のどかな城内を、歩いていると彼は突然現われる。
いつものことであるからもう慣れてきた。
それに、彼の軽口も妙な態度も踏まえた上で、信頼することにしたのだ。
どうして、今更疑えるだろうか?
なぜなら。
でも気付かない彼女2
「お嬢さん、どちらへ向かわれるんですか?俺にもご一緒させて下さいよ」
――今日は、頭上からか。
顔をふいとあげると、声の主が2階のバルコニーから上半身を乗り出すようにしてクリスを見下ろしていた。
鎧姿の彼女は、溜め息をつくと振りかえって彼を見上げた。
見かけよりも大分歳を食っている、人を食った態度の男が底の見えない顔でいつものように微笑んでいる。
一見上品な顔立ちと薄い金の髪は、ただでさえ怪しい彼の素性を更に不明瞭なものにさせている要素のひとつだ。
それとはまた違った意味で上品な面差しの彼女が、整った顔を僅かに歪め、呆れた顔で苦笑する。
「お前もつくづく暇だな……」
「そんな冷たいこと言うなよクリス。同じ釜の飯を食った仲じゃないか。」
相も変わらず良く分からない表現を不適切に使う男だ。
それも裏を見せないための策略なのか、彼自身の素の姿なのか、それは計り様がないのだけれども。
「……ハルモニアの動向のことで評議会とまた一悶着あってな。残念だけどお茶を飲みに行くわけじゃないから。」
「残念と言ってくれるだけで今は満足しておくよ。また機会があったら是非お供させてくれ。」
「……ナッシュ…」
――本当に本当によく分からない男だ。
眉をしかめて深く息をつく。
彼女の銀髪が額に落ちかかり、白銀の鎧は柔らかに鈍い光を映した。
「ああ、クリス様。もう一度使いを遣ろうかと思っていたところですよ。」
詳しい状況と手続きに関する話を聞きに扉を叩くと、サロメがそう言って顔を出した。
中に入るクリスの後ろで彼がドアを静かに閉める。
「いや、少し時間を取られてな。すまない」
何故だか城に食い込む形で浮かんでいる船(なぜ船なのか…)の一室は明るく、窓の外には大きな湖が明るい飛沫を散らして白く輝いていた。
「何か、あったのですか?」
腰から外した彼女の剣を受け取って側に注意深く立て掛けながらサロメが尋ねる。
対する彼女の答えは簡潔だった。
「金髪の軟派男が声をかけてきた」
「ナッシュ殿ですか?」
「ああ。本当に奴はよく分からんな。少女趣味だという噂もあながち嘘ではないんじゃないか?」
ソファに腰を沈め、眉間に皺を寄せる若き騎士団長にサロメが笑って応える。
「一時期はその噂で持ちきりでしたね。」
「本人に訊くといつも慌てて話題を変えるからな。案外本当かもしれない」
不意に思い出したのか、くつくつと抑えた笑い声を漏らしながらクリスが言った。
そのように彼女が笑うのは珍しく、しかしそれは彼女にとても、似合う表情だった。
いろいろな意味で感慨深いものを感じながら、サロメは傍目には分からないようにこっそりと苦笑する。
その表情の含むところを誤解したのか、若き騎士団長はやや顔を赤くしてこほんと咳払いをした。
「……無駄話だったな。その…すまない。」
根がとことん真面目だから、騎士団内での雑談以外にこういう噂話はしない性質で。
外部との繋がりも薄く、内部だけである種完結しているようなこの"騎士団"という世界からいつの間にか抜け出すほどに大きく成長していた彼女は、おそらくそこに戸惑っている。
内部にいながら、「外」も見渡せるようになってきている自分の器の広がりを、意外なところで意識してしまうことがあるようだ。
そんな彼女に頼もしさと親しみを感じて、サロメはまた小さく笑った。
「そんな、謝られなくとも」
その言葉に明らかにほっとした顔でクリスは頷いた。
「評議会の方はどうなっている」
「ええ、そうですね……」
答えて彼が、デスクの引出しから何枚か書類を引き出して彼女の眼前に差し出した。
「すべて状況の説明を求める催促状です。」
それを受けとって、銀髪の女性は軽く目を通す。
「何枚も同じ文面で……随分と焦っているんだな、評議会の方々は」
「突然のことでしたからね。」
「しかし、釈明のしようがないな。状況からそれが最善と判断したためであって、書面でどんな説明をしてもそれ以上のことは伝えられないだろう?」
クリスは諦めの溜め息で、軽く頭を振った。
もはやお手上げだというように書類を持ったまま肩を竦める。
デスク上の整理をしていたサロメも、それを受けて小さく頷いた。
「ええ。遠からずクリス様直々に評議会へいらっしゃった方が良いのかもしれませんね。もっとも、それであちらが納得するかは計りかねますが。」
「まあ、お偉方が何を言おうと今はヒューゴ……炎の英雄のもとに結束する以外ない。私にも、グラスランドを直に回っていてそれがよくわかったよ。ハルモニアにとってはグラスランドもゼクセンも同じ小国にすぎない、ならば小国は力を合わせる以外に自らを護る手段は残されていない……」
ソファ前の小さな机に広げた書類を細指でコツ、と叩いてクリスは口をつぐんだ。
こういう時に、生き抜く為に徹底的に合理化された、グラスランドの組織の在り方を羨ましく思う。
ゼクセンの組織系図は商売と国の運営を円滑化させるためにまた違った形で合理化されているが、軍事部分を担当する騎士団にとってそれは時に思いもかけぬ大きな制約となってしまうのだ……
「! ……す、すまない、よく聞いていなかった。もう一度言ってくれるか?」
