目次
終わりよければ
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終わりよければ

 

 「終わりよければ全てよし」。蓋し至言である。いかに面白みのない書き出しの本であっても最終章が面白ければああいいものを読んだなぁ、実に有益な時間を過ごしたものだという感慨にふけることができるが逆の場合はそうはいかない。おお、面白い面白い、これはいったいどうなってしまうのだ世界を巻き込んだすわ一大叙事詩かと思いきや好いた腫れたの尻すぼみに堂々巡り、挙句の果てには謎を残したまま「完」の一文字を食い入るように見つめるはめになった深夜のエネルギー消費量たるや、実に我が主義主張に反することこのうえない。全ての物事には終わりがある、というが、始まりがあり終わりがあるのであればどんなものであれ、始点と終点の熱量には大いなる差異がないことが望ましい。もしどうしてもというのであれば、せめて終わりよければ……と願いたいものだな。
 そんな益体もないことをつらつらと話しながら、あくびを何度目かに噛み殺す。
 十一月も半ば、身を切る風は既に冷たい。朝空は雲ひとつなく晴れているが、予報では夜半から明日にかけて寒気が日本上空に流れ込み、全国的にも雨か雪の見込みだそうだ。隣を歩いていた福部里志に肘を小突かれたので足を止めると、幼児を背負いベビーカーを押す母親が、目の前を頭を下げて通り過ぎた。友人に身振りで感謝の意を示すと、ぐっと親指を立てられる。意味がわからん。
 足を速めた俺に軽快な足取りで並び、里志は巾着袋をくるりと回した。
「はは、そりゃあ災難だったねホータロー。だけれど僕は、終わりよければ、で全てが説明できるとは思わないね。たとえば大道芸はどうだい? 道行く人の足を止めるストリートミュージシャンでもいいさ。ほんのちょっぴりでも楽しめて、一度でも心の底から拍手喝采できれば御の字だよ。最後がまあ、ちょっとがっかりするような出来であっても立ち止まった甲斐は充分にあると思えるね」
「それはお前だからだ。俺はそうは思わん」
「そりゃあそうだ。やらなければならないことの目測を誤るとは省エネのホータローも零落したものだね!」
 里志流のジョークを聞き流して俺はおおあくびを、したいところだが冷たい空気を肺に取り入れる作業を好まないのでマフラーに顎を埋めて涙だけを滲ませる。導眠作用を期待して百円で買っておいたペーバーバックから適当な一冊を手に取ったのだが、序盤があまりに面白かったので柄にもなく夜更かしをしてしまった。寝坊気味で朝食まで抜いている。あれで最後まで面白ければよかったのだが……みなまで言うまい。大人しく羊でも数えていればよかった。
 信号でまた足を止め、またひとつあくびをする。省エネを信条とする折木奉太郎にとって「遠足はうちに着くまでが遠足ですよ、めっ」などという小学生でも教えられる現代日本の常識に属する真理を百円と朝食一食分で学ぶはめになるとは大いなるエネルギーの無駄であったと言わざるを得ない。言い直そう。眠い。
 信号が青になり、ぞろぞろと信号待ちの神高生が動き出す。妙に登校する生徒の数が少ないので遅刻かと不安になるが、時計を見ればまだ八時前。校門を目前としていることを考えれば充分過ぎる時間である。まあ、そんなこともあるだろう。千反田ではあるまいし、気にするほどのことじゃない。
 吹きだまりの落ち葉を踏む。トレンチコートの襟を寄せつつ小川を渡れば、ようやく神山高校の正門が見えてきた。
 いくら俺が睡魔と戦っていようとも、もはや違和感は誤魔化しようがない。昇降口に吸い込まれていく背中が明らかに少ない。
 いつもなら、この時間帯は生徒が一番多いはずなのだが。
 学級閉鎖でもあったのか?
