星屑までの三千里
1
――噂話がひたひたと、足元に寄せてきたのは夏の終わりのことだった。
「『MaM』が本格的に海外へ軸足を移すらしい」
「ESビルの仕事はやめるんだって」
「寮で家具を叩き売ってた、部屋も出るんだろう」
カラン、とボールペンが床に弾んで転がった。
しゃがみこんで、取り落としたペンを追いかける。握り直しても指先の感覚がない。つめたい大きなかたまりが、胃を滑り落ちて沈んでいく。
「三毛縞さん!」
打ち合わせを終えたその足で、ニューディの事務所に駆けこんだ。
いない。
こまめに顔を出して、伝言を頼んでもなぜか会えない。
しかたないので早朝と夜の定時後を利用して、トレーニングルームで待ち伏せした。
来ない。
正確には一度だけ、ドアが開きかけてそっと閉められた。息せき切って追いかけたけれど、あっさり撒かれた。
そうこうするうちに潮はゆっくりと満ちていき、『噂』はまもなく『情報』になった。
一介の『プロデューサー』は無力だった。眩しい夏が台風に拭い去られていくみたいに、なにもかもが知らないうちに決まってしまった。事務所やビルで姿を見かけても鬼ごっこみたいに素早く逃げられて、息を切らして探しても、あの大きな図体は影も形も見えなかった。
だから、決定事項が知らされた日には、もう手出しの余地はひとつも残されていなかった。
残暑は厳しく、空はどこまでも高い。空中庭園にはひと気がなかった。
ベンチはさらさらに乾いている。木々がざわついている。
七分袖のシャツが、汗ばんだ肌にまとわりつく。
夏が終わろうとしている。
夏はアイドルの季節といっていい。
野外の音楽フェス、夏祭りや花火大会への出演、夏休みの人出を狙った宣伝活動。お日さまみたいにキラキラ輝くアイドルたちを、スタッフたちが総出で支えて盛りたてる。当然ながらP機関の仕事は多忙に多忙を極め、何週間も非人間的な生活を送っていた。
今週になって、ようやくゴールが見えてきたのだ。外の空気を吸って、一息つくためにとここに来ている。
なのにこんなにも外が暑いなんて。
もしかしなくても体力が削られるだけではなかろうか。ミネラルウォーターもすぐに温くなってしまったし、とうに空っぽだ。失敗した。
でも、今さら立ち上がるのも億劫で、動けない。
最近、当り前のことにも頭が回らない。つまらないミスも増えている。
やはりみんなが言うように、働きすぎなのかもしれない。せめて明日は休まないと。
でも、働いていないと、……働いていないと……なんだっけ。
……頭が重い。
足元の草にバッタが隠れていた。どこから侵入したものか、こんなビルの中の緑地にもいつの間にやら生態系が成立しつつあるらしい。
足音とともに、敷石が陰る。
靴の形に草が潰れた。
「あんずさん」
優しく呼ばれて、のろのろと顔を上げた。
……雲が太陽を遮ったのではなくて、目の前に誰かがいるのだった。
踊る猫みたいに陽気な茶色い髪が、陽の光に跳ねている。
「何日寝てないんだあ?」
咎めるように、頭をぐしゃぐしゃ撫でられる。手のひらの温度が、迷惑なのに懐かしい。
「……みけじま、さん」
「うん。ママだよお♪」
花咲くような笑顔をぼうっと見てから、目線を落とす。
帽子姿の彼は、旅装だ。海外滞在用の丈夫な靴。ボストンバッグを肩に担いでいる。
……そうだ。
出立日は、今日の夜だという話だった。だから最後の最後に、鬼が姿を現した。
子どもみたいな鬼ごっこも、これでおしまい。
