きみはリーダー
「――ぬしはん。真白友也クン」
ES設立から、幾度目かの春。の、まだ日も昇り切らない朝焼けの街路。まだ冬の気配をわずかに残して肌寒い。
Ra*bitsは紆余曲折ありながらも、今もまだどうかこうか「かわいい」と折り合いをつけて、アイドルシーンの一角を占めている。ESビルへと向かう友也の肩を、信号待ちの間につつく指先がある。イヤホン越しの呼び声に、一瞬遅れて気づいた友也は慌ててワイヤレスイヤホンに手を触れた。
イヤホン片手に振り返ると、菫色の目が彼をまっすぐ見つめていた。知り合った頃は同じくらいの背丈だったのだが、今では友也の視線がだいぶ高い位置にある。
個人的な交流の少ない相手ではあるが、当然名前は知っていた。ただ、咄嗟のことで、答えるまでに中途半端な間が空いた。
「……えっ、と。お互い早いな。『Crazy:B』の」
「そやね。わしが桜河じゃ」
おはようさん。と微笑む桜河こはくに、友也は思わず目を奪われた。
絹のような前髪が朝の光を淡く透かして、さらさらと薄桜色に透けている。妖しく色づく唇は笑みの形に綻び、腕を後ろで組んだ上目遣いはまるで年上の女性に出方を試されているようだ。
「……っ」
思わずどきりとした心音を自覚して、友也は激しく首を打ち振った。心の中で無意味に北斗先輩に謝ったりする。北斗だって謝られても困るだろうけど。
桜河は真顔で、右耳をとんとんと示してみせた。
「何や聞いとったんよね。邪魔したみたいで悪いなぁ」
「……い、いや、午後に台本読み合わせがあって、復習してただけだから、気にしなくていいぞ。それで、えっと」
「あぁ、実はな。さっきそこで、ぬしはん宛の手紙を預かってきたんよ」
「こんな時間に? 俺に? ありがたいけど、そういうの本当は良くないらしいぞ。ファンレターとかなら事務所に届けてもらった方がいいって知ってるだろ。別の事務所に顔を出しづらいなら、『プロデューサー』を通したりだとかさ」
指を振って先輩風を吹かせると、ひらひら手紙を掲げていた桜河がきょとんと眼を見開いて、軽く噴き出した。
「自分、しっかりしとるなぁ。良ぇね。なおさら安心やわ。けどファンレターとちゃうよ。『斑はん』の妹さんからやで」
「三毛縞先輩の妹さん? って、ぐ~ちゃんさんだよな? 光への間違いじゃないのか……」
だが、押しつけられた茶封筒には確かに『真白友也様』とある。天満光の名前はない。友也は封筒を裏表ひっくり返し、朝日に透かして、眉間の皺を深くした。封筒越しの青空を、小鳥がチュピチュピ鳴いて飛んでいる。
「何で俺なんかに……あれ?」
話しかけたつもりが、桜河こはくは影も形も見当たらない。見回しても、ひとりだ。朝の道路を往く、まばらな車の音。
渡るはずだった青信号が点滅していた。
指定されたのは、例のリハビリ専門病院ではなかった(イデア様の「かわいい」騒動が落ち着いた後、光に連れられてRa*bits全員でこっそりお礼に行ったのだ)。初めて訪れる近隣県の総合病院。
【入院患者さんとその御家族以外はここまでしか入れません】と注意書きのかかった病棟の仕切り扉があり、そこからエレベーター側に三歩戻ると、「面会室」と札のかかった金属扉があって、指定されたのはその部屋だった。自動開閉ボタンを押して間仕切りからそっと覗くと、カーテンを閉め切った面会室にひとり、『彼女』が車椅子に腰掛けていた。照明は豆電灯のみだ。
「この間のツアー、現地で観たよ。セトリ最高だった」
「あ、ありがとうございます?」
型通りの挨拶についで真顔で感想をもらったので、友也は目を白黒させた。
(なんでだよ。マジで俺が呼ばれる理由がわかんないぞ? あれか? 俺がもうじき成人ってことは、光とぐ~ちゃんさんもそうだし? つまり電撃結婚とか、ひょっとしてそのための根回しとか、いやでも光はただの友達って――)
「真白友也」
「はっ、はい!」
