健やかなるときは
音響の切り替え、天使のポップチューン。愛おしい兄の歌声が、彼女を祝福し送り出す。重厚な扉が開くと、歓声が沸いた。青空に散る花弁を、タキシードに包まれた腕を抱いて仰ぐ。
祝福の鐘が鳴り、眠りに落ちる前の海鳴りに似た参列客の「おめでとう」が幾重にも降りそそぐ。
手を振る?
笑いかける?
それとも、
「もうギブアップかい。案外早いね」
「……っ!」
愛の囁きに偽装した、甘く蕩ける声音は効果覿面だった。
よろけるふりをしてたっぷりふわふわレースまみれのドレスの下、ヒールで思い切り新郎の足を踏む。
「……!」
抱く腕から強張りが伝わったことに満足し、参列客に手を振り笑いかける。着火剤は過剰すぎるくらいがいい、微笑みに愛に似た熱を込められるから。さすがは本職、隣では同じように手を振っているが、顔色も表情もまったくぶれがない。新婦が気を失いかけたことも、新郎が足を踏まれたことも誰も気づいていないだろう。目を合わせてそっと微笑み合い、式場の外階段をしずしずと降りていく。
海風。潮騒。
空へと吹き流されていく天上のオーケストラ。fineのウエディング曲。モラトリアムの終わり。控室への扉をくぐり、背後へもう一度手を振って。セレモニーはまだ序盤。誓って、披露して、披露して、披露する。文字通りのお披露目は新郎新婦の義務だった。
ひんやりした革張りのソファに沈み、もたれあって目を瞑る。
「ふふ……」
「何がおかしいの」
「僕たちに『健やかなるとき』なんてあるのかな」
新婦は気怠げに瞼を薄く開けて、また閉じる。十分後には写真撮影に呼ばれるので休息時間を無駄にはできない。
「……『貧しいとき』もないでしょう」
「事実そうだろうね。だからこそ五回も披露宴がある。パートナーがかわいい君じゃなければ退屈のあまり雛壇でうっかり死んでしまうかもしれない」
「そう。死ねば?」
「そうしたら、参列していただいたお歴々とは鯨幕での再会になるわけだ……☆ 敬人は青褪めるだろうねぇ、それはそれで楽しそうだ」
「寝させて」
「ごめんね。何か話していないと気を失いそうなんだ」
「ぶざま……」
「ふふ。お互い満身創痍だよねぇ、幸せな人生の門出だというのに」
床に散ったフラワーシャワーの花びらが点々と、血の跡みたいに続いている。
新郎は桃色の髪へ唇を寄せた。寝息はか細い。
「……妹ちゃん、君でよかった。心からそう思うよ」
祝福の鐘、青い空と海、ドレスの肩には花びら。遠い潮騒。式場の片隅で、死んだように目を閉じた新郎新婦は、天使のような純白をまとっている。