デートプランAtoM

 エレベーターを7階で降りると、夕暮れが世界を橙色に染めていた。
ニューディの応接スペースには三毛縞さんがいた。テーブルにはまだ湯気のたった湯呑みがひとつ。

「おおおおい、あんずさああああん♪ ママだよおおお! おいでおいでおいでっ、高い高いしてあげよう!」
「ママじゃないのでやめてください」

 ばしばしばし。伸びてきた手を抱えたファイルでタイミングよくブロックする。昔話のお約束よろしく、三度防げば諦める。今日は成功した。

「うんうん、そうかあ。じゃあせめて、働き者の愛娘にとびっきりのお茶を淹れてあげよう! 君のことだ、早く着きすぎちゃったから掃除でもするつもりだったんだろう。ふっふっふ。残念でしたあ! 今日は暇だったからなあ、ニューディの会議室は俺が隅々までピカピカにしてしまった! あんずさんの出る幕はないなあ!」
「……」
「ははは! 膨れっ面もかわいいなあ! ……いや失敬失敬、調子に乗りすぎた。このとおり、謝るから機嫌を直してほしいなあ。会議まであと20分はあるだろう、ここに座って休憩するといい」

 椅子を引かれたのでおとなしく座る。前の仕事からちょっと時間が空いていて、かといって休憩するほどの時間はなかった。どうせならと早めに到着したのは確かだ。悔しいけれど掃除もしようと思っていた、最近は三毛縞さんがなんでもやってしまうので、ニューディに来るとお客さん扱いになってしまうけれど。

「……とまあ、やるべき仕事を取り上げられれば誰だって面白くはない。働き者なのは結構だが、あんずさんもやりすぎないようになあ。君はいちおう『P機関』のお偉いさんだからなあ。本来やるべき仕事をかっさらわれてしまえば、どうしたってわだかまりは残る。スタッフさんたちとは仲良くやっていくにこしたことはないだろう」
「そうですけど……、それ、三毛縞さんにも当てはまりますよね?」

 思わず言葉を返してしまったものの、忠告はありがたい。お礼を言って頭を下げると、いつの間に用意したのか湯気のたったお茶が差し出された。冷房がきいているので、温かな湯呑みを両手で包むとほっとする。外国に来たわけでもないのに、緑茶を懐かしいと思ってしまうのはなぜだろう。芋づる式に北斗くんとおばあちゃんを連想してしまうからだろうか。熱すぎず香り豊かで飲みやすい。それに美味しい。あとで淹れ方を教えてもらおう。
 三毛縞さんも向かいに座り、煎餅片手に湯呑みを弄んでいる。

「聞いたぞお。『ES横断企画』とはまた、面白いことをやっているなあ。メンバーの人選はあんずさんが?」
「そうですね。出版社の希望もありますけど、最終的には私が」
「それらしい企画があると小耳に挟んだときは、どうなることかと思ったけどなあ。聞いた感じ大きなトラブルも起きそうにないし、薫さんに千秋さんもいれば安心だろう。ど〜んと大船に乗ったつもりでいるといい! 何も心配はないなあ!」

 差し出されたおかきを一口いただいて、かじる。ほのかな塩味を、まろやかなお茶の苦味が包みこむ。ため息が漏れた。

「……そう思ったんですけど。意外と難航しちゃってます。光くんとか、女のひとが喜ぶような遊びかたがわからないって」
「ああ、それはそうかもなあ……。体力があり余ってるからといって、自分だけ楽しいことばっかりするわけにもいかないだろうし」
「三毛縞さんだったらどうしますか? 参考までにお聞きしますけど」
「俺かあ? 俺はあんずさんとお出かけできるならいつでもどこでも楽しいぞお!!」

