夕風に想う

草に一面覆われた緩やかな起伏を上がると、立ち尽くして空を仰ぐ少女の後ろ姿が見えて少年はなびく髪を抑えて彼女を眺めた。
少年の頭を覆っている若草色のバンダナが風に煽られ、赤い服の裾とともに草原に音を立ててはためく。
ジンはまた少女の方に歩き出しながら、ピンク色に染まった雲の作る空の地平線を見つめて吹く風に目を細めた。
「あれ? ジンさん?」
少女の声が風に乗って届き、それに気付いたジンも笑って合図を返した。
大声を出さなくても聞こえる距離まで近づいてから、や、ともう一度返事をする。
「そうか、ここにいたのか、ナナミ。」
ナナミは頷いて、困ったように微笑んだ。
そよかな風が足元を渡り、彼女の茶色の髪までも揺らしていった。
「サラム……探してた、よね」
「ああ。」
「ジンさんは、私が戻りたくないっていったら、怒る?」
半分諦め顔で俯くナナミにジンは首を傾げて、珍しく棍を持っていない右手を腰に当てた。
「怒らないよ」
今度はナナミが目を見開いたので、ジンがくすりと笑う。
破れた袖が風に揺れ、古い傷跡の残るジンの腕を夕の空気が容赦なく冷やした。
「かなり激しく喧嘩したって聞いたし。」
「え、でも……」
「夕食になれば戻るだろ? ナナミは」
さらりと言ってのける少年に確実に痛いところを突かれてナナミはうう、と黙り込んだ。
夕闇の地平を見ているジンをちらりと窺って、少女が口篭もる。
「……聞かないの?」
「ん?」
視線だけナナミに戻して、ジンが続きを促したので彼女もしぶしぶ口を開く。
こちらが聞いているのに、自白させられているような気になるのはなぜだろう。
「なんでサラムと喧嘩しちゃったのか。」
「ああ……」
風に揺れる草色のバンダナは横に大きくなびいて、髪は控えめに頬を打つ。
「だいたい分かるから、いいよ」
初めてしっかりと答えてくれた表情は優しく、瞳は労わるようにナナミへと向けられていた。
足元の土を踏みしめて揺るがずに立つジンを見つめて、ナナミは口元を歪めた。
思わず体を反転して、何歩か前に進んで少年から離れる。
このまま優しすぎる黒い目を見ていたら、泣いてしまいそうに思えた。
虚ろに見上げたナナミの瞳に風が触れ、その奥には静かな高い空が透明に映し出される。
ジンに背を向けたまま空を仰ぐと、ナナミの上で夕の色に淡く染まった鱗雲が、夜の近づく空をゆったりと通りすぎていた。
ジンの目から映る少女の背中は腰の辺りで後ろ手に組んだ指も草が方々に付いた靴も、黄昏に溶けそうな小ささに見えた。
「ねえ、ジンさん?」
ナナミの声が冷たい草原に綺麗に響く。
それはもう、切ないほどの清冽さで草に沁み落ちて土に溶けた。
ジンが静かな声で問い返せば、その空気の震えも夜の空気に霞んで、優しく辺りに染み渡った。
「何?」
「……三人が昔みたいにって思っちゃ、ダメなのかな。」
ここは、三人の育った故郷から離れすぎていて、懐かしいにおいの影もない。
湖はきらめいて、草原は風をいっぱいに含んで、遠い地平線は空と接して晴れ晴れと胸を広げるけれど。
けれどどこを探しても、どんなに夢見ても、懐かしい山と木とキャロのかおりはここにはない。
「私たちじゃなくたって、他にも強い人ならいっぱいいるのに。三人で昔みたいに暮らしたいって、そんなの全然難しい夢じゃないって思ってた。戦争なんて偉い人がするものだって思ってた。…だって、偉い人がサラムとジョウイだなんて、ありえなかったの」
太陽は二人の後ろで地平線に触れて鈍い光を放ち、オレンジ色の光が二人の背中と頬を照らしていた。
風はいよいよ冷たさの予感を湛えて吹き、草原がざわめいて不安に遠ざかっていた。
「私……、私ね、ジンさん。」
ナナミは背中で指を組んだまま振り返って、辛そうな顔で精一杯笑ってみせた。
「三人がまたキャロに帰って幸せになれるんだったら、どんなことをしても良かった。本当よ。ビクトールさんたちだって裏切っちゃったかも」
「……」
ジンはそれには答えず、ただ目で応じた。
彼女が本当はそんなことは絶対出来ない少女だということは分かっていた。
「それに私、あの二人が自分で決めたことなら絶対応援するはずだったの。何があっても応援するはずだったの。二人とも、良い子だもん。だから、どんな道を選んでもきっと二人のこと応援できるって信じてたの。」
必死の表情は声の震えとともに草原の中で一人、立ち尽くす小さな少女の顔に張りついて影に覆われて風に晒される。
ナナミは滲んだ目元を辛そうにしばらく閉じて、首を振ると顔を上げて何かを吐き出すように両の手の平を開いて叫んだ。
「でもね、これだけはあっちゃいけなかったんだよ? そんな道なんてあるはずないって思ってた。だってそうでしょ!? そんなの全然おかしいよ! 私もう嫌だよ! なんで二人なの!? サラムとジョウイが戦うなんて、それだけはあっちゃいけなかったのに……なんで、なんでこうなっちゃうの!?」