急に名前を呼び捨てられ、思わず背筋を伸ばす。
「こうやって一対一で、仕事以外の人間と会うのが良くないことはわかってる。ごめんなさい。これっきりにする。……でも、あなたにだけは言っておかなくちゃと思って」
カーテンの隙間から漏れる光に、兄譲りの猫っ毛が透けていた。前髪に隠れた瞳は昏く、迫力のようなものさえあって、友也は息をひそめて続きを待った。
すう。と、か細い息を吸う音がした。
「三毛縞真黒は、もうすぐ、永遠に光の前から消える。だから安心してほしい。そして、これはお願い。……光が何を言っても、絶対に探させないで」
「……え。えっ、永遠にってあの、どこか悪いんですか?」
心臓がバクバクと嫌な音を立てる。総合病院、という場所柄、そして今まさに撮影に入ろうとしている現場がいわゆる余命ものの二時間ドラマだったこともあって、恐ろしい予感に背中をつめたいものが滑り落ちていく。
しかし真黒は肩を竦め、あっさりと嫌な気配を振り捨てた。
「むしろ無駄に元気。光がリハビリ頑張れってしつこいから」
「え、じゃあ何で――」
「わかってるくせに」
くすり。と物分かりの悪い子相手のように笑われて、今度は冷えた頬が熱くなる。丸椅子に座ったまま、膝に拳を押しつけて、歯を食いしばる。
「……俺たちみんな、光の友達を遠ざけたりしないですよ。それに、そんな話なら、最初に光にすべきだと思います。何で俺に――」
「あなたがリーダーだから」
ウサギ柄の膝掛けの上に手をそろえて、真黒はただ、友也を見ている。
「『ゲートキーパー』を覚えている? あの年『SS』に出場したリーダーは、全員面識があるはずだけれど。……あなたも、そうだったよね」
予想外の名前に友也は固唾を呑み、四肢を強張らせた。忘れられるはずがない。
「世の中には、『ああいう生き物』がいる。けして日の当たるところに出てはいけない、でも確かに存在している人種が。それは、御伽噺で夢物語じゃなくて」
豆電灯が点滅する。
「消える理由はね。あたしが『そういう生き物』だからだよ。真白友也」
車椅子が滑らかに前進する。距離を詰められる。よりひそやかに囁かれる、鈴鳴るような告白が。
「成人になったら、子ども同士のことだなんて言い訳は、どうしたってきかなくなる」
「……!」
「わかるよね?」
――だから、もう会わない。
『あなたに、悪い子になる度胸はある?』
わんわんと耳奥に反響する、かつて光を通して投げかけられた、彼女の問いかけが。記憶に重なり、彼女の声は、病室の床に線香花火のように落ちた。
「……っ。でも。光は仲間で、友達で。光が、あなたのことを、どんなに大事に想ってるか、俺だって知ってる。友達に会うな、なんて、言えない、ですよ……」
「あなたは、かつて一度選んでる。たとえ、真っ白な自分たちではなくなるとしても、きれいな『Ra*bits』のために、きれいじゃない道を。その決断をできたひとだから。信頼してる」
喉が鳴る。膝上で握った拳が震える。目尻が熱い。息を吸って、深く吐いた。
「光は……探そうとします。絶対」
「そうだね」
「諦めも悪いし」
「うん」
「あいつ変なとこ勘が鋭いから、俺が何を言っても、見つけちゃうかも」
「はっ。あたしはプロだよ、絶対に無理……と言いたいところだけど、そうかもね。『絶対』なんて存在しない」
「そ、そうですよ……!」
青白い唇が僅かに緩む。吐息が感じられるほどの距離。
「だから、あなたにお願いしてる。『Ra*bits』のリーダーに」
「……」
唇を噛んだ友也に、真黒はかすかに笑った。
「あなたたちのことが大好き。……本当だよ。会えなくなっても、いつまでも応援している。『お友達』はもう充分。あとは死ぬまで、アイドルとファンでいさせて」
紡がれる愛の言葉は、呪いであり、彼女の祈りだ。
(好きなのは本当に、“俺たち”だけですか)
問いかけは声にならず、彼女の静かな微笑みだけが、未来あるアイドルを祝福していた。