自称・幼なじみのお兄さんは、ボストンをベンチに置き、鞄を挟んで隣に座った。
「本当に、行っちゃうんですね」
「うむ。親の力も、英智さんの影響力も及ばない海外でもう一度、楽しいこと探しをしてみようと思っている。まあ、この際ESを出てもよかったんだが。つむぎさんが気を遣って休業扱いにしてくれたからなあ……」
たはは、と眉を八の字にして笑っている。
お日さまが眩しいので、見ていられずに目を伏せた。寝不足のせいだ。頭がくらくらする。
「まあこれまでも海外を飛び回って日本にいない時期の方が多かったりしたしなあ。宗さんや泉さんのような立場だと思ってほしい。ただ、そうだなあ……俺は、しばらく帰国することはないだろうけど」
「お蕎麦が恋しくなりませんか」
「ははは……食事ばかりは慣れるしかないなあ。艱難辛苦、思い通りにいかないのが人生! それもまた楽しい!」
「私の」
私のことは。「かわいいちいさなあんずさん」のことは、恋しくなりませんか。
ならないのだろう。『アイドル』ならばそれで正解だ。三毛縞さんにもそうあってほしいと、ずっと願っていた。
ブイー、ブイー。
スマホが震える。アラームだ。
ああ、そうだ。『プロデューサー』が必要とされている。今日はあと三件、打ち合わせ。合間にレッスンに顔を出してほしいというユニットがふたつ、そのあと仮眠したら、夜に『UNDEAD』の件で少し相談があるから時間を取ってほしいと零さんに頼まれている。
「お仕事の時間かあ?」
ふうむ、と唸る声は険しい。スマホを横からタップされて、しつこいバイブレーションが止まる。
「いい加減に寝た方がいいと思うぞお」
「夕方には仮眠を取りますし、明日はオフですよ」
「本当かあ?」
「本当です」
微笑んで、スマホを膝と手の間に隠す。
嘘でも本当でも、きっとあなたにはわからない。
連れ立って屋内に入り、ペットボトルのごみを捨て、エレベーターの前で別れた。打ち合わせの会議室は上、三毛縞さんは下へ行く。ESのお仕事ではないため、普通に都心の国際空港を使うのだという。
「それじゃあ、あんずさん。どうか元気で。くれぐれも、自分を大事にしてほしい」
「三毛縞さんもですよ」
三毛縞さんはよおし、指切りしよう。約束だぞお! と小指どうしを無理やり絡めてぶんぶんと上下させた。力が強い。痛い。
そうして、エレベーターのドアが閉まるまで、お互い笑顔で、手を振った。
ビルのなかは思ったよりも冷房が効いていて、汗が冷える。
体を暖めるためつい早足になった。
大丈夫。大丈夫だ。
働こう。
働いていれば、考えなくても大丈夫だから。
仮眠から目覚めると、窓の外はとっぷりと暮れていた。
少しだけでも寝たおかげで、だいぶ頭がしゃっきりしている。
指定のミーティングルームにつくと、時間まで軽く掃除をする。十分前にスマホを確認すると、零さんからの通知が来ていた。
「ありゃ。延期かぁ」
スクロールして、メッセージを読み返す。
『申し訳ないが急用ができてしまったので、直接の打ち合わせはまたの機会に。代理のものを寄越すので、短時間でよい、話だけでも聞いてやってはくれぬだろうか』
……長文だ。零さんにしては。
これだけ打つのにも四苦八苦しているだろう様子を想像すると頬が緩む。それでもスマホを使ってくれるようになったので、随分と楽になった。
でも、そうか。言付けを聞くだけならそんなに時間もかからない。予定がぽっかり空いてしまう。どうしよう。
――どうしようって、そういうときはおうちに帰って休むんだぞお?