 ……ふむ。今日は創立記念日なのかもしれない。
「へええ、つまり神山高校には創立記念日が二回もあるっていう新説かい? それとも七不思議かな。いいねいいね、誰も知らないもう一つの創立記念日! 隠された陰謀、血塗られた因縁、創立者たちの嫉妬渦巻く人間関係!」
「知らん」
 思考が口に出ていたようだ。溜息をつく。
「ただ登校時刻の割に、やけに人が少ないなと思っただけだ」
 里志がおお、とかうう、とか嘆声をあげて大仰な動作でフリーズした。歌舞伎の見得に似ている。俺の無反応に、今度は「やれやれ」のポーズで大仰に眉をひそめてかぶりを振った。
「いやいや、まさか! 冗談だろう?ホータローだって今月の朝礼に出ていたじゃないか! ま……まっ、まさか! この科学の発展した現代に、よもやドッペル…」
「ドッペルゲンガーでも影武者でもないから安心しろ。聞き流して内容を忘れただけだ」
「ま、そうだろうね」
 さっさとオーバーアクションを脱ぎ捨てて、里志が軽く肩をすくめる。
「簡単さ。――今日から修学旅行だよ。二年生は神山駅に集合だ」
 なるほど。全校生徒の三分の一が登校していないのだから、少ないと感じるわけだ。
 そう言われてみれば、そんな時期だったかもしれん。
「行き先は」
「うちは伝統的に瀬戸内経由で宮島・秋吉台を巡るコースだね。歴史情緒の瀬戸内海にぽかりと浮かぶ大鳥居! 焼きたてホカホカのもみじまんじゅう!」
「浮かんでいるわけじゃないだろう」
 気持ちは分かるが。
「瀬戸内の海より、天をも突けとばかりに聳え立つああ宮島の大鳥居! 焼きたてホカホカのもみじまんじゅう! 広大なカルスト台地の秋吉台に神秘滴る秋芳洞! 来年が待ちきれないよ」
 まったく同じポーズで最初から言い直す。CMを挟んだドラマのようだ。
 里志は俺の冷ややかともいえる視線はいっこう意に介さず、おおげさに胸の前で両手を乙女のごとく組んでからだをくねくねと不気味に揺らす。これはいい。他人のふりをしよう。
「……台風さえ来なければ、実に素晴らしい眺めらしいじゃないか。いやあ、楽しみだねえ」
 里志によれば宮島の厳島神社は台風の被害を受けて、参拝すらできない年もあったそうで。少なくない額を積立ててまで遠方に遠出して、目的も果たせないというのではまあ辛かろう。なれば修学旅行で毎年の目的地にするのも果たしてどうなのかという思いはあるが、まあ、何かがとても素晴らしいのだろう。たぶん。
 校門脇の路駐車を回り込んで避け、まばらな人波に混ざる。遥かに望める神垣内連峰は既に寒々しい。ひと筋刷けた雲のほかは、見事なまでに晩秋の晴れ模様だ。旅立ち日和のようで、先輩方に置かれましては無事の道中をお祈りする次第であり、うんぬん。
 ついでに今日もエネルギー消費の少ない一日でありますよう、道祖神に敬礼。

 

 放課後。地学講義室の扉を開けると、腐れ縁の伊原摩耶花が一人で何やら書き物に勤しんでいた。
 邪魔にならない位置に大きめの紙袋が置いてある。伊原は笑顔になりかけた表情をたちまち渋面にし、「なんだ折木か」とばかりに興味を失った。俺に里志に千反田。三分の一の確率でハズレを引いたものらしい。
 しかし、考えようによっては俺が現れれば伊原にとって残りはアタリしかないのだから、吉兆としてもう少し歓迎されてもいいのではないか?
「……何よ」
「いや」
 睨みつける視線から逃れて後ろ手に扉を閉めた。ここは大人しく伊原の座っている席の斜め二つ後ろ、いつもの窓際の席に陣取り、今度こそハズレではない(と祈りたい)ペーパーバックでも読みふけろう。神妙な気持ちで椅子を引いたところで呼ばれたので顔を上げると、
「ああ、そうだ折木。これ、お餅なんだけど、食べる?」
 紙袋を掲げながら伊原が言った。形からして、中に弁当箱状の器が入っているようだ。
 おお?