急にジンの左腕がナナミの肩をぎゅうと抱いて顔を胸に押し付け、力任せに彼女の口を閉じさせた。
そのまま、力の抜けたナナミを引っ張るようにすとん、と二人で草原に腰を落とす。
草の潰れる感触がして、ナナミは胸に顔を埋めたまま驚いて目だけで少年を見上げた。
その頭をジンが空いた右手でくしゃりとなでて、そっと口を緩める。
「……うん」
呟くように言って、ジンは呆けたナナミの頭を肩口に押しつけた。
肩にまわした左手を優しくぽんぽんと叩いて、流れる風に緩やかに目を閉じる。
同じ湖のにおいもやはり場所が変わればどこか違って、夕暮れの中二人のまわりを漂っている。
風が城の向こうから草のかおりをのせてくる。
ナナミはジンが軽く息を吸うのに気付いてぼうっとしていた頭をもぞもぞと動かしてどうにかジンの顔を窺ったが、彼は、少女が自分の顔を見ないようにと彼女の肩にそっと顔を埋めた。
「あの、ジンさ……」
「ひとつ話をしようか。」
少女の声を遮ってジンが言った。
「……解放軍の一人に、こういう奴がいたって聞いたことがあるかな。」
ナナミの頭をなでながら、少年は穏やかに、しかし淡々と話を続けた。
「ナナミ、そいつは君みたいに故郷に帰れなくなってね。でも、君みたいに故郷に戻ろうとしていたわけじゃない。彼は突然故郷を滅ぼそうとしだしたんだ。」
ナナミがびくりと肩を震わせ、表情の見えないジンを弱弱しく見遣った。
草原は緩く流れ、遥か地平線に掛かる夕の雲は話を聞いたせいか、ジンの肩向こうに血の色に見えた。
ジンがナナミの動揺を推し量って、また優しく頭をなでた。
「本当だよ。しばらくは運がついていたんだけど、育ての親を殺されてね。そんなもんだから自分もたくさんの敵を殺し尽して、血を分けた者も、大切な友も殺して、故郷まで攻め入ったのに、結局そいつは戦いが終わった途端、突然逃げて行方不明になったんだ。」
そこで大きく息をはいて、ジンは寂しそうに微笑った。
「ねえナナミ。そういう奴は、幸せになってはいけないかな」
「……え」
「生きているとね。絶対この選択肢だけは来るはずがない、来ちゃいけないっていうことが、夢にも思わなかった酷い選択肢が、目の前に前触れもなく現われるんだよ。そしてたびたび僕らは最良の選択として最も取りたくなかった道を選ばなければならなくなる。それがどんなに汚いことであっても、自分にとっては許されないはずのことでもね。大事なものを守るために、もっと大事な別の何かは捨てなくてはならないことがある。そして、時々、そういう選択肢ばかり続けていかなければならなくなる人もいるんだ。」
肩にまわされた腕にかすかに力がこもり、少し苦しくてナナミは目をぎゅっと瞑った。
耳元で直接に叩きこまれる少年の言葉は心を抉っては冷たく溶けない氷となって彼女の深奥に沈み込んでいく。
湖の果てから冷たい風が吹き、二人の衣は空気を含んではたはたと音をたてずに躍っていた。
「そうして、最低のことばかりしてきた人は、どうしても幸せになってはいけない?」
バンダナの少年は一端、そこで口をつぐんで闇の迫る薄空に目を向けた。
飛んでいく雁の群れに目を細め、僅かなぬくもりを求めて少女の頭をもう一度柔らかくなでた。
少年の静かな声がまた、夜を迎える草原の隅でひそやかに紡がれはじめる。
「ナナミ、さっきの奴のことだけどね。彼は幸せに生きているんだよ。昔の仲間や、懐かしい家族に再会して、自由気ままに幸せを満喫しているんだ。でも僕はそれで良いと思う。どんな人でも、どんな辛くても、どんなに絶望しても、すべての人は幸せを求めて良いと思う。幸せを奪う人に、死ぬ気で抵抗する権利なんて誰も否定できないと思う。すべての人が平等に幸せになる方法も、昔あった幸せを取り戻す方法も、ないんだ。それは、ないんだよね。それに酷い奴がのうのうと裁かれず生きていることだって許せないというのも本当のことだよ。でもねナナミ。どんなに君がワガママを言うことでサラムが困っても、サラムが同盟軍の軍主として多くの人を殺めても、ジョウイがどんな酷いことをしたとしても、君達が幸せを求めちゃいけないなんてことは、ない。…そんなことはないと、僕は思うよ。」
涙がいつの間にか瞳におさまりきらないほど溢れて止まらなくなっていた。
少年の腕は一瞬かすかに震えたけれど、彼の胸に顔を押しつけて声を押し殺して嗚咽を漏らすナナミの肩を、しっかりと抱いたまま放すことはなかった。
太陽は地平線の奥に既に沈み、少年の頬を照らしていたオレンジ色の光はうっすらと闇の中に薄れかけていた。
穏やかに吹く冷ややかな夜風に少年のバンダナははためいてはなびき、空を祈るように見上げるジンの瞳には空の高みだけが映し出されている。

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真理でもすべてのばあいにそうであるべきだというのでもないけれど、 願わくは多くの人にあっては、そうでありますよう。