「……っ」
呼吸が波立つ。
スマホを握る指がつめたい。苦しい。
なにかを考える時間をつくってはいけない。いけない。
……だって、もう、行ってしまったんだから。鬼ごっこに負けたら、もう、『プロデューサー』にはなにもできない。ただの『あんず』に戻ってしまったら、ESでどんな顔をして歩けばいいのかわからなくなる。
不意に廊下が揺れたような気がして、我に返った。壁が震えるくらいの、大きな、やけに急いた足音だ。近づいてくる。
零さんの代理なら薫さんなのかと思っていたけれど、あの人はこんな走り方はしないはずだ。
急に、勢いよく扉が開き、息を切らせた人影が飛びこんできた。
「……」
息遣いしか聞こえない。
机を挟んで見つめ合う。
目の前のひとは、驚いたように目を丸くしている。私を見て、……部屋を見渡して、扉に手をかけたまま――震えるような、ため息をひとつ。
「……あんずさん」
零さんからのメッセージが、甦る。
『短時間でよい、話だけでも聞いてやってはくれぬだろうか』
そういう意味だったのだと気がついた。脳裏に浮かんだのは吸血鬼の妖しいくちびる、夜闇に赤い弧を描き、優しく笑う。
2
思い返してみれば、退寮手続きの不備だなんて、副所長らしからぬ不手際だったという他ない。いっぽう、仕掛けられた罠に気づかなかったのは、三毛縞斑らしからぬ失態である。
端からあの子に別れを告げたばかりのところを狙い、確実に捕えるつもりであったのだろう。標的がもっとも隙だらけになる瞬間に爪をたて血を啜る老獪さこそが五奇人・朔間零の朔間零たるゆえんなのだ。
自業自得。さんざんあの子から逃げ回っておきながら……最後に一言だけでも言葉を交わしてじかに触れたいと、欲してしまった自分が悪い。
エレベーター前で声をかけられ、疑問も持たずのこのこと寮まで向かってしまったのはそんなわけである。お粗末。戦場ならば殺されてもしかたがない愚行だ。
「ごめんなさいね、三毛縞くん。お時間はとらせませんから」
すまなそうに微笑む青葉つむぎに連れられて、寮の一室でお茶を飲んだところまでは覚えている。
目覚めると朔間零がいた。
どうやら自分は縛られているらしい。両手が椅子の背に固定されている。
「おお……誘拐することはあっても誘拐されるのは久しぶりだなあ……」
「え、なにその感想。怖いんじゃけど」
佇まいも口調も、いつもの朔間零である。
斑も苦笑した。簡単な縄抜けは心得ているが、そもそも結び目が笑ってしまうほど緩いのでただの雰囲気づくりだろう。
「ともあれ、ようこそ我が後継者よ。不躾な真似をしたことは詫びようぞ」
「いや平気だぞお! 他ならぬ零さんのすることだからなあ、なにか意味があるんだろう? まあフライトの時間もあるので三日三晩とはいかないが、時間の許す限りはお付きあいしよう! 頼みごとでも交渉ごとでもお説教でもどんと来い! なんでも言ってほしい……☆」
営利誘拐は人質を無事に返すからこそ成り立つ犯罪である。殊に『人間』を誰より愛する魔物による拐しである以上、我が身を害される可能性は限りなくゼロに近い。つまり零の目的さえ果たせばなにごともなく解放されるはずなのだ。
「さすが三毛縞くん。話が早くて助かるわい。……しかしまあ、今夜のフライトは諦めてもらうことになるじゃろうな」
「ふ~む、そう来たか……わかった。この先の展開によっては検討しよう。あとで変更手続きだけさせてもらってもいいかあ?」
「いやいや、既にこちらの方で手続きは済ませておる。何せほれ、もう我輩の時間じゃから」
零が窓際に歩み寄り、ゆっくりとカーテンを引く。木々の向こうに夕暮れを一滴たらした夜が広がっていた。やけに部屋が薄暗いのは零の体質に配慮してのことかと思ったが、違ったらしい。