 実は腹が減っていたのだ。まさか吉兆に対する御慈悲か。ありがたやありがたや。
「ありがたくいただきます」
 ショルダーバッグを机に置いて、手を伸ばすと遠ざけられた。無情な距離に浮いた指先が行き場を失う。
「まだ最後まで言ってない。ちーちゃんが作ってきてくれた牡丹餅なんだから、ちーちゃんがいいって言ったらよ」
 ならなぜ訊いた。訴えても勝てる気がしないので教室を見回してみるが、俺を嘲笑する伊原しかいなかった。
「職員室に用事があるんだって。すぐ戻るって言ってたわよ」
 とすると、先ほどのアタリに向けた笑顔は千反田に対するものであったのだ。
 しかし、すぐ戻るのならいま食べさせてくれてもいいのではないか。正直に言おう。今日は姉貴が何の因果か気まぐれか弁当を作ってくれていたのだが、あろうことか減塩調理に嵌っているらしく実に味気のないおかずだらけだったのでいまいち空腹の満たされた気がしないのだ。珍しく、塩分の取りすぎやら高血圧による弊害や習慣病について滔々と御高説をいただいたわけだ……が、どう考えても俺には関係のない内容だったので聞き流しつつ弁当をバッグに詰め込み慌てて靴を履いていた。当たり前だ。姉貴は俺の健康を気遣ってどうこうなどと声をかけてくることはない。ただの嫌がらせである。おかげでそういえば朝食も抜いていたことを思い出してしまった。つまりは目の前の牡丹餅が喉から手が出るほど欲しい。
 ただ、まあ……。市販の菓子であればともかく、千反田の手製であるのなら本人の前で手を合わせていただくのが筋だという伊原の感覚はわからないでもないか。
 空腹を誤魔化しがてらペーパーバックを取り出して開く。数頁も進まぬうちに手元が陰ったので窓を見ると、光が薄い。果たして空が暗さを増してきた。ガラリと地学講義室の戸が開いて人影が窓に映り、振り返る。
「やあ、摩耶花。……と、ホータロー」
 入ってきたのは、里志だった。牡丹餅はお預けだ。しかし、笑みを浮かべてはいるが、里志にしてはそこはかとなく声も仕草にも陽気さが希薄だ。些細な変化だが、それに伊原が気づかない訳がない。俺が何を言うより先に、気遣わしげに眉根を寄せて首を傾げ、作業中の手を止める。
「ふくちゃん、どうしたの。何かあった?」
「うーん。あったというか、あったらしいというか」
 どうにも歯切れが悪い。里志は言い淀んでから頬を掻き、俺と伊原のちょうど間にある机に腰掛けて、指先を組んだ。
「実はさ、ここだけの話なんだけど……」
 と、声をことさらにひそめ、俺と伊原に交互に視線を送る。
「……修学旅行で、食中毒が起きたって噂があるんだよ」
「ええっ、大変じゃない!」
 俺は身を乗り出した伊原に視線をやってから、里志に移して一応言った。
「ただの噂じゃないのか」
「うーん。僕もそうは思ったんだけどね」
 両腕を頭の後ろに組んで、里志が考え込む。ちらりと左肩越しに、雲行きを窺う。まだ雪は降りそうにない。里志に顔を戻し、俺は開きかけていたペーパーバックに左手の指を挟んで頬杖をついた。
「お前が言うからには、まったくの根拠がない噂でもないんだろ」
「まあね。発端は我がD組のとある男子生徒なんだけれど、職員室で先生の話を小耳に挟んでしまったというんだね。僕は、彼とは特段親しくはないんだけれど……、まあ、一言で表すなら真面目なタイプでとても話を誇張するような性格じゃない。そろそろ期末試験だからね、職員室で先生に言い付かって試験準備のプリントを運ぼうとしていたところに、柴崎が電話口で――柴崎は教頭だよホータロー、念のため」
 知っている。先々週にそのことで千反田とよくわからない討論をしたからな。
「電話先は二年の学年主任らしい。ちょっと慌て気味に、声を潜めようとして潜め切れないまま、早口で話していたんだね。その男子生徒は真面目だから、耳をそばだてて逐一聞いたりはしなかったものの、どうしても鬼気迫らんとする柴崎のしわがれ声が廊下に出た後も耳にへばりついてしまって、誰かに話さないではいられなかったというわけさ。で……途切れ途切れに聞いた内容というのがだ、」
 一呼吸置いて、里志は節をつけつつ諳んじる。
