おやすみ、と、その名を呼んで
「どういうつもりだあ? 『プロデューサー』さん」
「何のことですか」
ESビルの明かりに照らされた夜空に、一等星だけが輝いている。ガラス張りのニューディメンション事務所、スタッフもまばらな窓際には事務仕事中の少女が一人、その横には腕を組んだ大きな背中。
「なんでも、聞くところによると、新人研修を担当したのは君らしいなあ?」
【骨董市】の成功により、『P機関』は潤沢な資金を得た。風が吹けば桶屋が儲かる。資金援助を受けてニューディの事務所にも事務員が増えた。何かと仕事を干されがちな三毛縞斑は事務員の仕事も兼任しているから、どうしたって新人事務員たちと話をする機会が多くなった。
そして。彼らが帰った今、斑が相対しているのは『P機関』の少女、あんずだ。
「研修は統括だけです。最初にビルの案内をしただけですよ」
あんずは事も無げに応える。
眉を寄せた斑から顔を背け、ふたたび机に向かう。角封筒から書類を出して目を通し、手帳を開きメモを取る。仕分けする。斑は差しだされた空封筒を受け取ると、壁際のリサイクル棚に差しに行く(事務仕事が板についている)。電灯がちらつく。
再び彼女の側に戻り、背をかがめて小声で続ける。
「……俺と君が『幼なじみ』だと新人の子たちに話したのは『プロデューサー』さんだろう。忠告するが、わざわざ聞かれもしないことを触れ回るのは君の仕事のためにならない。そもそも、言ったはずだよなあ、本当は、俺は――」
「だって」
あんずが、不意に遮る。決して大きい声ではないのに、無視できない力強さを持っていた。
「三毛縞さん、よく意味もなく嘘つくじゃないですか。だから、『それ』も嘘なんですよね」
硬い声だ。頑なに手元を見ている。山のような書類を仕分けしては揃えている。
「……私は、嘘なんかついてません。三毛縞さんに教えてもらったとおり『昔仲の良かった幼なじみ』だってお話しただけです」
「君は覚えていないだろう」
「でも、そうなんです」
「……あんずさん!」
斑が机に手をつき、事務机が揺れる。書類の山がひとつ傾いだ。
あんずが顔をあげた。
青い海のように、澄んだ瞳。
斑も苛立ちを忘れ、見返した。
「…………」
目を逸らしたのは斑の方だった。
崩した書類を揃え直してからあんずに無言で渡し、踵を返し事務所を出る。他に残っていた数名のスタッフが、お疲れさまです、と背中にねぎらいを寄越す。
「……おやすみなさい。三毛縞さん」
訓練された斑の耳は鈴のような囁きを聞き分ける。余計な機能だ。エレベーターの下降ボタンを拳で押す。
(……やめてくれ)激情に駆られて距離を取るのを忘れただけだ。以前のように名前で呼んだだけだ。優しさも愛も労りも添えずに、彼女を威圧するための――脅し代わりの一言だった。間違っても、彼女を喜ばせたくて、「あんずさん」と口にしたわけじゃない。なのに、
(そんな――嬉しそうな顔をしないでくれ、頼むから)
振り返らずとも、磨き上げたエレベーターの扉は事務所の光景を鈍く映している。
あんずが振り返り、斑の背中を見つめている。
窓の外の一等星には目もくれず、三毛縞斑の背中だけを。