書類を整えて顔を上げると、もう太陽は真上に上っていた。
ずっと朝から書面に向かっていたことになる。
雪の表面がちらちら光るような、そんな光を反射させて彼女の首筋の後れ毛が、窓際でふわりと揺れていた。
でも気付かない彼女
(ふう、さすがに疲れた)
しかめ面をした彼女は息をついて天井を見上げた。
することが多すぎる。
今は先のことなど考えたくないから、こうして仕事に没頭するだけの時間が嫌ではないけれど。
――代理だから、今は臨時で仕事をしているのだ。
そう心に言い聞かせ、自分の行為を刹那的なものだと思い込むことは容易だった。
――団長と副団長の葬儀を一日でも早く行うために、雑事は出来るものが引き受けるのが務めだ。
だから、自分のような一介の騎士が団長代理などという席で英雄扱いも甘んじて受ける、それもそう――務めなのだ。
「ふぅ」
もう一度、重く溜め息をつく。
……最近溜め息が多い。
「――様」
「?」
聞きなれた平坦な声が、ドア越しに彼女の名を呼ぶのに我に返る。
乾いたノックの音に顔を上げると、クリス=ライトフェローは憂鬱な考えを振り払って立ちあがった。
「どうぞ」
カチャリとノブを回す音がして、見慣れた姿が現われる。
馴染んだ同僚の顔にほっとして、自然と顔が和らいだ。
彼の手元に抱えた丸盆からはいい香りとともに湯気が立ち昇っている。
小皿に添えられたパウンドケーキは、滅多なことでは手に入らない南方の有名な一品だ。
「働き詰めでお疲れでしょう。ご休憩なされては」
「そうする。すまないな、サロメ」
仕事用のデスクに分厚い書類を広げたまま、彼女は椅子を引いた。
「最近、顔色があまりよろしくないのでは?」
遠慮がちに、しかし率直に訊ねられてクリスはティーカップの縁から唇をそっと離した。
甘い芳香を放つ紅茶の湯気が、鼻先ををほんのり湿らせる。
彼を見て、一呼吸置いてからクリスは苦笑した。
「そうだな、確かに最近は少し――働きすぎかもしれない」
「では、もう少しお体を気遣ってくださいませんか」
やや批難を含んだ真面目な声に、また困った顔で彼女がくすりと笑う。
「そしたら、サロメが団長代行を代わってくれるか?」
「それはなりません」
サロメが突然堅い顔になって首を振った。
クリスは一瞬呆けて、数回瞬きをする。
長い銀の睫毛の動きが彼女の華のある顔立ちにいっそうの美しさを添えていることを、彼女自身は気付いていない。
その美しさに騎士団の男達が心酔していることも、あまり本気で考えてはいないのだ。
「冗談だったのだけど…そうだな、折角整い始めた体勢を今更替えることは出来ないな。迷惑をかける」
「迷惑などとんでもない。皆の意見はクリス様で満場一致です。」
「……それこそ冗談のような気がする。」
紅茶をまた一口飲んで、クリスは自嘲気味に苦笑した。
窓の外からは、訓練に励む騎士達の掛け声が微かに聞こえる。
それは心地よい喧騒となって風とともに部屋を流れていた。
「私は、」
「英雄はお嫌いなのでしたか」
労わるようにかけられた問いには、無言の数秒間を俯くことで答えた。
「しかし貴女には、その資格がおありだ」
「……私にそんな器があるとは、どうしても思えない」
畳み掛けられた言葉に、常に奥底で思っていたことを漏らした。
――ただの、お飾りの騎士団長など、器があるといえるわけがない。
「なのにいつの間にか、口調もそれらしくなってしまって……順応しているのかしていないのか、私にも見当がつかないよ。サロメは、嫌ではないのか」
「何がですか?」
「……都合よく高い地位に置かれただけの若輩者に生意気な口を利かれていても」
曇った目を、気まずそうにサロメから背けて彼女が言う。
サロメはしばらく口を閉ざしていたが、やがてため息をついて顔を上げた。
クリスが重い顔を上げて怪訝そうに彼を見返す。
「クリス様。」
「何だ?」
「お忘れになっているようなのでもう一度言わせていただきますが。」
「?」
クリスが小首を傾げてカップを置く。
陶器の触れ合う音がして、立ち上る湯気は香り良く天井へ上がっていく。
彼女はしばらく黙り込むと、サロメを見返して困ったようにまた首を傾げた。
「……すまない、分からない。何を忘れているというのだ」
サロメは優しく微笑んだ。
「お分かりになりませんか?」
「ああ、はっきり言ってくれ」
「では、申し上げます。私は貴女に戦場で誓いを立てました、覚えていらっしゃいますか」
半開きになった窓から入り込んだ風がカーテンを膨らませては窓際の一輪挿しを撫でつけていた。
なぜだろう、久し振りに穏やかな午後を過ごしている気がする。