「『――中毒というのは、気を抜けば命に関わることも――』
『――状況は分かり次第、逐一報告を――』
『もちろん二年生の皆は不安に思うかもしれないが――』
『病院に』
『予定より早めにということだが、こればかりは仕方ない』
 ……うーん、こんなところかな。あとはなんだったかな、うろ覚えだけど、『宮島や秋吉台が残念だが』、とか、なんとかかんとか。ま、これだけじゃなんとも言えないけど、話を聞いた男子生徒やその友人が食中毒の発生を疑うのも無理はないさ。うん。無理もない。眉に唾した僕だってさすがに何かあると考える。二年生にきょうだいのいる誰かに聞いてみようとも思ったんだけれど、連絡が取れるとしたら、早くても今日の夕食後だ。移動中はまず無理だと思うね」
「どうして?」
「神山高校では修学旅行への携帯電話の持ち込みは表向き、禁止されている」
 伊原が唸る。相変わらずどこからそんな知識を仕入れてくるんだか。
 里志は肩をすくめて手のひらを天井に向け、口をかすかにゆがめた。
「だから、まだ裏は取れていないよ。噂は噂かもしれないけど、火のないところに煙も立たない」
「しかしそんな異常事態になっているのなら、いくら表向きに禁止とはいえ家族に向けては誰かが電話を入れるだろう」
「親にはね。ホータローだったら、もし持ち込み禁止の携帯電話を持ってきていたとしてだ、お姉さんに何が何でも食中毒で大変です!と第一報を入れるかい?」
「……まあ、しないな」
 なるほど、部室に来たときの里志の顔色の意味はわかる。里志は目新しいことは大好きだがけして人の不幸を喜び蜜の如く味わう性質ではない。大好きな意外性のあるニュースでも、その内容では嬉しくなかろう。あげくに裏を取るには明日まで待つしかないときた。
 なんとも座りの悪い話を聞かせてくれたものだ。

「じゃあ、あれも関係あるのかな……」
 斜め前の席で、シャープペンシル片手に伊原が呟いた。
 自然と注目の視線を受けて、気まずそうに口をつぐむ。俺は明後日を向き、里志が笑顔で続きをうながした。
「なんだい、摩耶花。気になるじゃないか」
 伊原は憮然と里志を見上げ、細く息をついて筆記具を置いた。
「たいしたことじゃないわよ。今日は日直だったから、いつもより早めに来たんだけど、」
 よく見れば、伊原の手元の冊子には『学級日誌』と書いてある。そういうことか。
「日誌を持って職員室から出ようとしたら、何組の担任かは憶えてないんだけど……とにかく二年の先生が、顔色を悪くして、職員室に入ってくるのとすれ違って、ちょっと変だなあって思って」
「それは本当に二年生の担任教師だったのかい? ごめんよ摩耶花、疑っているわけじゃないんだ」
 反射的に言葉が口をついたのか曖昧なフォローを付け加えて、里志が訊ねる。伊原はゆっくりとかぶりを振った。
「ううん、間違いないと思う。糸魚川先生と仲がいい年配の先生よ。何かのときに一度、二年生の担任の先生だって教えてもらったことがあるから……ちょっとお腹の出てる、寡黙なお父さんって感じの先生なんだけど、ふくちゃんは知らない?」
「うーん……うん、たぶんA組の担任だね。でも朝だったら、食中毒とは関係ないんじゃないかな。出発前の確認か報告に寄っただけもしれないよ」
「それにしては、様子が変だったような気がするんだけどなぁ」
 伊原はそこで言葉を切って考え込む。ややあって、頬を僅かに緩めると嘆息した。
「でもそうね、ふくちゃんの言うとおりかも。食中毒になる可能性があるとしたら、お昼のお弁当だもの。やっぱり関係ないのかな」
 関係があるにせよ、ないにせよ。
 伊原の話は噂を否定するものではなかった、という点では意見の一致を見るだろう。
 結局のところ、放課後の間は居心地の悪い噂を背中に張りつかせたままで、検証もできずに宙に浮かせておくしかない。里志は総務委員会や手芸部に、伊原は漫研に、それぞれ縁浅からぬ先輩方もいるだろう。俺とて、「女帝」事件や「十文字」事件を通して出会うことになった先輩方の顔を苦々しく想起せざるを得ないのだ。名前と顔を知っていて、声を交わした程度の間柄。顔見知り以上ではなく、それもけしてよい印象ばかりではない。さりとて修学旅行のトラブルに巻き込まれてよしとはとても思えない。噂がただの勘違いであればいいのだが。
