どうぞお先に

透明な水だ、と思った。
川岸に立ちつくして、足元を眺める。
なめらかな動きで魚達が岩場を縫っていく。
流れは広く、ゆっくりで、川下は薄く煙っている。
川を渡る涼風が柔らかく頬にふれた。
心地よい。
さくり、と砂を踏む音がした。
私は顔をあげた。
隣にいたのは狐だった。
狐の面をかぶった、背の低い少女だった。
服装は奇妙なことに、赤いチェックのワンピースだった。
むき出しになった右足の爪から血が出ていた。
見つめた私の視線を面が捉える。
長い黒髪が涼風に揺れた。
彼女は少しの間黙っていると、軽く頭を下げた。
慌てて私も頭を下げる。
挨拶がどもった。
「こ、こんにちは」
「…ハジ、メマシ、テ」
変に小さくて高い声だった。
刑事ドラマで使っているボイスチェンジャーほど人工的ではないのだが、それに近い印象だった。
「ここへは、どうして?」
狐面の少女は答えず、ワンピースの裾を持ち上げて、膝小僧を見せた。
膝が醜く砕けて血が出ていた。
「……川の水がしみないといいですね」
沈痛な顔を作ると、狐面が小さく横に振れた。
「スグ……ッタ。カワ……モ、チョ……トノアイ、……ラケ。」
「そうですか。私は苦しい時間が長くて。あまり長かったものですから、なんだか……こんなきれいな所、渡ってしまったらもう来れないのかと思うと、惜しくて渡れないですよ」
狐の面は今度はコクリと頷いた。
水が澄んでいる。
暫くそのまま立ちつくしていると、狐面がこちらに遠慮するようにして川の方へ一歩踏み出した。
「私に気にせず、渡ってください」
彼女は不審そうに首をかしげた。
「近々来る人がいるんです。待っている人がいるんです」
――ですからどうぞ、お先に。
彼女はもう一度コクリと頷いて、そろそろと川に左足の爪先を沈めた。
それから、痛んだ右足の先を。
歩くたびにちゃぷりと水音がして、そのたび彼女が持ち上げたワンピースのすそが濡れる。
季節は冬だったはずなのに、少女がワンピース一枚であのような目に遭った理由はよく分からない。
向こう岸は霞んでいた。
私は待っていた。
きっとあの人も来てくれる。
あなたが死んだら生きていけないと、言ったあの人の言葉を信じている。
振り向いて迎えに行く必要なんてないのだ。
そう信じて待つことにする。
いつも待ち合わせには彼が一時間くらい遅れてきたから、一時間だけは待って、それでも来なかったら。
そうしたら、いつものように迎えに行こう。

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