ゆるす
空になった酒瓶を無造作に置いてビクトールは少し顔を赤くしているジンの隣に座った。
夜の屋上はとても静かで物音といったら湖を渡る風の音だけだった。
遠い星空に光が針の穴ほどの大きさを満たしながら瞬く。
満月は天頂近く昇りつめて神々しい明かりを湖面に落としている。
「酔ってるみたいだ……」
ジンが、ほうと息をついて火照った頬に手のひらを押し当てた。
「そりゃああれだけ飲めばな。いくらお前が強いからっつっても。」
「もっと強くなりてえなあ……」
グレミオが聞いたら卒倒しそうな口ぶりでジンが悔しそうに言った。
「やめとけやめとけ。体壊すぞ。」
「ビクトールに言われたくない。」
いつからこの城はここに建っているのだろう。
硬くて座りにくい石畳からはいつも湯気のように幽かで熱い力を感じる。
時間のみが持つある種の荘厳な力が、この城にはある。
ジンは目を細めて、屋上の石畳にそのまま寝転がった。
目の前にこれ以上ないほどに広がる夜空と満月。
隣で腰を下ろしているビクトールが、顔をほころばせてジンを見下ろす。
「どうだぁ? 月見酒もいいもんだろ。」
ジンは額に手をかざすと、吸い込まれるような月にからだを預けた。
消え入るような声で、眠りに落ちていくかのようにああ、と言うと静かに目を閉じる。
遠くの森がざわざわとさざめいて風がやがてすべるように訪れた。
脇にずっと座っているのを気配で感じながら、ジンはずっと目を閉じていた。
酔ってるな……。
心中渦巻く思いに囚われているのを無視できずに心の隅でそう考える。
「なあ……ビクトール。」
薄目を開けて側の男を見上げれば、あらぬ方向を向いて物思いにふけっているようだった。
じゃあいいや、とまた目を閉じかけたところにビクトールが穏やかな声で何だ、と聞き返す。
ジンは掌をまぶたにかぶせて、闇の中で目を開いた。
指の付け根の隙間から光とも言えない光が差しこみ現実を知る。
これだから。
これだから、ビクトールという男は。
「いいよ……考え事の邪魔するのも悪い。」
こころなしか頭が重かった。
やっぱり酔ってるみたいだ…………そう繰り返し呪文のように暗示をかける。
それをあっさり破ってビクトールの声が頭を突き抜けた。
「いいさ、どうしたジン?」
見抜かれている、と思う。
ジンが泣き言を言いたくなったとき、ビクトールの声音は変わる。
それは猫撫で声とか、機嫌取りとかそういう類のものではない。
きっとビクトール自身も無意識のうちに、深く優しく、落ち着いた声音になる。
ジンはそれが少し歯痒く、でも甘えるしかなかった。
他に、救いを求めるあてが当座は見つからないのだから。
「最近さ……なんで、ぼくは許せるんだろうと思うんだ。」
両手を髪にうずめて、全ての光を遮断する。
大事な人に叫ぶことほど辛いことはない。
ジンがクレオにもパーンにもほとんど相談しないのは、信用していないからじゃない。
(結局そういうことになるのかもしれないがと思うと、心が重くなったが)
こんなに辛いんだ、駄目なんだと言ってしまえば彼らは自分を想うだろう。
心配するだろう、自らの魂を削っても。
それが、一番耐えられない。
もうたくさんだ。
ビクトールが大事じゃないわけじゃないけれど。
「許せないなんて思えない……クワンダも、クレイズも、……それに、」
滲む涙をこらえて、言葉を切った。
「ビクトール……お前は、言ったよな。あいつを許せないって。」
無言で頷くビクトールを指の隙間から見上げて、ジンは微笑した。
ビクトールが誰のことかは追及しないのに、安堵もした。
「……ぼくも、そう思えたらよかったのに」
トラン湖に浮かぶ島の森から、狼の遠吠えが遠い鐘のように響く。
ジンがそっと顔を覆っていた両手を頭上に移動させると、目もくらみそうな月明かりが燦燦と城の屋上に降りていた。
頭の後ろで腕を組んで、顔を僅かに傾けて熊男を見上げる。
ふっと相手と目が合ってジンは目を見開いてまばたきをした。
自然と口元がゆるむ。
「なあ、ビクトール? クレイズは最低最悪の能無しだ。」
「ああ、そのとおりだ。」
ジンは、真面目くさって頷くビクトールを静かに見つめた。