 古典部三名が誰とも知らず溜息をついて場の空気が淀んだところに、軽い音を立てて地学講義室の扉が開かれた。カラカラと桟をすべる戸が止まり、最後の一名が西日に照らされ顔を出す。
「あら? みなさんいらっしゃっていたんですね」
 澄んだ声に、茜に染まる白い肌。伊原の「アタリ」は、薄手のコートを抱えて、あるかなきかに微笑んだ。


「少し、暗いですね」
 薄暗い教室が気になったのか、扉脇のスイッチを入れてから、扉を閉める。点滅の後に講義室が明るさを増し、沈んでいた地学講義室の空気は心なしか軽くなった。俺は改めて、蛍光灯の明かりの下でやつの姿に目を向けた。
 古典部部長、千反田える。連絡通路の屋上で冷たい風に吹かれたせいか長い黒髪は僅かに乱れて、頬が紅潮している。「豪農千反田家」のお嬢様は、黙っていれば楚々として見える落ち着いた物腰でコートを隣の机に置いて、伊原の向かいに腰掛けた。何か言いかけてから、何かが引っ掛かったのか、数秒間フリーズ。伊原が抱えたままの紙袋に視線を落として、しとやかな見た目に反して大きい瞳で瞬くと、胸の前で静かに両手を合わせて、思い出したように微笑んだ。
「ああ、そうでした! よかったら、ぜひ召し上がってください。うちのお米で搗いた牡丹餅です」
 お許しが出たので手を伸ばす。
「ふくちゃん手洗った?」
 食中毒の話題だったせいか伊原がそんなことを言う。里志が苦笑している。普段は気にもしないのだが、身近で聞くと急に注意したくなってしまうのはどういう心理だろうか。困った時の神頼み。微妙に違うか。
「あ、あ、すみません。忘れてました……こちらでどうぞ」
 千反田が慌てて別の小ぶりな器から菓子楊枝を出して蓋の裏に置いたので、半端な指を引っ込めてから楊枝を借りた。
「ちょっと折木、あんたまさか手づか」
「気のせいだ」
「………おなかが空いてらしたんですね」
 千反田の柔らかな笑みが、心なしか固いような気がする。被害妄想はよくありません。改めて手を合わせ、取り分けられた餅をいただく。うむ、うまい。しっとりとした餡に瑞々しくも甘みのある餅が絡み、幾重にも深みを増している。さり気ないが、この菓子楊枝もたいしたものだ。金箔を散らした黒漆塗り。価値はわからんが、おそらくよい品なのだろう。
「ところで、みなさん……何のお話をされていたんですか?」
 千反田が首を傾げる。このお嬢様はけして勘の鋭い方ではないが、それでも何か俺たちがあまり楽しくない話題をしていたと察しがついたらしい。
 里志がかいつまんで事情を説明する間、俺は牡丹餅を黙々と咀嚼する。お礼のひとつも言うべきだろうか。だがタイミングがつかめない。
 視界の端で最初は千反田も目を見開き、口を手で押さえておろおろとしていた。ところが、伊原の目撃した二年A組担任の話になると、徐々に雰囲気が変わった。瞳孔が大きくなり、身は乗り出しがち、口許が引き結ばれる。
 話を最後まで聞き終えると、千反田はほうと深く息をつき、目を閉じてから顔を上げた。
「でも。でも、それでは、わたしがさきほど職員室でお見かけした、寺村先生の姿とは違います」
「えっ、ちーちゃんも寺村先生を見たの? でも、それっておかしいじゃない、修学旅行はどうしたの」
「はい、そうなんです、わたしもおかしいと思ったんです。けど、寺村先生で間違いありません」
 疑念は隠しきれないが、それでも背筋を伸ばしてきっぱりと。千反田は、薄い茜の滲む蛍光灯の下で、俺たちをぐるりと見回してこう言った。寺村というのは、文脈的に二年A組担任の名前だろう。
「寺村先生は、嬉しそうに教頭先生とお話していました。教頭先生も、寺村先生の肩に手を置いて笑顔でした。わたしは一年A組ですから、寺村先生とはA組同士、掃除当番で階段の割り当てになったご縁で、何度かお会いしたことがあります。あまり表情の豊かな先生ではありませんが、時間には厳しくてとても真摯なひとだと思います。ですから、もしほんとうに食中毒で二年生のみなさんが旅行を取りやめなければいけないとしたら、あんな風に笑ってはいられないと思うのです」
