けちゃだめだぜ。
 再びカッと目を見開いた爺さんは、喉を押さえて仏頂面でこう言った。
「喉がチクチクする。あんまり痛いから蜂に刺されたのかと思ったわい」

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