「本当にね……でも、」
「お前はあいつを助けたな。」
「……ん」
言い終えぬうちにビクトールにそう言われ、ジンは僅かに辛そうな顔を見せて目を閉じた。
「理屈じゃないんだ……憎しみといつも同じ場所に、変に冷めたぼくがいる。計算高くて、合理的でやけに甘くて……もう、嫌だ……」
「……」
「……普通は、怒るだろう。お前みたいに。クレオみたいに、パーンみたいに。でも……」
ジンは言葉を一瞬切って顔を歪めた。
「でも、あいつを目の前にしたってのに、ぼくは……ちっとも憎いと思えなかった。殺したって解決しないとか仲間にすれば有利になるなんて考えて。あんなに悲しかったのに、ぼくはそんなことばっかりだ!」
思わず語調を強めたジンを穏やかに見つめて、ビクトールは目を細めた。
ジンは不意に涙が流れているのに気付いて、慌てて上着の袖でぬぐった。
ビクトールに見られたくないと顔を背けながら、ふと遥か遠くでせせらぐ川の音を聞いた気がした。
多分、トラン湖から流れ出る川の流れの一つだ。
それが聞こえるほどに湖面は静かに、風はそよかに静謐を大気に紛れこませている。
ジンは、消えない心の内の面影を噛み締めるように息をついた。
きっと酔っているせいだ。
……いくらなんでも、普段はこんなことで泣きやしない。
泣きやしないのに。
また流れてきた涙をぐいと拭って、袖の下からジンが自嘲気味に呟いた。
「自分のことをいいやつだなんて思わないけれど……ぼくはきっと優しすぎるんだ―それでいて、こんなに冷酷なやつはいないよ」
ビクトールはそれに答えなかった。
ジンは胸がつぶれるような重さを感じてさらに続けた。
「……ソニエールを出た後はさ……本当に彼が憎かったよ。……殺してやりたかった」
ビクトールが、寝転んでいるジンの頭に大きくごつごつした手を静かに置いた。
「俺もだ」
ジンは止まりかけた涙がまた溢れるのが分かり、無駄な努力と分かっていてもこらえようとした。
本当に無駄な努力だった。
「……でも、」
泣き顔の奥で不思議と笑顔が浮かんでいるような錯覚に陥りながら言葉を繋ぐ。
「城に帰るまでは呆然としてた。一晩寝たら殺してやりたいほど憎くなった。……でも、」
まぶたを手の平でおおうと手首の方まですぐに濡れていく。
「それでも、戦が終わって……その辺から、だんだん……」
「……もういい」
髪をぐしゃっと無骨になでる手が、優しくて辛かった。
「……ビクトールは、優しいな、本当に」
酔っているから。
自分に自分で言い訳をして、普段なら何があっても言わないようなことをぽつりと漏らす。
「優しくねえよ」
照れたような拗ねたような声が返ってくるのがとても嬉しい。
月は静かで冷たくて、世界は広くて空は高くて、夜がこんなに深いから、そこに一人ではないのに、それもこんなに優しくて弱音を吐ける相手が側にいてくれる奇跡に不意に感謝をしたくなった。
けれどそれはある意味、ジンには辛い。
「ぼくとは大違いだ……」
ああ、なんて自分は冷たいのだろうと再認識してしまう。
大事な人を殺されたのに。
もう会えないのが悲しくて仕方ないのに、あの男を目の前にした自分は不思議と憐れんでしまった。
殺すことなんてないだろう、と思ってしまった。
それが、まるで―― まるで、彼への裏切りのようで。
ぼやけた視界の向こうに、月が悲しいくらい明るく浮かんでいるのが見える。
火照っていた顔が、次第に夜の空気で冷えてきた。
指先が冷たさに震えている、かすかに。
ビクトールがややあってジンの頭に手を置いたまま口を開いた。
「お前みたいに優しい奴はそうそういねえさ。」
満月はてっぺんに昇りつめてあとは沈むだけだとばかりに穏やかに輝いている。
星がそのうしろでさざめく波のようにちらちらと瞬く。
それは静かな夜だった。
「グレミオが、お前をそういう風に、人を赦せる奴に育ててくれたんだろう?」
ジンに答えることは出来なかった。
何もかもが自分の中で氾濫した川のように波をつくり、ぶつかり合い渦を巻いた。
それでも、その川の流れは優しくあたたかかった。
泣きながら、ジンは何度も頷いた。