見知った後姿を見つけて思わず声を上げれば、その人影はまるで異世界からこちらへ舞い戻ったかのように、ゆっくりと、ゆっくりと振り返った。
少年にしか見えない風貌が、歳に似合わぬ表情で柔らかに微笑う。
きっと――世界は彼の存在を、呪いながら祝福している。
懐かしき人よ、祈りをともに
15年以上前に見慣れていた彼の目印であるバンダナはもうその頭にはなく、今は代わりに古びた藤色の布をターバンのように巻いているだけだった。
身につけた服も見知らぬ民族衣装であり、あの無視できないほどの存在感がなければ、一瞬本人とは分からない。
近寄っていくと、少年がまた微かに笑い声を立てて手を上げた。
「よぅ」
「……ジンさん、」
「ジンで良いよ、もうリーダーじゃない」
崖の淵から下の風景を見下ろせる場所にいて、広がる空を背負った彼は15年前と変わらず――まったく変わらず、少年の姿をしていた。
この険しい山道からは広々とした地上の草原がよく見える。
以前には見上げていた彼を、見下ろしているのは、紛れもなく自分だった。
風ひとつない晴天に目を細めて、あらためて懐かしい知り合いを見つめる。
あまりの懐かしさにふいにこみ上げてくるものがあり、彼は無意識に手の平を口元にやった。
こんなことが、あるのだ。
あの頃から、変わらないものとそして変わってしまったものが、同時にここにいる。
背が伸びた。声が低くなった。
昔は同じくらいだった腕力も、今では彼よりきっとずっと強い。
こんなにも変わってしまった己を前に、「彼」のその髪の色も、奥深い瞳も、凛とした立ち姿も、空を背負ったこの笑顔も、すべてが信じられないくらいに昔のままだ。
「懐かしくて泣きそう?」
からかいを含んだ笑い声に抗いもせずに頷く。
ジンはまたくすくすと笑って、近くにあった苔むす岩にすとんとこしかけた。
片手に掴んだ棍をくるくると弄んで足をぶらぶらさせる。
「ブライトは? お昼寝中かな、この時間じゃ」
「ああ……うん。ちょっと前まで慣れない船の上でばかり寝てたからね。やっぱり我が家がいいんだろうな」
山の遥か下方にぽつんと見える竜騎士の砦を見下ろして、フッチも顔をほころばせた。
15年前、ブライトが生まれたばかりの頃に彼が身を寄せていた城に、ジンは予告なしに現われた。デュナン統一戦争の最中、都市同盟軍の本拠地であったあの城に、解放戦争の終結とともに忽然と姿を消したトランの英雄はまるで散歩でもしに来たかのようにふらりと現われたのだ。
実際のところはその城のリーダーであったサラムの強引な誘いによるものだったのだが。
ああ、そうだ。
あの頃は――あの頃あの城で、見知った人々への再会と、絶望を引っくり返した存在の不意の出現と――多くの輝く未知との出会いで、少年だった自分は世界も人も、何もが永遠に変わらないのだと思っていた。
何も変わらなければよかったのに。
あの時間は自分の中で止まったままだ。
鮮やかに、美しいままに、時間の流れから切り離されて。
目を閉じると隣では耳を掠めるほどの風音が繰り返し鳴っていた。
ジンの弄んでいる棍が、風を切る音だ。
「2ヶ月くらい前に、竜騎士の砦にも寄ったよ」
ジンの明るい声が高い空によく通る。
「お前はグラスランドに行ってたんだって?」
静かにまぶたを開く。
耳の痛みはこの高い山のせいなどではなくて、竜騎士にとってはこれくらいの高さは地上と同じようなものなのだし。
岩の山道は空の下に広がり、白い雲を前になだらかに聳える。
懐かしい竜の匂いのするこの山に、確かに僕は戻ってきたのだ。
竜を連れて、大事な剣を譲りうけ、一人の竜騎士になるために。
――グラスランドに行ってたんだって?