「のう、三毛縞くん」
薄暗闇を背にした吸血鬼の瞳は赤くぎらつき、剣呑な声音で斑の逸らした視線を絡めとる。
「話というのは、『プロデューサー』のことじゃよ。おぬし、あの子に何も言わずに海外行きを決めてしまったんじゃろ? さんざん世話になり、おぬしからも何くれと世話を焼いておきながら……ちと、薄情すぎやせんか」
「うん。ああ、いや、さよならはしてきたぞお? にこにこ笑って『行ってらっしゃい』って言ってくれたんだが」
「…………」
「………………零さん?」
「……………………」
沈黙が続く。凄艶な真顔がおそろしい。
いたたまれないので手首の結び目をこっそり解くなどして過ごす。タイムイズマネー。時は金なり。
「……零さん、もしかして怒ってるのかあ?」
「くっくっく。我輩は仏の心を持つ和洋折衷の吸血鬼じゃもの。一度や二度の失言で怒ったりはせぬよ。とはいえ仏の顔も三度までじゃ♪」
零は腕を組んで肩を揺らす。
「あの子は悲しんでおるよ……正直、見ておれぬ。のう、三毛縞くん。おぬし、随分と逃げ回っていたようじゃが……、なぜ一言も相談してやらなかったんじゃ。『プロデューサー』であり、大事な幼なじみじゃろ。あの子がおぬしにどうしてほしいのか、あの子がどうしたいのか。一度でも聞いてみたことはあったのかや」
沈黙が何よりの答えだ。零は言葉を継いだ。
「年上ぶって説教めいたことばかり言いたくはないがのう。生きかたをつらぬくのが罪なのではない。おぬしの人生じゃ、好きにすればよい。じゃが相手のためを思って……などと賢しげな理屈ばかりを捏ねまわし、何もできぬ『ちいさなかわいいお人形』のように扱うのは、愛するものへの最大の侮辱じゃ。万死に値する大罪じゃよ。我輩も同じ過ちを犯してきた、それこそ何年もずうっと、あたりまえのことにも気づかずに年寄りぶっていた愚か者じゃよ。ゆえに偉そうなことは言えぬ」
薄い薄い三日月が、地平線に傾きながら光っていた。斑は自由になった手首をぶらぶらさせて、足元を見つめた。カーペット。きれいに掃除が行き届いた毛並み。むすんだ小指の頼りなさ。ちいさなかわいい『あんずさん』。
「しかし我が後継者よ、先達のやらかした過ちまでも継ぐ必要はない。おぬしが、よりにもよってあの子にたいして同じ轍を踏むのをむざむざ見過ごしとうないんじゃよ」
「……重々肝に銘じよう。今さら、あんずさんがどう思っているのか聞くのは怖いけどなあ」
「誰であろうと怖い。しかしまた、深閑たる闇を乗り越えてこそ朝日も昇ろう」
「うん。だけど、結局、凛月さんも晃牙さんも、零さんのことが大好きだったんだろう? そもそも零さんを嫌いになることの方が難しい……俺は、そうじゃないからなあ。疎まれて、嫌われる方が馴染み深い。だから楽観的にはなれないけどなあ」
はは、と弱々しく笑った声が情けなくて、手指を組んだ。
どうぞ行ってらっしゃい、なんて。
第一声で言われてしまったら呼吸もできなくなりそうだ。引き留めてほしい。止められたくない。自由になりたい。あの子になら縛られていたい。二律背反。
「そこはほれ、不可能なことに挑むのがおぬしの生き甲斐じゃろ」
「急に雑だなあ?」
「なにも三毛縞くんのためにだけ言っておるのではないよ。おぬしの休業が決まってからこのかた、『プロデューサー』は目に見えてやつれておる。このままでは去年のように、」
着信音。吸血鬼の指先はスマホをひとつひとつ丁寧にタップしていく。やがて目を細めて、斑の方へ画面を向けた。
「ほれ。言わんことではない」
世界が、静かに色をなくした。
倒れている。
あんずが、意識を失って、椅子に寝かされている。
