君の帰る場所

 始業1時間前のESビルは朝靄に微睡んでいる。淡い光が窓枠のかたちに影を落としている。7階フロア応接スペース、スマホを肩に挟んだ男だけが椅子にもたれて騒がしい。

「……はい、三毛縞です! おはようございまああああす! 天高く馬肥ゆる秋! あんずさんも清々しい空気を胸いっぱい吸いこもう! ……はは、ごめんごめん。声が大きかったなあ。ああうん、寮じゃなくてニューディの事務所にいるぞお。うん、うん……」

 数十分後。

 斑が掃除機をかけ終えて給湯の準備をしていると、チリン、と音がした。エレベーターのドアが開く。はたして降りてきたあんずは、斑を見つけると顔をぱっと明るくして、小走りに寄ってきた。

「おはようございます!」
「おお……やけにご機嫌だなあ。どうしたんだあ、朝からママに用事とは珍しい」
「あの、三毛縞さんに、『Double Face』の企画書を見てほしくて」

 息を弾ませて鞄を漁ろうとして、留め金を外し損ねてスマホを落とす。あんずにしては慌てている。仔細は不明だが「とりあえず落ち着こうなあ」と苦笑して、応接椅子に座らせた。
 信楽焼の湯呑をふたつ、深緑の鮮やかな茶葉に漆の菓子鉢。昨今の電気ポットは優秀だ。5分も待てばすぐに適温の湯が出てくる。
 あんずはクリップに挟んだ書類を斑の席に、コピーを自席に用意してから、手元の液晶パネルを人さし指でとんとんとん、とタップした。湯気のたった湯呑がふたつ置かれると、目をあげてぺこりと頭を下げた。斑が椅子を引いて、斜め前に座る。

「……今、ホールハンズにも送りました」
「どれどれ。ふむ、ESは【マーブルキャスト】が終わったばかりで、後処理に追われてるんじゃないのかあ?」

 資料をぱらぱらめくってみると、まったくきな臭い情報は含まれていない。ごく普通の企画書である。最後まで目を通し、当惑してあんずを見た。

「 『Double Face』としての企画だろう?」
「はい。ライブの企画書です」

 明らかに機嫌がいい。斑は瞬いてから苦笑する。

「う~ん……。【マーブルキャスト】では仕方なく君に頼らせてもらったが、俺たち『Double Face』はちょっと特殊なユニットだし――」

 言葉を切って、お茶をひとくち。深い香りに睫毛を伏せる。旗色の悪さを感じただろうあんずも、遠慮がちに湯呑を口につけている。

「そもそも。本来ならあんずさんは、俺だけに構っていてはいけない立場だろう。……GFKの件は片付いたわけだし、忙しい君にこれ以上頼るのは申し訳ない。気持ちはありがたいけどなあ――」

 企画自体は彼女らしく愛にあふれたものだった。ミステリアスさを損なわず【マーブルキャスト】で興味を持ってくれたひとたちをより深く惹きつける。興味がないといえば嘘になるが、彼女に負担をかけてまで開催すべきとも思えない。

「で、でも。今、私が忙しいのは、ニューディ立て直しのお手伝いをしているから、なんですよ」
「ふむ?」

 あんずがコピーの企画書を膝上で握り、斑を見据え、待ってましたとばかりに言い募る。軽く眉をあげた。何やらリハーサル後の本番といった趣なので見守ってみる。

「『P機関』の私が、ニューディ期待の『新ユニット』を支援するのは当然です。何もおかしくありません」
「……ほっほう。確かにそうだ。おかしいことじゃないなあ。うんうん」

 机に両肘をついて長い指先を合わせた。出方を待つのは楽しい。
 あんずはいたって真剣だが、九九を暗唱しているみたいな物言いがどうしたって滑稽なので頬が緩む。

「それに、不穏な噂のある番組にばかり出ていたら怪しまれます。ダミーでも表向きには定期的に活動しておいた方がいいと、思って、……笑わないでください!」
「ふっ、ふふふ。ははは! あんずさん、口実も一生懸命考えてくれたんだなあ……! 偉い偉い☆ 大義名分、何事も建前は大事だぞお!」
「三毛縞さん!」

 耐えきれず笑いながらわしゃわしゃ撫でたら、頬を染めて抗議された。「怒った顔も可愛いなあ」と呟いて、口を噤む。……想定外の声色になってしまった。
 やわらかな髪を梳いて手を離す。椅子をすこし引いた。

「いや、失敬失敬。実際、顔を売っておくのは大事だ。――とはいえ俺は暇だから企画に合わせてスケジュールも組めるが、『Crazy:B』にも彼らの活動予定があるだろう。俺よりも、こはくさんの都合を優先してあげてくれ」

