我が侭、自惚れ、夢ひとつ

 歌う声は飛んでいくよ、輝き始めた星の空へ。街で聴いたジングルベルが耳にこびりついて離れない。息は白く、星が輝くどころか曇天からは初雪が舞っている。まだ師走手前だというのに、世間も寒気も気が早い。
 久々に見上げたESビルの輝きはイルミネーションにも劣らずだ。

 チン、とエレベーターが到着を知らせた。
 上層階。
 冷気とは無縁のフロアだった。
 ふわり舞う雪がガラス張りの窓に触れて溶け、たちまち水滴となる。普段着にふさわしくない絨毯が敷かれているが、長い廊下を広い歩幅で構わず進んだ。扉を二つ過ぎ、五つ過ぎ、――角を折れた廊下の奥。
 小さなシルエットが椅子に掛けている。大窓からの淡い斜光が途切れた先の、薄暗い扉の前。空調の風を受けてほつれ髪が揺れていた。――かわいい、ちいさな。

「『プロデューサー』さん」

 幼さを残した少女は、ゆったりと顔を上げて、暗がりから斑を見る。言葉もなく見つめあった。
 痩せてはいない。……血色も悪くない。表情にも暗いところはなさそうだ。

(……よかった)

 知らず知らずのうちにため息が漏れた。彼女は顔に出るたちだから、この様子なら何も心配なさそうだ。
 あんずが静かに瞬く。

「……『お迎え』って」
「はは。俺のことだなあ」

 踏み込んだ。光の境界線を踏む。両手を上げる。害意のないことを示すジェスチャー。

「『ゲートキーパー』のお使いだぞお。応接不暇というやつでなあ、無事に彼の元まで君を送り届けるのが俺の役目だ」
「三毛縞さんが……」
「うむ! 短い間だがよろしく頼む!」

 実のところ、お迎え役を三毛縞斑が担う必要は一切なかったどころか『ゲートキーパー』の意に沿わないにも程があったのだがそこはそれ、手練手管を駆使してかなり強引に承諾させた。見返りに何を要求されるやら恐ろしいが、まあSS予選は終了しているし予防線も張りめぐらせてある。

「聞いたところ、かなり不自由な状態にあるらしいが。何もされていないかあ?」

 疑問系だが実際は殆ど確認だ。約束は守られているはずだ。そうでなければ困る。
 あんずはスーツの埃を払い、小首を傾げた。

「されましたよ。ひどいこと」

 立ちあがり斑を見上げて、眉をひそめる。

「……」
「聞いてないんですか?」
「ほう」

 両手がゆっくりと重力に従った。鷹揚に頷く。アドレナリンが分泌され瞳孔が開く感覚。

「……そうかあ」
「……ぁ」

 あんずが斑の殺気を受けて、怯えたように言葉を切った。まずいぞとこの上なく冷静に考える。笑顔を作ろう、仮初にでもアイドルならば。今さら優しい幼なじみのお兄さんぶっても仕方がないのはわかっている、さりとて無用に怖がらせたいわけでもない。

「よおしわかった! それ以上話さなくていい。ただちょっと『ゲートキーパー』の背骨を三つ折りにしてくるだけだからなあ、あんずさんはここで待」
「――あの!」

 振り絞った叫び声とともに服の裾を引かれた。正気にかえる。まったく冷静ではなかった。俯く彼女の指を見る。

「……そうじゃなくて、あの、」

 空調に揺れるつむじの毛。あんずの表情は見えない。縋る手は小刻みに震えている。やはり見せるべきでない顔を見せてしまったのだろう。

(それに。俺は君を閉じこめた男と同じ側だしなあ)

 ならば彼女はいますぐこの手を離すべきなのに。
 靴を覆う絨毯に、目を落とす。
 はたして震える指先が一度離れ、細い喉が鳴る。すうはあ、すうはあ。深呼吸までして、無口なあんずが懸命に言葉を探している。

「……無理に話さなくていいぞお」
「……て、くれなくて」
「うん?」

 触れようとした手を弾くように、あんずが勢いよく顔を上げた。ブラウスの袖から伸びた薄い手首が意を決したように斑の肘をグッと掴む。

「だから!……許可してくれないんです、お裁縫っ!」
「…………お、おお」

 彼女の目に映る己はこれ以上ないほど目が丸くなっている。

「スマホを管理されてるのは、その、取引ですから。わかりますけど……針は、凶器になるからだめって。何もしないのに。ペンも紙も、だめで」
「あ、うん」

 それはそうだろうなあと思ったが素直に口に出すのはまずいということくらいは理解できるので黙って頷く。

「みんなの状況も……駆け引きみたいなことしか教えてくれないし。だから、ステージの話がほとんどわからなくて。あのひと、アイドルが嫌いみたいなので」

 思いのほかあんずの声は落ち着いていた。かと思うと強く睨め上げてくる。気圧されて怯んだところをぐいぐいと引かれて、光の届かない絨毯に踏み戻る。生ぬるい空調の風が頬にあたる。