「こうなる前に、なぜ話をせんかったんじゃ。これまでのように隣にいれば止められたはずじゃろ。おぬしはそこまで覚悟の上で、『プロデューサー』ではない、あんずの嬢ちゃんに寄り添っておったのではないか。後悔せぬならそれもよい、おぬしの選んだ道じゃ」
「すまん、零さん。続きはあとで聞こう」
椅子にほどいた縄をまとめ、椅子を蹴飛ばすように駆け出した。
わかっている。あんな写真は作りもので脅しにすぎない。
彼のやりくちは誰よりも斑が学んでいる、理解している。感情が、伴わないだけで。
彼女が倒れた、あの日。晩秋の朝、廊下に横たわったちいさな背中を抱き上げた。ピンクの袖口からのぞいた爪の色は透き通るように血の気がなくて、そっと握りしめることしかできなかった。
(無事でいてくれ、あんずさん)
寮を抜け、夜の街を駆ける。街灯が人気の少ない夜道を照らす。細い月はもう、見えなかった。
己の息遣いが聞こえる。
「……あんず、さん」
心持ち青ざめて、ミーティングルームの窓際に座っている女の子。彼女の、名を呼んだ。
「なんともないかあ? 大丈夫か?」
こくり。と頷いた彼女を、白熱灯の下で見れば顔色が白い。目元は黒ずみ、肌艶もない。働きすぎた彼女のいつもの姿。でも、無事だ。……無事だった。今はまだ。明日もそうとは限らない。
「いえあの……三毛縞、さん、こそ。大丈夫ですか。なんで? 飛行機は……」
「あー、うん。行ってしまっただろうなあ」
苦笑して、意味もなく天井を見上げてみる。あんずもつられたのか、目線だけを上に向けた。
「……零さん、ですか」
「うむ、天晴れご名答! ということはあんずさんも、零さんに言われてここで待ってた感じかあ」
あんずが頷く。
「話を、聞いてあげてって。三毛縞さんのことだったんですね」
「うん。叱られてしまった」
「怖いですよね」
何やら思い出したのか、俯いて口元を綻ばせる。
「怖かったぞお」
斑も苦笑した。
「そんなわけだから、……厚顔無恥、虫のいい頼みではあるけどなあ。君と話がしたい」
「そうですか。わかりました。……あの。とりあえず、そちらに。座ってください」
思いの外に素直だ。
少々面食らいながらもぐるりと、指定された奥の席まで向かう。するとあんずも、距離をとったまま机を回った。中華料理店の回転テーブルに乗った料理のようだ。自然、斑が窓際の椅子に腰かけたところで、あんずは扉の前までやってきた。
そのまま廊下に出て、バタン、と扉を閉められる。
「えっ?」
なんとも間抜けな声が出た。
慌てて椅子をはね飛ばし、ドアを引き開けて左右を見れば廊下の右手奥に消えたばかりのちいさなスーツ姿、お転婆にも全力ダッシュの逃走だ。
逃げられた。
ここはひとつ「悪い子は逃がしませんよおおおお」とでも叫んで、みたいところだったが、……追いかけたところで、どうすればいいのか。喉が乾いて声が出ない。足を踏み出そうとしても、床に張りついたようで、動けない。肝心なときに前へと踏み出せない、だから三毛縞斑は、ヒーローになれない。
歯噛みするほど情けない。
「~♪~♪~♪」
そのとき。不意に明るい歌声が聞こえてきた。
まもなく廊下の角からパンを抱えた天満光が弾んだ足取りで、くるくる回りながら現れた。
「なんだったんだろ? へんな『プロデューサー』! まあいいや、おっそくまで~、おっしごっと頑張ったあっとは~、パンパンパン~♪ いくらでもお腹に入っちゃうんだぜ~☆」
「光さん」
二年生になって光はずいぶんと背が伸びて青年らしい容姿になった。目線を下げる角度が小さくなったことでわかる。とはいえパンのつまった紙袋を抱えて歩き食べする姿は、斑のよく知る天満光のままだった。口の端にカレーパンの衣をつけて、リスのように頬を膨らませている。
「もぐもぐ……あれっ三毛ちゃん先輩、がいこくに仕事に行くんじゃなかったっけ。忘れもの?」