 アイドル業界を派手に巻きこみ炎上した彼らは現状、奈落の手前、一本の綱の上にいる。綱は頼りなく、汚れていて、細い。いつ切れるともわからない綱を、彼らは四人手をつなぎ、笑いながら渡りきらねばならない。
 いっときでも、背中を預けられて嬉しかったから。あの子の邪魔をしたくはないのだ。

「こはくさんには、帰る場所がある。俺にはなくてもあの子にはある。あんずさんにとっての『Trickstar』もそうだろう。誰にでも優先順位があって当然だ。……『Double Face』で活動するのは楽しかったが、あくまで裏の顔に過ぎないしなあ」
「楽しかったですか?」
「うん。俺はいつも独りだったし――二人で戦うのは新鮮だった。探偵みたいなこともできたし。昔憧れたテレビのなかのヒーローみたいで嬉しかったぞお♪」
「探偵……ええと、こう」

 あんずが、ばきゅーんと人さし指を向ける。なかなか似ている。斑も真似をした。指の角度まで完璧なはずだ。仕上げにウィンク。

「『お前の罪を数えろ』! ははは、『ダブル』フェイスだけになあ」
「……良かった」

 斑を見つめてから、あんずが微笑む。そして思い出したように服の裾を引いた。

「でも。三毛縞さんにも帰る場所、ありますよ」
「うん、鍵を失くして入れないだけだなあ。いやあ困った、五里霧中! 独り住まいだったから、誰も合鍵を持っていないぞお?」

 冗談めかして笑いかけたのに、瞳は心配そうに揺れる。あまりにまっすぐ斑を見つめてくれるから――手のひらで覆って、目を閉じさせたくなる。だから、笑うことしかできない。

「大丈夫だ、あんずさん。そんな顔をしないでほしい。ちょっと寂しいだけで、俺はぜんぜん平気だからなあ」

 両手を塞ぐために、菓子鉢から煎餅など出してみる。海老煎餅。幼なじみが喜びそうなパッケージだ。透明な袋の端のぎざぎざを互い違いに向ければピッと破れて、煎餅が顔を出す。
 ……奏汰の笑顔か、アイドル『MaM』の生命か。どちらかを選べばどちらかを失う、明々白々な分かれ道だった。それでも三毛縞斑は神さまを人間にしたかったし、人生を100回やりなおせても100ぺんおなじことをするだろう。自分ひとり寂しいくらいはいっこうに構わない。
 海老煎餅をかじりながら、秋晴れの街並みを眺める。山の向こう。海の果て。

「……いつか。世界じゅうのお祭りで歌って踊って、お客さんが笑ってくれたら幸せだろうなあ。だが今の俺は『MaM』としてはほぼ活動休止状態だし――両親と折り合いが悪い現状、動きたくとも動けない。自業自得。コネに頼って、人脈開拓を怠っていた俺も悪い」
「……っ、だから、」

 あんずの結った髪の先が揺れる。膝元の企画書を掴む手に力をこめている。
 斑の吊り目が、色を深めて細くなる。

「うん。それでもいつかは道が開けるから、今は求められた姿で頑張ってほしいと。あんずさんはきっと、そう言いたかったんだろう?」

 あんずが目を見開いた。頬を染めて何度も頷いている。首がもげそうだ。
 束ねられた企画書を手に取り、改めて書面に目を落とす。彼女の仕立てる衣装と同じ、細やかで丁寧なつくりだ。朝から、居てもたってもいられずに電話をかけてくるくらい、想いがこめられた紙の束。

「……有り難う、あんずさん。じゃあコンセプトはこのまま、その代わりライブじゃなくて――撮影とか広告とか、そっちの方向性で売るのはどうだあ? 顔を売るにはいいだろうし、時間の都合もつけやすい。もちろんこはくさんの希望も聞いたうえで……」

 顔を寄せ合い、企画を練る。
 出勤するスタッフが増えて、事務所もざわつき始める。二人の頬を照らす日が雲に隠れて、一瞬陰った。

 ――やがて空が赤くなり、日が暮れる。
 星奏館への帰路、見逃しそうな狭い路地裏に、影がもたれている。

「斑はん。『Double Face』にまた、仕事の依頼が来とるで。受けてもええか」
「もちろんだぞお」

 横目で合図し、囁きあって、すれ違う。

 アイドルの帰る場所はいつだってステージだ。はぐれものには、憧れの太陽も遠い星も、いつだって手の届かない明かりなのかもしれない。……けれど、諦めたくはない。
 それに、――いつか一緒に帰ろうと、必死で手を引く無垢な少女の温もりと愚かさを。嗤いながら、胸に抱いていくのも悪くない。

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「探偵」「ダブルだけに…」のくだりは仮面ライダーWです。(これを書いたのは『骨董綺譚』前なので、がっつり拾われてヒってなりました。やはり元ネタなのでしょうか)