風が吹いて、眩むほどの白い雲は流れるように峰の間を去り行く。
フッチはまた瞳を閉じて、頷いた。
「うん……また、宿星をやってきたよ」
棍の風音がすい、と止まった。
空気がふ、とその場に留まる感触がして思わず顔を上げる。
ジンを見ると、以前と変わらぬ黒い瞳がフッチを真正面から見返してきた。
わずかに眉を伏せて、静かにジンは口を開いた。
「知ってる」
この黒い瞳に惹きつけられて何千人が湖を越えてあの城に渡ってきただろう。
まだ子供だった自分にはそのようなことは判らなかった。
引き裂かれるような苦しみも、傷ついていく悲しみすらも本当に知ってなどいなかった。
「ここしばらくはね、それを聞いて回ってたから。グラスランドにも行ったよ。ビネ・デル・ゼクセも5年ぶりに見た。レックナートさんにも会ってきたし、ティントでも話を聞いた」
まっすぐに見据えてきながら淡々と話す少年の髪がかすかに風でもつれ、砂が足元を舞った。
「…………」
「僕はね、フッチ。」
ジンは右足を岩に上げると、抱えるようにして顔を埋めた。
「その頃南にいたんだよ。美味しい酒を飲んで、ちょっとモンスターなんか退治して、グレミオに土産なんか買ってたんだよ」
それから彼はしばらく押し黙って膝を抱えていた。
フッチは背中の大剣をそっと外して岩に立てかけると、ジンの方を見ずに隣に腰をおろした。
ジンの座っている岩に生えた苔は眼に痛いほどの明るいグリーンで、ざらついた岩の上を優しく覆っていた。
そこに腰を下ろせば山の麓の草原と遥かに遠くの竜洞までが吸いこまれそうなほどに美しく在り、彼方の風になびく草の海は青空に包まれて目を逸らしたくなるほど優しかった。
トランは草原と大地の国だ。
グラスランドほど全てが草原でもなく、かといって北の砂漠ほど乾いてもいない。
かつてここで武器を持った多くの人とエルフとドワーフが、血を流して倒れていったことを誰が覚えているだろう。
あと50年もすれば、もうそれは人の記憶から抜けていってしまう。
エルフの生き残りはほとんどといっていいほどいないから、彼らの戦いはもうじき誰にとっても事実ではなくなるのだ。
少しずつ、少しずつ。
この世界は確かに変化していく。
ジンが顔をあげて、静かに息をはいたのでフッチは意識を隣の少年に戻した。
「さよなら、を言いたかった」
呟く声の深さに胸が痛んだ。
風がわずかに強まったような気がして空を仰ぐ。
「殴りたい、とか。いろいろ…あるけど。それより……僕はもう一度、あのバカに会いたいよ」
横顔が痛々しくてまた空に目を向けた。
あいつのことをあのバカ、なんて言うのはきっとジンくらいのもので。
(ただ今度のことがあってそれを言う仲間たちはずっと増えたのだけれど)
少なくとも、トランの城で彼が大将を張っていた時代にそんなことを本人の前で堂々と言ってのけるのは彼くらいのものだった。
生意気とか無愛想とかそういうことは誰でも一度は言っただろうし(かく言うフッチ自身も言った記憶がないでもない)、あの腐れ縁組などは本人に向かってもきっぱりと言っていたけれど(そして思いきり痛い目を見ていたけれど)。
今思えば、ジンはそんなことすら笑い飛ばしてしょっちゅう迷惑そうなあいつに話しかけていた。
そうなのだ。
きっと、あの城で。
トラン湖の真ん中、涼しい風の吹きこむあの城の中で一番彼と仲が良かったのは、きっとジンなのだ。
邪険にされても、ロッドで殴られても、棍で思いきり殴り返しても、それでも。
時という埃を静かに埋めた瞳が、地に伏せられているのを見て思う。
ジンなら本気で怒ってやれたのかもしれない。
真の紋章を宿した苦痛は自分には到底分からなくとも、彼ならせめて自分とは違ってあいつも対等に話してくれたんじゃないかと思う。
考えると少し悔しかった。
最期まであいつと対峙しながら、結局何を考えているのか分かってやれなかった。
よくは分からないけれど、あいつの側に愛しそうに控えていたあの白い顔をした少女は分かっていたんだろうか。
何も知らずに思うのは至極勝手で、それでも彼女にはどうしてお前は止めなかったんだという気持ちがあって、……でもそれはきっと八つ当たりなのだろう。
もっと自分はあいつに近いと思っていた。
やっぱりそれは少し悔しかった。
「フッチ、手を出して」
突然の穏やかな声に我に返ると、風で髪が目に入って思わず目をつぶった。
「痛……」
「何やってんだか」
頭を抱える旧友に、ジンが岩肌に手を付いて小さく笑う。
「ほら、手を出せよ」
「?」
首を傾げて右手を差し出すと、ジンは薄く微笑んでその上に何かを優しく置いた。
フッチが確認する前にその上に更に自分の左手を重ねる。
そっと重ねられたその手を怪訝そうにフッチが見つめると、ジンは目を細めた。