「うん、そんなところだなあ。そんなわけで光さん、こっちに歩いてくる途中であんずさんを見かけていたら教えてほしいんだが」
「ねーちゃ……『プロデューサー』なら今スッゴい勢いであっちに走ってったんだぜ! 鬼ごっこでもしてるのかなあって思ったんだぜ。んっと、じゃあ三毛ちゃん先輩が鬼?」
「いやあ、ははは……うん、面目ない。逃げられてしまったんだよなあ……。光さん。俺はどうしたらいいんだろうなあ?」
眉を下げた斑を見上げて。光はカレーパンのはしっこを口に詰めこんでから、ほんとうに何でもないことのように言った。
「んぐ? 三毛ちゃん先輩、鬼ごっこのルール忘れちゃったの? 逃げられたら、鬼がダッシュで追いかけて、捕まえるんだぜ!」
目を覆っていたヴェールを、光の伸びやかな声が取り去った。一瞬で目が覚めた。
「ふふ、ふふふ。あっはははは! そうだなあ、その通りだぞお。ありがとう、光さん」
「どーいたしましてっ。次に帰ってきたらオレとも遊んで! 約束なんだぜ!」
互いに大きく手を振って、笑顔で別れる。
床を蹴り、足を踏み出した。今度こそ迷いなく。
角を曲がり、エレベーター。ランプは動いている。素直な彼女は小細工をするだろうか、するかもしれない。階段だ。それから。
あの子なら、どこに逃げる?
いつだったか、公園でみんなと鬼ごっこをしたことがある。ちいさなあんずさんも、いたはずだ。
緑の風。蹴散らされて砂利が舞う。
転んでしまったあの子。
服の背を草だらけにして折り重なり、寝転がったときの夕焼け空。
手を繋いで送っていった夜、どこまでも続く星の道、一緒に帰ったのはあれきりだったのに、無垢な笑顔をずっとずっと覚えている。
3
空中庭園はしんと静まりかえり、夜風が柔らかく草花を揺らしていた。
星屑を散りばめた夜空の下で追いついて、手を捕まえた。捕まえたと思ったら、やわい手首は細くて、すり抜けた。身をよじったあんずが躓く。咄嗟に庇おうとしたら、二人で茂みのなかに倒れこんでしまった。
満天の星空。
草越しに土のつめたさを感じる。胸の上には、肩までさらりと流れる髪。
慌てて起き上がろうとしたので、折れそうな手首を両方とも捕まえる。
「はなして、ください」
「急に逃げるから驚いたなあ。夏目さんじゃないが、君は時々ほんとうに子猫みたいだぞお?」
恥ずかしそうに俯いたあんずの頬に、柔らかそうな後れ毛がかかる。花の中にいるからだろうか、いい匂いがした。ここで、毛先に指を絡めたら、どんな顔をするだろう。
高い高いをするときは羽根のように軽いのに、腹に乗った重みがなぜだかとても心地いい。
「…………先に逃げたのは、三毛縞さんじゃないですか」
「うん。うん、その通りだ。平身低頭。ごめんなあ」
謝ると、ようやくこちらを見てくれた。まっすぐな瞳に吸いこまれそうだ。
「今さら遅すぎるのはわかっているが、あとこんな格好でなんなんだが、話をさせてほしい。それから、」
声が震える。
「君の話も聞かせてほしい」
「……いやです」
「はは、そう言われると思っ……」
ぽた。
頬に、生ぬるい水が伝った。雨ではない。だって彼女の上に広がる夜空は透きとおっていて、息をのむほど星が綺麗だ。
ぽたぽたと、降ってくる。涙の滴が降ってくる。
あんずが泣いている。手の中の細腕が震えている。斑の服に皺がよって重みがかかる。
「だっ、て……もう……何を言……ても、行っちゃうのに……、」
あんずさん。と呼ぶ声が掠れた。
それ以上の言葉はひとつも声にならない。鼓動だけが騒がしい。
寝転がったまま、薄い背中に手をかけて、胸元に顔を押しつけるようにして抱き寄せた。柔らかい。いい匂いがする。……ちいさい。腕のなかから、いなくなりそうだ。だからもっときつく。バタバタとかわいくもがいているが無視させてもらう。