 にっこり笑顔で返されて、ガクッと力が抜けた。そういう話はしていない。

「参考にならない……ええと、雑誌の読者層的には私よりちょっと上です。ファッション誌の企画で、商店街ともタイアップしていて」
「ふ~む?」

 具体的な情報を出すと、考えてくれるつもりになったらしい。斜め下に視線を落として、すっと真面目な表情になる。節くれだった指を湯呑みに添えて、左腕で頬杖をついている。夏の終わりの陽光が、ガラスを透過して斜めに降り注いでいる。アイドルにふさわしい横顔。
 三毛縞さんが、ファンの女性の喜ぶようなデートプランを、考えている。
 目の前のひとが、年上の女性と腕を組んでお出かけする姿を思い描こうとして、湯呑みに口をつけた。……苦い。底にこまかな澱が沈んでいるせいかもしれない。光が目にしみて顔を上げられないのは、夕映えにきらめく川面が美しいから。

 ……『MaM』のファンってどういう層が多いんだったっけ。年齢性別関係なくばらけているので明確なターゲット層がこれ、と言い切れなくて難しい。それはすなわち、私がまだ未熟で『MaM』を理解しきれていないということでもある。
 一年前の春。何もわからないまま、スバルくんたちの手を取り駆け抜けた革命の季節、あの日から私もみんなもいつの間にか、ずっと遠いところまで来てしまった。私はもう、右も左もわからない転校生じゃない。三毛縞さんに頼ってばかりの素人プロデューサーじゃない。未熟なりに挫折も後悔も悪意の罠も乗り越えて、転びそうになってもみんなに手を引いてもらえたから、一年前より成長できたと思っている。
 昨年暮れの挑戦状を忘れたことはない。独りで漕ぎ出そうとするこのひとを、いつか私がもっと、輝けるステージへ連れていきたいのに。三毛縞さんが手を取ってくれないのは、きっと私の側に足りないものがあるから。お茶を受け渡しする時にしか触れないくらいの、薄い壁と距離がある。

「あんずさん。……思うんだが」

 静かな声に、顔を上げる。三毛縞さんの表情は大きな手で頬杖をついているせいで、よく見えない。川面を見つめている。

「こうやって質問して回るのもいいが、君も実際にデートというものを体験してみるべきなんじゃないかなあ。百聞は一見に如かずと言うだろう。女の子ならではの視点で実感のこもったアドバイスができれば、みんなも助かるんじゃないかあ?」
「なるほど」

 感心して頷くと、三毛縞さんがゆっくりとこちらを見た。微妙な顔をしている。

「うん。立場が気になるなら『アイドル』以外の誰かがいいんだろうが……ともあれ、君に声をかけてくれる人がいたら、人生経験だと思って積極的にお出かけしてみるといい。あんずさんから声をかけたっていい。仕事も大切だが、今の君はまだ高校生で、子供でもあるんだ。今しかない青春を満喫するべきだろう……と、いい感じに話がまとまったところで、閑話休題! そろそろ会議の時間だぞお!」

 唐突に手を打ち鳴らされて、ビクッと震えた。時計を見る。10分前。ちょうどいい頃合いだ。
「あ、はい。お茶、ごちそうさまでした」
「お粗末さまでしたあ! うんうん、ぜんぶ飲んでくれてママは嬉しい! よおしよしよし☆」
「や、やめてください」
「おっと失敬! ふふふ、髪がぐしゃぐしゃだなあ。ママが整えてあげよう……ちょいちょいっと。うん、これでよし☆」
「もう……。お話聞いてくださって、ありがとうございました」

 乱された髪を自分でも整えて書類をまとめる。ぺこりと頭を下げれば、いつもの笑顔で三毛縞さんも手を振ってくれた。
 薄暗い窓のそばで資料を配りながら、そういえば三毛縞さんのデートプランを聞きそびれてしまったなぁと気づく。はぐらかされただけのような気もする。……なのになぜだか、温かな緑茶を手にしたときみたいにほっとしていた。あまり知りたくないと思うのは、なぜだろうと考えかけて、ざわつく気持ちに鎖をかけて蓋をした。
 蛍光灯の下、重ねられたデートプランの資料がセピア色に鈍く光っている。

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「AtoZ」のイベントと「ニュー事務員」のストを読んで衝動的に書きました。明らかに仕事関係を越えた執着があるのに、お互いそれを表に出さずに封じ込めたまま一緒にいるの好きです。