ほんの数週間前、何も欠けることなく六騎士の中の一人としていたころに戻ったような気さえする。
しかし、それは自分自身の幻想でしかないことを心の隅で知っている。
どんなに泣き叫んでも、自身を痛めつけても、彼らが戻ることは二度とない。
「あの日のことを、私は一生忘れることはないよ」
「しかし、クリス様はお忘れになっておられます」
「は?」
「私は貴女にお仕えすると誓いました。何があろうと、変わらず」
「覚えているよ。お前があの場で私を立ててくれたことで、軍がまがりなりにも纏まった。感謝している」
小さく笑うと、サロメは軽く眉(ないけど)をしかめた。
「恐れながら、それでは覚えておられるといえません」
きょとんと見返すクリスに首を振って、彼は立ちあがった。
風の優しく流れる窓際までゆっくりと歩みを進め、クリスの方を見ぬまま言葉を繋げる。
「クリス様が団長であろうと、そうでなかろうと、私の誓いは生涯変わらない、そう申し上げたつもりですよ。」
「サロメ……言っている意味が、」
「ええ、貴女はお分かりでない。クリス様がどんなに迷われようとも、例え英雄の座を自ら降りられようとも、私は貴女の下で貴女のためだけに、持てる全てを尽くしましょう。――私は、そのつもりで誓いを立てました。刹那的なものでも、感情的な一時の気紛れでも、ましてや戦略上の行為などでは有りません。」
「…それは、」
思わず腰を浮かせてサロメを振り帰ると、そこには真摯な目があった。
そのあまりの誠実さに戸惑いを覚えながら、クリスも彼の立つ窓際に向き直った。
手が震えている気がする。
なんだかあのまっすぐすぎる真摯さが、今だけはすごく落ち着かない。
いやしかし、彼は何か自分を勘違いしている。
「サロメ、」
「はい」
「私に、そこまで…いや、ええと。私は、そこまでされる価値のある人物じゃない。そ、そうだろう?あ、いや嫌なわけじゃないんだ、しかし」
声まで震えている、騎士ともあろうものがなんて情けない。
妙に切なくなりながらクリスは十も歳の離れた彼を伺うように見遣った。
そう、彼は十も年上なのであり、軍事にも精通しており、戦場の経験も自分よりはるかに多く――ああ、そんな人物に本気で誓いを立てられることなどあっていいんだろうか?
そんな風に真剣に忠義を立ててもらえる器であると、自分で自分を信じることなどとてもじゃないが出来ない。
顔を盗み見ると、困った顔をしているのは相手も同じだった。
「……クリス様は、本当にご自分のことをお分かりでないのですね。」
立ち竦んでいるクリスに少し苦笑して、サロメは彼女のもとに歩み寄る。
「もしかして、私の人を見る目を評価してはくださらないのですか?」
「……その言い方はずるい」
顔をそらしてクリスは憮然としたままソファに腰掛けた。
勢い良く腰掛けたので、振動で机上のカップが軽く音をたてる。
「ではどうしたら分かっていただけるのです?」
サロメがしれっと肯定して同じように向かいに座った。
「私には言葉以外に貴女に伝える術を持たないのですが」
クリスが、ぐっとつまって口をもどかしげに開き――すぐに閉じた。
顔色一つ変えずに自分を見つめる真摯な目から顔ごと俯いて逃げ、ああもうなんで逃げなくてはならないのだろう。
ただでさえ仕事でこんがらがっている頭がますますぐちゃぐちゃだ。
頭を抱えて、ぐったりとうつむく。
「……サロメは」
「はい」
「サロメはずるい…………」
「すみません」
弱りきって机に今にも突っ伏しかねない彼女を見ていたサロメは、穏やかに笑った。
クリスがそれを恨めしげに睨む。
きっと、ちっともすまないと思っていないに違いない。
なんだか全てが見透かされてしまうみたいで悔しい。
そんな風に見られると、彼が誓いを立ててくれるなら自分は団長をやるべきなのだなんて思ってしまう。
人々を率いるのは自分なんだろうなんて自惚れが一瞬、ほんの一瞬ではあるが心の奥に湧き出てしまう。
サロメは睨みつけてくる目をすいとかわして天井をしばし見つめた。
数十秒の沈黙の後に、顔をまた彼女にまっすぐ向けて神妙に頷く。
「そうですね、では私がもし貴女と対等な立場にある者だとして。一言だけアドバイスさせていただいて宜しいですか?」
「……どうぞっ」
クリスが姿勢を正して残っていたパウンドケーキを幾分無造作に口に放る。
少し拗ねているように見えるのが妙におかしく、サロメは両手の指先を膝上で組みながら顔を緩めた。
「クリス殿」
「何ですか、サロメ殿。」
「年上の言葉は素直に聞いておくべきですよ?」
――サロメはやはり練達の軍師だ、敵に回してはいけない。
パウンドケーキをフォークごと思い切り噛み締めて、クリスはとうとう敗北を認めた。