どのみち今の自分はESのアイドルじゃない。構わない。顔が見えないのは残念だが、代わりに逃げられることもない、それだけで充分だ。
あんずが消えて、広がった視界には木々の枝葉と星屑の空。世界は繋がっている、天が地を弄び、巡りながら。
「……ごめんなぁ、あんずさん。俺はやっぱり、貰うばかりじゃなくて、自分の力でお祭りを盛り上げる方が好きみたいだ。あんずさんと初めて会ったころ、一緒に学院祭の準備をしたときみたいに。ハロウィンパーティーのときみたいに。みんなで準備して、いちから人と関わって、祭りのなかなら、俺なんかでも歌って踊ればみんなが友達になってくれる。ああいうのが楽しい。だが、ESで、今の俺がそういう仕事をするのは難しい」
抵抗が弱まって、涙が服に染みてきた。温かい。
「あんずさんは頑張り屋さんだろう。それに優しい子だ。忙しかろうがなんだろうが、眠る時間も惜しんで企画書を書いたりして、引き留めようとするんじゃないか。俺は、無理して働きすぎてしまう君を見てられない。諦めてほしかったんだよなあ……もう、俺なんかのことを気遣わなくていいと、」
「……バディだって、言ったじゃないですか」
鼻声で、あんずが呟く。
「『アイドル』と『プロデューサー』は二人三脚なんだって、……三毛縞さんが、言ったの、に」
俺が言ったことをそんなになんでも覚えているなら、どうして俺のことは思い出せないんだろうなあ、と意地悪を言いそうになったけれど、やめた。ほんの数回遊んだだけの子を、覚えている斑の方が異常なのだ。自分の異常性は痛いほど理解している。
「うん。本当にそうだ。同じ結論になるとしても、せめて君を信じて心配事まで含めてすべて、打ち明けるべきだった。全面的に俺が悪い」
腕の力を緩めると、あんずがもぞもぞと上半身を僅かに起こした。泣き腫らした目が赤くてがうさぎのようだ。おかしくて、少し笑った。
「俺の話はここまで。君は俺に、どうしてほしい?」
「……行かないで………」
「うん」
頭を撫でると、いやいやするように首を振られた。
「ううん、行ってもいいです。三毛縞さんに必要なことなら、ちゃんと話してもらえれば、それでいいんです。……でも、たまには戻ってきて」
「ははは、優しいなあ。うん。どこに行こうと、君のところに戻ってこよう。約束する」
あんずは何かを言いかけて声をなくしたみたいに口を開けて、まじまじと間近で視線を返してきた。それから、また、ぽすん。と斑の肩に額をつけて(見間違えでなければ朱に染まっていたかもしれない)顔を隠した。
まるで流れ星だった。確かに目撃したけれど、目にしたものが信じられなくて、もう一度だけと願っても流れた星は大気圏で燃え尽きてしまっている。星屑はひとつひとつが別の星。同じものを二度とは見ることができない。
事実、再び肩を起こした彼女は、すっかりいつもの顔に戻っていた。たとえもう一度抱きしめても、やっぱり手の届かないところで微笑んでいるような、いつものあんずに戻っている。
少しばかり残念な思いを抱えて見上げると、あんずがそっと目を細めた。とても優しい声で、甘く呼ばれる。
「三毛縞さん」
「うん?」
「でも、できれば『ここ』で、一緒にがんばらせてほしいです。あなたのおかげで、できることがすごく増えたから」
涙をためて、微笑む少女の遥か上空には、無数の星が散りばめられている。いつか自分があの輝きのひとつになる瞬間と、分不相応にも探し求めた『母親』になれる日と、どちらが果たして遠いのかは知らない。
「きっと、二人でがんばったら、お祭りだってまたできます」
なんだか本当にそうなりそうな気がしてきて、声をあげて笑ってしまった。
(了)