うらやましくなんかないからね
「おお、薫くん。おかえり」
星奏館共有ルームのソファ、秀麗な相棒がマグカップ片手に振り向いた。遅い時分だからか、奥の廊下は既に消灯され、彼の他には誰もいない。薫はソファに荷物を置くと、飲み物を用意して零の向かいに座った。赤い瞳が細められる。
「くく。お疲れの様子じゃな。春の宵の浮かれ騒ぎも良い息抜きにはなったじゃろうが」
ソファに背を預け、相方の言葉に苦笑する。
「あはは。なんかただ働きって感じ。もちろん季節のイベント枠だからそれなりにいただくものはいただいてるけどさ、気持ちとしてはね。あくまで主役は颯馬くんと三毛縞くんだから、ただの賑やかし」
「その賑やかしを軽やかにこなしてしまうからこその薫くんなんじゃがのう。ともあれ、三毛縞くんと嬢ちゃんの仲直り大作戦は成功したようでなによりじゃ。くくく。敵に塩を送るとは、つくづく薫くんも人が好い」
「はっ? だからっ、何度も言ってるけど、あんずちゃんは別にそんなんじゃないからね!?」
薫の主張に、零は構わず湯気の立ったハーブティーを口に運ぶ。火照る頬を冷ますようにコーヒーをひとくち飲むと、薫はえふんとひとつ咳払いした。緩んだ吐息が春の夜に滲む。
「……そういうんじゃなくて。よくわからないけど、幼馴染みって、家族みたいなものなんでしょ。だったら、仲直りさせてあげたいと思ったよ。大事に想ってるなら、伝えられるうちに伝えなきゃ。謝りたいのに素直になれない気持ちは、俺にもわかるからさ」
進路の件で家族とこじれて、姉の結婚を素直に祝えるようになるまでに回り道もして、吸血鬼ぶった男の隣に立とうと決めるまで。黙り込んで逃げるよりも、言葉をもっと尽くすべきだった。素直に気持ちを伝えて謝ればいいだけ、それだけのことが難しくて、とても苦しかったのだ。
零は微笑む。
「かつての己を重ねてしまったんじゃな。ライバルを羨むより与える無償の愛を知る、おぬしの美点じゃな」
「零くんに褒められてもさ……ってちょっと待って。何か今聞き捨てならないことを言わなかった?」
「うんうん。羨む気持ちもわかるぞい。我輩も先日、凛月を夜の花見に誘ったのじゃが……夜桜はぜんぶま〜くんと見るから、とすげなく断られてしまってのう。うらやましくてうらやましくて歯ぎしりしながら寝転がっていたら天祥院くんにうるさくて眠れないと叱られてしまって、我輩とっても傷心なんじゃよ」
「だから、うらやましくなんかないからね!?」
そんな話をした翌朝早く、休憩スペースで、よりにもよって彼女と遭遇したのは何の因果か。朝日の降り注ぐ窓際、あんずはシンプルなパンツスーツ姿で薫を見上げ、ふわりと笑った。
「おはようございます」
「お、おはよう……」
眩しさに目を細める薫の前で、ぺこりと頭が下げられる。
「昨日はありがとうございました!」
一呼吸分の面映ゆさを噛みしめてから、薫も笑った。
「あんずちゃんこそ、昨日はお疲れさま。三毛縞くんとはお話できたみたいだね」
「……?」
あんずは、意外そうに目を見開く。薫もぱちりと目を瞬いた。
「えっ、なにかまずかった……? あっ、大丈夫大丈夫! もりっちも俺も、何があったのかとか詳しいことまでは聞いてないからね。三毛縞くんがあんずちゃんに酷いこと言っちゃって、気まずいから謝りたいってことくらいで……」
「おおっ、薫さんじゃないかあ! 昨日はありがとう。世話になったなあ!」
「わあっ!?」
しどろもどろの言い訳を遮るように真上で響いた大声に、薫は身を竦めた。
「三毛縞くん、どうしてここに」
薫の横から、あんずが斑の方へ手を伸ばして、大きな身体の「幼馴染み」が右手に持った紙コップを取ろうとしている。紙コップはくるりと細い指先を交わして、高い位置に逃げた。あんずが薫越しに斑を睨む。
「……」
「おおっと、意地悪してるわけじゃないぞお。両手で種類が違うんだ。右手がコーヒー! 左手が桜茶! あんずさんはどっちを飲んでみたい?」
不満そうな指先が惑い、ゆっくりと左手側へ。
「桜茶がいいのかあ。だが残念! ははは、実は俺もこっちが気になっていたんだよなあ。あんずさんのリクエストはコーヒーだったろう? さあ、コーヒーをあげよう!」
「……また、約束破った」
唸るような声。拗ねた顔。
(そっか。……あんずちゃんも、そんな顔するんだ)
朝日の差し込む窓辺で、意地悪そうな少年の瞳が、輝いている。
「ははは。悲しませないと約束はしたが、困らせないとは言っていない! ……おおっと、熱いコップを持ってる時にぽかぽかするのは危険だからやめてほしいぞお。だいたい、あんずさんの小さな手じゃ痛くもなんともな――痛ァ!?」
脛を蹴られて片足で跳ねる背中も、振り上げられる細い拳も楽しげだ。薫は二人から距離を取り、ドリンクサーバーの機械に歩み寄った。気の抜けたボタン操作音が、ひとときの高揚を冷ましていく。スチームミルクが湯気を立て、紙コップに注がれていく。
「……やっぱり、ちょっとだけうらやましいかも」
呟いたその時、指と指の触れ合う瞬間の静電気に似た、火花が散った。そんな錯覚。弾かれたように振り返る。
あんずが薫を見ていた。
「えっ、あっ」
「……」
話の途中ですみませんでした。大丈夫ですか?
静かで、訝しげな青い瞳はそう訊ねている。薫をまっすぐに見つめて、桜のお茶か、コーヒーか、どちらともわからぬ湯気の立った紙コップを握りしめて。じわじわと上昇する体温を自覚して、薫は弱弱しく手を振った。