埃っぽい道場で、あちこちほつれかかった古いタオルを顔に押し当てて彼は息を整えた。
霧のような細い雨が庭一面に煙りながらしとしとと降り続いている。
抜かるんだ地面で何度も踏み込んだ日本製の運動靴も泥だらけのままに敷いた雑巾の上に放ってある。
締まった身体に比べてまだ少年の表情の残る彼はふうっと息をはいて濡れた黒髪をわしわしと拭いた。
骨ばった指が布越しに動く度、小さな飛沫が道場の床にぱっと飛び散る。
「――ちょっと!」
唐突に後ろから飛んできた甲高い声に驚いて、加藤鳴海は顔をあげた。
雑巾小話
「あ、ワリィ」
声の主の方を見もせずに頭を下げて、鳴海はまた頭を拭きはじめた。
兄弟子(といっても門下生の九割は彼の兄弟子だ)だったらおそらく許されないのだろうが、彼にとって今の声の主はもう少し気安い相手だ――本来は敬うべきなのかもしれないのだが、どうせ謝っても謝らなくても殴られる。
だったら殴られてからもう一度謝ろう。
そんな鳴海少年はちょうど反抗期なお年頃だ。
果たして声の主の苛立ったような声がして、つかつかと足音が響き――殴られた。
「てッ」
「やめなさい!道場が水浸しになるでしょ!」
「ならねぇよこれくらいじゃ。……後で拭くッス、お嬢さん」
「~~っ、ミンハイ!」
「!!!?」
耳の側で思いっきり怒鳴られて半分涙目になりながら、鳴海は敬愛する師匠の愛娘――師匠は素晴らしい人で尊敬するが彼女は……まァすごく強いし尊敬するが、やっぱり少々うるさいと思う――をむっと睨みつけた。
明霞もそれにむっとしたのか、形の良い眉を吊り上げてにっくき外国人の弟弟子を睨み返す。
「何よ、ミンハイ。ミンシア姐さんになんか文句あるの。」
湿気のこもった道場はいるだけで気が滅入る筈なのに、彼女が堂々と登場するとどこでもからっと晴れたようになる。
空気がぴしっとするのだ。
ある意味才能だとは思うが、練習後の雨降る庭を見ながらの一時は見事に打ち壊されてしまった。
それも、嫌いではないけれど。
「……ミンシアはなんでここにいるんだ? こんな時間に。」
「道場からばしゃばしゃ音がするから気になったの。つーかあんたこそもう家に帰ったら?」
「う」
「また泊まってく気? あんたなんて泊める部屋はないわよ。」
物凄く嫌そうに言うミンシアから顔を背けると、鳴海はむかむかして立ちあがった。
その拍子にまた水飛沫が飛び、ミンシアが渋面を作る。
すっかり暗くなっている庭の上に汚れきったシューズを投げ捨てるように落とし、履こうと身を屈める。
「師父に迷惑はかけねえ! オレは帰る!」
「待った!」
言った側から肩にかけた白いタオルを襟ごとぐっと引っ張られて息が詰まる。
ミンシアはそんなことお構いなしといった顔で道場の隅にきちんと片付けられた掃除用具一式に綺麗に整えられた指先をまっすぐに向けた。
「あんたねえ、さっき言ったでしょ。床拭いていきなさいよ。」
「あ……わ、わりぃ……忘れてた」
反抗期というのは、どうも熱くなりやすいようで。
とはいえ、どんな雨よりも次の一言は水を引っかぶったように驚いた。
頭が冴えたとか冷えたとかそういう次元ではなくむしろこれは何というのだろうか、背筋が凍ったというと言い過ぎか。
「さっさと終わらせなよね。私も手伝ったげる」
「……あ?」
聞き違いなのか。
「だから、手伝うよ」
「もう一回」
「手伝うって言ってんのよ!何よ失礼ね!!」
ああ、雨が冷たかったから幻聴を耳にしたんだろうか。
とまでは考えずに、なんだかんだ言っても素直なミンハイは正直に嬉しかった。
たまらずに笑うと、ミンシアは決まり悪そうな顔で視線を逸らした。
鳴海を殴る時に無造作に放り投げていた鞄から飾り気のない包みを取り出して鳴海に放る。
「これ、私からじゃないからね。皆からよ」
「……はあ」
「あんた、分かってないわね?」
「おう。いや、……あー、謝謝」
「どういたしまして、ってそうじゃなくて! あんた今日誕生日でしょ!?」
真正面から怒鳴られて、張りのある声が陰鬱な庭に吸い込まれていくのを口をあけて聞いていた鳴海は、少しの間を置いてぽんと手を叩いた。
「そうだった!」
「馬っっっ鹿じゃないの!?」
「へーじゃこれ、兄貴達からってことかよ」
姐の怒りも何処吹く風でなんだか嬉しそうに包みを眺めている彼に気力も失せたのか、ミンシアは呆れたように溜め息をついてとすんと彼のそばに座った。
「そ、よ。あんたもうすぐ日本に帰るんでしょ? また戻ってくるか分からないんだって?」
気のない様子で彼を見遣れば、姐に答えて鳴海が頷く。
「ん、ああ。あ……それで?」
「うん、誕生日プレゼントっていうより餞別なんじゃないの。あんたが出てく時に自分達で渡せば良いのに」
「だよなあ。」
「渡すきっかけもないからじゃない?」
「だからってなんでミンシアに渡すんだよ。」
「知らないわよ。」
崩れかけた石垣の霞む庭を見つめながら、ミンシアが溜め息をついた。
「それより、さっさとやるよ」
後手に持っていたバケツを鳴海に押しつける。
「水汲んできて」
そう言いながらも汚れた靴を土の上から拾い上げようと手を伸ばしている。
本当に、あのミンシアが手伝ってくれるらしい。
まだ信じられないという顔をしながら、鳴海はばたばたと道場の奥手から続く井戸へと走っていった。
「なァ、どういう風の吹き回しだ?」
ミンシアに押しつけられた新しい服を羽織って、鳴海はバケツを元通りに重ね終えた姐弟子に顔をしかめた。
まだ手伝ってもらったことが信じられないくらいだ。
彼女は自分のことを嫌っていたのだから、彼が首を傾げるのも無理はない。
ミンシアはまた文句ある?と言って背を追い越されたばかりの弟弟子をじろりと睨んだ。
「あんた、今日誕生日だって言ったでしょ」
妙に迫力のあるミンシア姐さんに思わずたじろぎ、鳴海はこくりと頷いた。
「お、おう…?」
「だから特別なの。」
きっと自分を睨んで鞄を肩に引っ掛け、ずかずかと離れの自宅へ向かっていくミンシアの後姿をぼけっと見つめて鳴海は喜んで良いのか分からないままとりあえず呟いた。
「……謝謝。」