タンポポの水葬
加味壁きょうだいには、本来、林史と瀬戸菜の間に産まれてこなかったもう一人の妹がいる。産まれても来なかったのだからきょうだいの誰も喪失感は持っていない。母はずいぶん嘆いたようだが、機を同じくして又従妹の瀬戸菜が引き取られてきたのでだいぶ救われたようだった。父は強硬に反対したが、あまりの母の嘆きように黙認せざるを得ず、必然、瀬戸菜へ父がつらく当たることになった。
瀬戸菜の父親はなにかしらの犯罪に関わっていたようだが、林史は事情をよく知らない。聞いても誰も分からないというのもある。ともあれ瀬戸菜は家宅捜索が行われた際に納屋の奥で見つかり、死に掛けていたところを保護された。そして唯一の親族である加味壁家に身元を引き渡され、家族となった。
救出されてきた少女は、酷い有様だった。
骨が皮を通して見えるほどにやせ細り、ぎこちなく引きずる右足や無数の痣、他にも多くの回復不能な肉体の損傷があった。ぎょろりと飛び出た片目や痩けた頬は、ゆっくりと滋養のあるものを摂って健康を回復すれば年頃の娘らしくなると思われたけれど…唯一、年頃の娘らしいことといえば、赤い金魚のぬいぐるみを抱きしめていることだった。
虚ろな目で林史の声に頷く姿に、彼は産まれていたはずの妹を連想したのだった。
彼女に寄り添い、様々な話をし、時折裏手に出ては山々を指しているうちに、瀬都菜は僅かずつ、一歩一歩を確かめながら朽木の橋を渡るように――母親に、林史に笑顔を返すようになった。
そして、豊かな想像力でもって、彼女に見えている鮮やかな世界の話をしてくれるようになったのだった。
林史は鈍感だったから、レンズ越しの瞳で彼女の世界を理解しようと懸命になったけれど、この娘さんの見ている景色は目まぐるしくて鮮やかすぎて、ついていくのには骨が折れた。それでも不思議と、彼女と同じ景色を見るのが好きだったし、幼い眼で一生懸命世界を語る、瀬戸菜の声を聴いていると安らいだ。
瀬都菜はちいさな庭の角、黒い岩が水を囲んでいる日陰に佇むタンポポに「あゆちゃん」と名をつけて可愛がっていた。タンポポのあゆちゃんは、無慈悲な硬くて重い靴底に踏みつぶされて死んだ。
あとから大きくなって調べたところによれば、タンポポという花はとても強いらしい。ちょっとやそっと踏まれてもへこたれない、野に這う強い花なのだ。
でも、取り返しは付かなかったと思う。
「あゆちゃん」が踏みつぶされた春のお昼前、黒くて意地が悪く汚らわしい靴底は、その空洞から白いミルクを滲み出させる笛みたいな茎までグジグジと、土に埋めるようにして踏み折っていたし……、やはり、踏み殺されたのだ。生き返ることはなかったろう。
「おやおや。踏んでしまうつもりはなかったんだ、瀬戸菜の大事な大事な花だったのかすまないなぁ」
「……死んじゃっ、た」
言葉とは裏腹にとげとげしく愉快に嗤った濁声を、遮るようにぽつりと。
瀬都菜は大きな瞳を見開いて縁を涙で滲ませて、薄汚れたチェック模様の靴と地面を見つめていた。
林史も覚えている。
風のない日。
義妹に対する品位のかけらもない侮辱に、兄として怒ってやるべきなのだと頭では必死で自身を叩いていた。なのに指先はぴくりとも動かなかった。謝っている、見掛け上は謝っているこの男の卑劣さをどう罵ればいいのか十五の少年には分からない。ただ、瀬戸菜の肩に手を置いて、父が去るのを見送った。
庭石の側でむごたらしく黄色を散らしたタンポポに折れ重なるようにして茎が泥でまみれ、水たまりには空が映り込んでいた。あの日、薄く掃いたような雲を遮る松の葉と節くれだち干からびた枝の曲がりかど。
「おそうしきをしなくっちゃ」
思いもかけぬ明るさで瀬戸菜が林史の袖を引いた。彼女と同じ光景を見つめて怒るよりも悲しくなっていた林史は、彼女の次の言葉を待った。
「みんな、こうしてるのよ」
塩水の滲む目を擦り擦り、膝小僧の土を払って小さな膝小僧が泥につき、タンポポを拾う。
瀬都菜は、黄色いそれを骨だらけの手のひらに乗せて涼しい家の横手に回り、勝手口のポリタンクをそうっと乗り越えて。裏木戸から、紫蘇の葉などが夏には茂る枯れ草混じりの小庭を回り、すぐ近くにあった土手へ向かった。林史は慌てて追いかけた。
誰もいなかった。田起こし前の畦道に、人はとても少ない。
裏手には水田から繋がる太い水路がきらめきながら流れていた。昔に弟と遊んだような、さらさらちゃぷちゃぷいう音がした。
瀬戸菜は野菜洗い用の階段を危なっかしく降りて、変わり果てたあゆちゃんを見つめて、一枚だけ細い黄色をつまんで抜いた。
そして、舌を出して口の中に抜いた一枚を含むと飲み込んだ。
「あゆちゃんとは、ずっと一緒」
屈託なく笑ってから、水面にぐちゃぐちゃのタンポポをそっと浮かべた。
タンポポ、いや、あゆちゃんは緩やかな透明な雪どけ水の流れに乗って、蕗の薹が顔を出しアブラナ科の花がちらちら揺れる土手の間を、遠く遠くまで流れていく。林史は瀬戸菜の隣に制服の尻が汚れるのも構わず腰を掛けて、じっとそれを見ていた。瀬戸菜は泣いていたが、強い眼で水路が視界から消える神社を見つめて林史の袖口を握っていた。
やがて春が終わり初夏の頃、瀬戸菜はまたお気に入りの花を鶏舎脇で見つけ、同じように「あゆちゃん」と呼んでその物語を嬉しそうに語ってくれた。「あゆちゃん」はその後何度も代替わりしているが、タンポポのお葬式だけは忘れられない。
END