リハビリ・1

人生というのは無限の選択肢が点のように連なり、そして一本の頼りない線になったようなものだ。

相変わらず勿体ぶった言いまわし(彼にはそうとしか聞こえない)で語る医師のご高説を半分上の空で拝聴しながら鳴海はあぁと生返事をした。
それよりは覚えろと言われて渡された本との格闘の方が目下鳴海にとっては重要だった。
そもそもなんでこの本が読めないのかということすら自分にもよく分からない。
これはフランス語だ。
ところでそこで大前提として出てくるのが、彼の担当医(自称)によって投与されている薬のせいかぼんやりしてしまった頭でもなんとか判別できるほどはっきりした問題である。
自分の母国語は絶対フランス語ではないと思うのだ。
あまりにも理解不能である。
これを読めというのは今の鳴海にとってはTシャツ短パンでヒマラヤ山脈を踏破してみろと言われているのにも等しかった。
「ナルミ、聞いているのか?」
少し苛立った声がして鳴海の手から本を取り上げる。
あ?とよく分かっていない表情で鳴海が顔を上げると、銀髪の優男がこめかみを押さえて溜息をついた。
「今僕は複雑かつ高尚な話をしていたのだぞ。理解が出来ないのはよーく分かる。確かこれはお前の使う格闘技の祖国の諺にもあったな……ああそうそう、燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らずや、と言ったか。しかし僕はこれにはいささか疑問を提示する余地があると思うのだよ。例え雀の涙ほどの脳しか頭に詰まっていなくとも、より高尚な次元の話を聞くことはその図体ばかりでかい身体にとっても多少なりとも実りがあることではないだろうか。」
「……あのよ、ギイ」
「何だ、ナルミ?」
「んな難しいこと言われてもよ、フランス語はまだちょっとしか分かんねえんだからよ……もうちょっと簡単に説明してくれねえか?」
頭をがりがりとかいて言う鳴海につまらなそうな目をして、ギイは向かいの肱掛椅子に腰掛けた。
細くて長い足を組めば、色あせたねずみ色のズボンのしわが木目細かい影を織り成す。
鳴海はこれは話に付き合うより他ないな、と諦めて腕を組む。
気がつけば自分は身も知らない土地にいて、気付けば左腕の義手(なぜ?)のリハビリをこの得体の知れない若い医者に無理矢理行わされている。
左腕が上手く動かず、そのうえ土地は不慣れで言葉も分からないとなると、鳴海としては嫌でもこのギイという男に頼らざるを得ないのだった。
しかし、この男は自分の何を知っているのだろうか?
そんな疑問はぼんやりした頭の内に時折去来するが、すぐに波のように思考の遥か彼方に追いやられてしまう。
そして代わりに穏やかに打ち寄せてくるのは微かな、本当に霞んだ霧のような記憶の影だった。
あの記憶の底で笑っている少年を思うと、心は同時に軽くなり重くなるという器用な離れ業をやってのける。
いい笑顔だった。
思い出して息をついていると、ギイが先だって取り上げたフランス語の本で鳴海の頭のてっぺんをべしんと叩いた。
「っ! 何しやがる!」
「お前に話してもしょうがないのなら、勉強させるだけだ。少しでもその虚ろな音を立てる帽子立てに中身を詰め込まなくては、お前も外を歩けなくて困るだげふっ!!」
「一言多いんだよおめーは!」
「マ、ママン……ママン……野蛮な男がここにいるよ」
肱掛椅子に足先まで上げて鳴海から遠ざかるようにし、ペンダントを握り締めながら泣く姿を肩を落として見つめつつ、鳴海は窓の外に目を移した。
――やってられるか……

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