考えに耽って俯いたクリスは、サロメの言葉を耳に入れるのが一瞬遅れ、慌てて顔を上げた。
真剣な表情から一転、心底申し訳なさそうにこちらを見上げてきたクリスにサロメは驚いて眉を上げ、苦笑する。
「ああいえ、たいしたことでは…クリス様は、旅に出られて本当に変わられましたね、と。」
日の降り注ぐ窓際で立つ副官を見上げ、思いもかけなかった言葉にクリスはゆっくりと顔を和らげた。
「変わったか?」
「ええ、グラスランドの民もわだかまりを解き始めたくらいですから、私だけの印象ではないと思いますよ。ナッシュ殿に道連れを頼んだのは、正解だったようですね」
微笑んでそう返すサロメに銀髪の彼女は苦笑して、首を振った。
「そうかどうかは分からないが……ああ、でもあの男の価値観は随分と目を覚ましてくれたところもあるし、そうかもしれないな。」
右も左も分からずゼクセンを出て、ハルモニアの男を道連れにグラスランドを歩くなど、実に貴重な経験だ。
「ただ、ナッシュはやっぱり分からない男だとは思うよ。サロメ、腕の立つのは他にいなかったのか?」
「あいにくですが、おりませんでした」
サロメが真面目な顔で、しかし僅かに目を細めて口の奥で微笑むように答える。
「ただナッシュ殿がやはり適任だと思われましたので。ちょうど、互いの目的が一致しておりましたし、条件的にも願ってもないことでしたから」
「適任、か。」
目をしばたいて頷き、そしてクリスはまた苦笑した。
「お前は本当に……なんというのか、頼りになるな」
あの男の不必要に軟派な態度を思い出すと、サロメの言葉が妙に可笑しい。
「クリス様、それはその…確かにナッシュ殿は少々、態度に問題はありますが……」
「しっかりした男なのだろう、分かっているよ。」
困り顔の参謀を真面目に見つめなおし、クリスは机に置いていた両の手を膝に置き直して真摯に答えを返した。
「確かにナッシュは軽いし、ナンパばかりしている。道案内だというのに道も良く知らないし、時には最低限の路銀すら持ち合わせていない。それに、本気なのか冗談なのか分からないことばかり言うわ。……あれは……ちょっと困るのだけど。」
しばらく言葉を切って、クリスは銀の髪をふわりと透かして顔を上げた。
「――それでも、信頼することにしたんだ」
くすりと笑って小首を傾げた彼女の表情が驚くほど素直で、サロメがふと目を見開く。
目の前の彼女は、確かにグラスランドへナッシュを伴って旅に出たことで何かを吹っ切ったのだ。
若さ以上に求められる器に苦しみ、大きな責任に縛られ、周囲の期待と重圧に耐え、頑なに強張っていた精神が澄んだ冷たい水のように今は静まり返っている。
「そうですか」
本心から微笑んで、サロメは揃えた書類をクリスに返した。
たとえこの先どのような状況になろうとも、彼女の心が穏やかで剣に迷いがなければ他のものなど求めずとも良かった。
ずしりと重い紙束を受けとって、クリスが少しの沈黙の後に言った。
机に書類を置きながら、何気ない声で銀の乙女は落ちついた声で話し出す。
「……お前が選んだのなら、信頼できないはずがないと思った」
サロメが一瞬動きを止めた。
「は?」
クリスはそれを見上げて、心底嬉しそうな顔で微笑んだ。
「ハルモニアの者だろうと軟派な男だろうと、サロメが信頼して付けてくれたのだと知ったら、安心したよ。彼の良い面を、素直に認める気になってしまった」
「……あの」
「なんだ?」
「いえ」
この無心の信頼を、疑うことはないけれど。
「皆の存在は本当に心強い。彼らと並んで戦えることを私は誇りに思う。でも、サロメはその……何と言えば良いのかな」
両の指先を絡み合わせて言葉を捜しながら、クリスが静かに微笑んでいる。
その姿は凛としていると同時に優しく、強く、この上もなく窓の光の元で白く暖かかった。
「隣にいてもらえることもとても有難く思っているのだけれど……それだけではなくて。」
「……はぁ」
「サロメが後ろにいてくれると、迷わず前が向ける気が、する。私はとても感謝しているんだ―」
彼女の言葉にはどんな含みもなく、どんな裏の意味もなく、それは彼女の真っ直ぐさと表情を見ていれば自ずと伺われることであったし、もちろん動揺していないもう一人の冷静な自分は素直に彼女の言葉を分不相応なくらいのお言葉だなどと思っているのだけれど。
「――本当に。」
クリスが一度そこで言葉を切って、穏やかに視線を夕の光が落ちる床へとそっと伏せた。
クリスはこの気持ちの暖かさが、心地よいと思う。
背中に感じるこの気持ちが、自分自身の決断を懼れず信じる勇気をくれる。
新しい価値を教えてくれた、不安要素は多くとも共にいれば気の強いあの軟派男も、命のきらめきを包み込むようにそっと伝えてくれたひとりの少女も、まっすぐすぎて慌ててしまうくらいの二人きりの騎士団も、サロメが後ろで優しく送り出してくれなければ出会えなかった者達だ。
ああ、なんと貴重で愛しい出会いを多くしただろう。
騎士団を一度出ることを認めてくれたことが、私にとってどれだけのことであったか、サロメは知っているのだろうか?
いつも自分のことを第一に考えてくれる兄のような彼への感謝を思うと、面映いようなあたたかい気持ちが尽きることを知らずに心から湧き出してくる。
その特殊な気持ちの正体も名前も、まだ彼女は知ってはいないけれども、それは当座は彼女にとってたいした問題とは思えなかった。
それを思い知るのは、もう少しだけ先だ。
彼女はまだ、それにしばらく気付かない。