ボーナス・ルーム
うららかな秋晴れの空から、廊下に光が注ぐ。
昼どきには幾分遅い時刻のESビル19階、レスティングルーム。
単独の仕事を、いつになく好感触で終えた今、春川宙の足取りは軽くハミングも蝶のように舞っている。
「HaHa〜♪ HiHi〜♪ ……んん? あれは……」
くるり、半分ターンして、回りすぎた手足をぴたり。首を傾げると、薄色の癖毛がひょんと揺れる。
パーテーション越しでも後頭部でそれと見分けられるほどの長身、包みこむように暖かで力強い『色』。床の何かを拾っているのか、編み込みの毛先が沈んで、また戻る。
宙は「巨人さん!」と声をあげかけて、最初の「き」で口をつぐんだ。……肩越しに振り返った三毛縞斑が、
(静かに)
と。指を一本、唇中央に添えて、意味ありげに宙を見たからだ。
「……」
素直にこくりと頷いて、静かな足取りで斑の背もたれまで辿り着き、広い肩越しにソファを覗きこんだ。斑は足下に散った紙を拾っている。
そして――大きなからだの影になるように、ソファに沈んで寝ているスーツ姿の少女がいる。疲れた『色』の『プロデューサー』。
斑は伏目で書類を選り分けながら片目を瞑り、手振りで向かいの席をすすめた。宙はパーテーションをひょいと乗り越え、背もたれ付きの椅子に座る。
「(ひそひそ声で)こんにちは! 知ってる人に会ったら挨拶をします! 『巨人さん』、いいことありました? 今日はとっても優しい色な〜♪」
「ははは。……どうだろうなあ」
斑は眉を下げて笑った。
「ともあれ宙さん。この部屋に来た、ということは、しばらく急ぎの用事はないのかなあ」
「はい、宙は今日はもうお仕事がありません。でも、事務所に寄って報告はしなくちゃならないな〜。報・連・相は社会人の基礎呪文だって、せんぱいが教えてくれたので」
「ははは、違いない! 俺はしょっちゅう忘れて怒られるけどなあ……」
斑は、ふむ、と言葉を切って、顎に手を寄せた。
「……だったら3分だけでいい。俺はもう行くから、3分後にこの子を起こしてあげてくれ。女の子がひとりで、こんな場所で居眠りしていたら危ない。たまたま、たいした仕事でもなかったから気を抜いてしまったんだろうけどなあ」
うららかな午後の陽射しがテーブルのへりを白く照らす。骨張った手が拾い集めた紙束を叩いて揃え、ファイルの横に置く。
「居眠りしてしまうくらい根を詰めるのはどうかと思うぞお、……あんずさん」
表情は穏やかなのに、視線だけが不自然なまでに、あんずから逸らされている。 宙は浮いた足先を交互に揺らした。
(宝箱を見つけたのに、とらずに閉じているみたいです。もったいないな〜)
水面に混じる血の雫みたいに、斑の『色』の表層は澱み、濁る。
なのに奥底の光は今もまだ透きとおっていて、燃えている。ゆらゆら灯る、綺麗な焔。――宙は、よく似た炎の『色』を、大好きな人たちの中にいつも見ている。
どんな魔法にも、属性と効果範囲が必ずあるから。宙は、痛む傷をかきまわして治す魔法を、まだ使えない。使いたくても使い方がわからない。魔法使いへの道は遠いのだ。
「レベルが足りません……難しいな〜?」
「うん? それと、これはできれば、で構わないんだが……俺がここにいたことは彼女に言わないでほしい」
「HaHa〜……内緒ですか? 『巨人さん』は、その方が楽ですか?」
首を傾げて見上げた宙のからだがぐんと浮く。花のような笑みはいつの間にか視界の下方、脇をしっかと大きな両手が支えている。
「恐悦至極! いい子には高い高いしてあげようっ、ありがとう宙さん!」
「わっ、うわわっ。あんずが起きちゃうから静かにな〜?」
ぶんぶんと上下に振り回されて、宙は慌てて人差し指でしいっと合図をした。
「……おっと失敬、俺はどうもこの手の気遣いが苦手でなあ。よぉしよしよし、痛いところはないかあ? それじゃあこのお礼は寮室で……と言いたいところだが、うーむ。今夜は所用で帰りが遅いからなあ……。まあ一度寮に帰って着替えるつもりだし、宙さんの喜びそうなものを枕元に用意しておこう! ママサンタのサプライズをご期待あれだ!」
一息にそこまで言うと、構えた指で宙を射抜いてウインク、踵を返す。
「ではでは、ばいばああい☆」