「ええと。その様子だと…『ゲートキーパー』と俺が組んだことは聞いたんだよなあ」

 恐る恐る訊ねた。こくり、と顎が上下する。

「君には正直もっと責められるかと思っていたんだが」
「……どうせ」

 顔が険しくなる。唇を尖らせているのはかわいいけれど、思っていたのと違う。

「アイドル嫌いな偉いひとより、頼りがいがない『プロデューサー』なので。しかたないですよ」
「えっ。そうかあ……そっちに行くのか」
「まだあります、聞いてください」
「はい」

 誤解は解いておきたかったのだが。あんずが腕を引き続けるので屈まざるをえない。

「私。『SS』、すごく、楽しみにしてて」
「うん。そうだなあ。いっぱい計画していたよなあ」

 まだ無邪気に話せた秋の始まる手前の日。まだ詳しいことは言えないんです、とはにかみながら、隣で話してくれたこともある。光の中で笑っていた、横顔。もう隣にいられないのが、今さらながら口惜しい。

「やりたいこと、いっぱいあって」
「うん」
「ステージだって、せっかく全国いっぱいに使えて、だから」

 あんずの声が詰まる。

「みんなに。……いろいろ、してあげたくて、もっと、」

 目を伏せ、空いた手を彷徨わせる。
 何度かためらい、肘を掴む手に力をこめず触れると、重ねた手肌に、小さな雫が落ちた。伝う雫は一滴、二滴、止まることがない。

「そうだよなあ。君は『プロデューサー』だ」

 頷き、しゃくりあげる肩をできることなら抱き寄せたかったけれど、三毛縞斑には、一生その資格がない。
 額を預けられた二の腕に染みる涙が温かい。

「……いっぱい、あったのに」
「うん」
「ひとつも……、できなくて」
「……そうかあ」
「悔しいです。…………悔しい……悔しい。私」

――『プロデューサー』は。彼女は、ひどいことを、されたのだ。

「うん。ひどいなあ」

 呟くと、何度も何度も頷いた。
 怒っているのだ。あんずは。
 そんなときに、彼女が引き合わせてくれた頼もしい相棒に手を引かれ、ESなんて関係ないと慕ってくれた多くのアイドルたちの手を引いて、幸せにステージに立っていたりしたわけだ。――三毛縞斑は愚かで、何も見えていない阿呆で、相棒が事あるごとに怒り狂うのも無理はないのだった。

「……お時間を取らせてすみません」

 鼻を啜り瞼を擦り。ちいさな手から覗いた青い瞳が和らいで、もう大丈夫です、と微笑った。斑は目を合わせず頷いた。  雪の舞う大窓を横に廊下を歩く。ぽつぽつと。輝き出した星の空へ歌が飛ぶように、果たせなかった夢の舞台を語る声を聞く。

(本当は、君に話したいことがあったんだ)

 五十人もの人が三毛縞斑と仕事がしたいと手を挙げてくれたこと。相棒にこっぴどく叱られたこと。独りぼっちじゃないとようやく思えるようになったこと。駆け引きめいて組まされた『Double Face』を今の斑がどう思っているのかということ。薄汚れた聖杯をめぐるわけのわからない予定不調和の流星群を、死なずに生き延びることができたなら三毛縞斑がやりたいこと。
 けれど今は彼女の話を聞いていたい。ちいさなかわいいあんずさん。陰謀渦巻く理想郷で懸命に愛を紡ごうとあがき続ける『プロデューサー』。無口な彼女の、貴重な熱弁を。

「あんずさん」
「はい」

 あんずが目を見開く。エレベーターの下降ボタンを押すと、数字が変わっていく。

「『SS』予選中、ずっと考えていたんだが、ひょっとして君は」

 手を汚して、泥まみれで、優しくなんかない、幼なじみですらない三毛縞斑を追いかけて、地下ステージの暗がりまで来てしまった優しい子。けれど、ひょっとして君が、ずっとずっと三毛縞斑によくしてくれたのは、独りぼっちの俺を心配してたからじゃなく。九州にいた五十人のアイドルたちのように、ただ――

「いや、何でもない」

 雪舞う空を仰ぐ。ガラス窓に映るあんずは斑を見上げている。
 ガラス窓に伝う雪解け水は星のように煌めいて、涙のように滑り落ちた。

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