風がふわりと吹いて、岩の高みにある彼らの髪をなでた。
ジンの着ている緩やかな民族衣装の襟が柔らかくはためくのが、透明な空色に映えて溶けていきそうに揺れていた。
「最期にあいつが幸せであったように」
祈るように目を閉じて前おいた後、ジンは静かに歌い出した。
これ以上ないほど穏やかな声音で紡がれる彼の歌声を聞きながら、フッチは目の前の彼を記憶を重ねたその向こうに見ていた。
遠い昔から。
目を閉じる。
ああ、どうか。
そう――例え、自分が彼にとっては虚ろな生のどこかでふと眼の端に入った、ちっぽけな欠片でもいいから。
石盤の前でいつもいつも、つまらなそうな顔で天井を見ていた彼が。
役にも立たないくせに戦場に出て、死に物狂いで戦ったあの頃、不意に自分の隣に立って物凄い魔法を放って敵を一掃した彼が。
文句を散々言いながらも、料理勝負で真剣に味見していた彼が。
どうか、わずかにでも幸せであったように。
今となっては遅い祈りでも、それでも僕達は君を愛していた。
歌い終わると、ジンはくすりと笑ってフッチを見上げた。
手の下にあったものを懐にしまうと、代わりに浅葱色の布を出してフッチに投げてよこす。
「使えよ」
「あ、」
無意識のうちに声も出せないまま、泣いていた。
ぼうっとしながら涙をふいて少年を見下ろす。
見下ろそうと、した。
首に腕が巻きつけられて、緩やかに抱きしめられているのに気付くには少しかかった。
ジンが耳のすぐ後ろで小さく囁いた。
「頑張ったな」
まるで父のように、兄のようにそっと耳を掠めた声が聞こえた瞬間、不意に風が吹いた気がした。
声が出なかった。
腕はすぐに離れようとしたけれど、その前にその肩に縋った。
頑張ったも何も、自分は何もしていなくて。
彼を止められないから、倒すしかなくて。
――でもそんなことは全て頭から消え去っていた。
かつてリーダーとして背中を追いかけていた人の小さな肩に縋って、背中を優しくなでられながら、彼は声をあげて泣いた。
ジンは空を見上げて、太陽をその向こうに隠した白い雲をただ眺めた。
せめて、もう一度会いたかったよ。
声に出さずに呟いて、彼はまたいつの間にか背を追い越されていた彼の背中をなぜた。
夕闇が東の山沿いに色を帯びてきた頃になって、ジンは突然声を途切らせて、峠に沈む夕陽を見上げた。
昔話をしていたその口が、しまったという顔で言葉を漏らす。
「うわやば、もう行かないと」
竜の羽音が遠くからこだまのように聞こえてきて、彼もブライトのことをはっと思い出す。
「今から?」
尋ねると、少年の姿をした青年は棍をひゅっと回転させて肩に担ぎ、古びた麻袋を持って岩からすとんと飛び降りた。
夕陽に赤く染められた顔で、振り返りながら涼しげに笑う。
「時間がなくてね。明後日がタイムリミットなんだ」
「タイムリミット?」
フッチは立てかけていた大剣を掴むと、慣れた様子で背負った。
かちゃりと乾いた音がしてそれはしっかりと元のように収まる。
夕暮れが始まると同時に、夜が匂う。
自分もそろそろ、ブライトにかまってあげなかったお詫びをしに行かなくてはいけない。
彼の問いに、ジンの顔が少し寂しげに風を含んだ。
見上げていた顔を逸らして、微笑しながらと立ち並ぶ岩の彼方に視線を上げる。
「シークの谷に、ちょっとね。……命日だから」
ジンは優しい目をして峰の彼方を臨んだ。
フッチがああ、と遠い記憶を辿りながら目を細める。
そうして、記憶を時に宝物のように留めながら生きていくことは、哀しいけれど。
それは同時にとても優しいことだ。
「また、近くに来たら寄るよ。」
そう言ってジンは、ごく自然に右手を差し出した。
思わず目を丸くしたフッチに、ほら、とジンが手を振って握手を求める。
もう本当に長いこと会っていない、料理上手のジンの付き人が、グレッグミンスターで15年前に漏らした言葉を思い出して息をのむ。
――坊ちゃんは右手を人前に出すのが怖いって、そう言うんですよ。
「ほら、握手握手。それともグラスランド式に抱擁いくか?」
くすくす笑いながら冗談混じりに言う少年を見下ろして、彼はくすりと口の奥で笑った。
少年の右手を噛み締めるように握り返して、名残惜しげにそっと放す。
再びこうして話せるのはまたずっとずっと先になるのだろう。
それでも、変わらないはずのこの人も、確かに同じ世界のどこかで生きている。
変わらないものを穏やかに抱えて、少しずつ、自身も時を重ねて変わりながら。
それはきっと、寂しいことばかりではないのだ。
「じゃあ、また」
手を上げて別れると、ジンも笑ってひらひらと手を振った。
藤色のターバンの裾を翻して背中を向け、山道に消えていくジンが見えなくなるのを待って、彼は山道を下り始めた。
夕闇を横に眺めて、たなびく薄雲と風をその背中に感じながら。