新たに休憩に来た数人とすれ違い、斑は嵐のように廊下奥に消えた。春風が雲を不意に押し流すように、角から黒雲が渦巻いた気がして、宙は思わず目を擦った。
「……」
力強く持ち上げられた宙のからだと、あんずの前に揃えられた書類には優しい色しか残っていない。
――だから、せめて優しい魔法が解けないように。
――甘い匂いで、目を覚ます。
暖かさは夢だったのだろうか。気配を辿って見上げても、あんずの横には誰もいない。代わりに斜め横から、机に影が落ちている。
あんずは覚醒し、はっと背を起こした。
「HuHu〜♪ 『プロデューサー』、おはようございます!」
すぐ目の前。
紙コップを両手に、小さな春が、にっこり微笑んでいる。
「あ、あれ? 宙くん、あの」
あんずは、きょろきょろとレスティングルーム内を見回した。休憩中の者。遅めの軽食を取るスタッフが数名。そして、宙とあんず。
「『プロデューサー』がお昼寝していたので、宙が見守っていました! ホットチョコレートな〜。どうぞ! 甘いものには心を癒す魔法があります!」
「あ、ありがとう……?」
紙コップを受け取ると、手のひらがじわり熱を帯びる。ひとくち含むと、チョコレートの香りがふわりと鼻に抜けた。ほうっと、心がほぐれる。
「さっき、ここに誰か、いなかった?」
「いいえ。宙だけです!」
宙は、きっぱりしすぎるほどに、ぱっと笑った。
壁の時計はほとんど進んでいない。安堵の息をついて、改めて宙を見る。頬を照らす光が穏やかで明るい。優しい優しい、魔法使いの杖から滲む淡い光のようだった。
机上の書類を手にとった。床の汚れ。折り目。順番が変わっている。うつらうつらしていた記憶と照らし合わせて……肩を落とした。今日は早く寝よう。うたた寝したせいか、ホットチョコレートの魔法なのか、不思議と疲れは取れているけれど。
「資料も、落としちゃったんだね。揃えてくれたんだ。ありがとう」
「それは宙じゃ……あっ。間違いました! 今のは忘れてください! 対応の想定が万全ではなかったので、初歩的なエラーな〜。宙が拾っておきました!」
「う、うん?」
改めて書類をファイルに戻し、膝に置く。足元には光。
覚えのある、気配。懐かしい声。崩れ落ちた背を支えた、大きな手の記憶。夢を見ても、現実にはなりえない。大丈夫だ。……ちゃんと、わかっている。もう、隣で見守ってはくれないことくらい。
ゆっくりと飲み干した紙コップの底には、切れた円を描くようにココアの茶色が未練がましく残っている。甘さの魔法。心を元気にする魔法を、頼りないからだに取りこんで、何度でも立ち上がらなければいけない。
(でも、まだ。……まだ、負けて、ない)
光が陰り、顔をあげた。
宙が距離を近づけて、優しく微笑んでいる。
どうぞ!と手を伸ばされたので、流されるままに腕を引かれて立った。くるりと回って、踊るみたいに位置が変わる。目を白黒させていると、宙は手を離してパーテーションの上にひらりと飛び乗り、バランスを崩すことなく手を広げた。ととと、と走ると廊下の入り口で飛び降りて、ひらり、あんずを振り返る。
「HaHa~♪ 10点満点!」
「危ないよ」
あんずは苦笑した。休憩中のスタッフたちは目を丸くしている。
紙コップを片付けてから、待っていた宙に追いつき、ともに歩く。
「あんずはこれからどうしますか? 宙は今から、ニューディにお仕事の報告に行きます!」
「出先で営業……あ、でも、その前にニューディに寄ろうかな。確認したいことがあって」
「じゃあ一緒に行きましょう。HuHu~、ひとりじゃないから嬉しいです! 実は、個人のお仕事の報告はまだ慣れてないから、宙はちょっと不安でした」
「宙くんのお仕事、評判よかったから大丈夫だよ。頑張ろうね」
秋の空が高い。陽の光に散らされ見えなくなっているだけで、手の届かない雲の向こうに、今も無限の闇は広がっている。
――『Double Face』の予定は把握できている。見失わないように、勘づかれて逃げられないように。一見たいしたことない雑用仕事を請け負いながら、ニューディとのつながりを保って、距離を測って。立ち回りが人一倍苦手な自覚はあるから、慣れないことで根を詰めすぎてしまったけれど、それでも。
「……私も、頑張る。『プロデューサー』だから」
あんずはそっと呟いて、胸元の書類をきつく、抱いた。