 言葉を区切り、膝上で拳を軽く握ると、千反田はやはりというべきか俺に直接視線を向けた。
「それに、寺村先生は二年A組の担任です。摩耶花さんの言うとおり、本来なら、修学旅行の引率として、瀬戸内の方へ向かっている頃です。放課後に、神山高校の職員室でお見かけするはずがありません。ですから、おかしいなと思って……そうです、折木さんに、訊いてみたかったんです」
 やはりか。
 俺は、喉の餅を飲み込んだ。苦い茶が欲しくなる。
 ――病院、顔色が悪い、二年生の皆には残念……か。
 幸い、あまり複雑な問題には思えない。
「その先生の具合が悪かったんじゃないのか。急な病気か何かで朝方具合が悪くなって朝方出発前に、学校に報告しに来た。それから、病院に駆け込んだ。だが名医に当たったか実はたいした病気ではなく、具合がよくなって後から合流することになったので、その報告に来た。だから機嫌がよかった」
「そうでしょうか」
「納得がいかないか」
 千反田の顔は晴れない。伊原が険しい顔で振り返る。
「それ、わたしも納得がいかないわ。そこまで具合が悪かったら救急車か、そうでなくても学校には電話報告で充分よ。少なくともわたしが、朝見かけたときには、倒れそうに具合が悪いって感じじゃなかった。どっちかっていうと、心配事がある感じ」
 千反田が結びを引き取った。
「それに、どうしてさきほどは、あんなにも嬉しそうに笑っていらっしゃったのでしょう。少しだけお話が聞こえたのですが、寺村先生は、これから修学旅行に合流すると言っていました。旅行先にあんな噂があるのに……それでも、微笑んでいたんです。噂は噂に過ぎないのかもしれません。寺村先生の遅刻とは関係がないのかもしれません。けれど、少なくとも遅刻しているのですから、嬉しそうに笑うようなことではないと思います。いえ、そういう方ももしかしたらいるのかもしれませんが……。
 教頭先生の様子もおかしいです。穏やかで、微笑んでいました。噂になるような心配ごとは、解消されたのでしょうか。わかりません。
 ……ですが、福部さんにお聞きしたお昼休みの噂も、いくつかの言葉が、はっきりしすぎているように思えるんです。そして、噂が本当なら、二年生のみなさんはせっかくの修学旅行を志半ばで諦めなければならないことに、なります。わたし、そんなのはいやです。そうでなければいいと思います。でも、……わかりません。修学旅行に、寺村先生に、何より二年生のみなさんに。何があったのか、それとも何もなかったのか……」
 噛み含めるように呟いて、おののくように息を吸う。
「折木さん」
 薄いくちびるの両端を引き、膝上の拳をスカートごと握りしめ。千反田はゆっくりと顔を上げた。白い肌を照らす、蛍光灯の光は淡い。
「……わたし、気になります。一緒に、考えていただけませんか」


 

 背筋を伸ばし、俺を見据える千反田の瞳は、どこまでもまっすぐだ。続きを読もうと手に取りかけていたペーパーバックを元通りに机へ伏せて、俺はそれとなくお嬢様から視線を外した。
 推論は、ないでもないが……。わざわざ仮説をこねくりまわさずとも、噂通りの異常事態であれば、遠からず学校から正式に通達があるだろう。里志もあれで顔が広いし、何かわかったらすぐに連絡を受ける手筈くらいは整えていそうなものだ。だから千反田がおそらく最も気にしている二年生の事情については、どのみち明日になればより正確な結果がわかることになる。
 だとすれば、いま、ここで敢えて考えを巡らすことは「やらなくてもいいこと」だ。だが、千反田は気にしているし、俺とて夢見はよいにこしたことがない。二晩連続での意に沿わない寝不足は、省エネ主義者としてまず避けるべき事態だろう。一日の終わりはできることなら心穏やかに迎えたい。
 終わりよければ全てよし。
 それがなんであれ、終わりはなろうことならよきものであるべきで、それは俺ひとりにとってのものに限らないのではなかろうか。
 朝の秋晴れはどこへやら、空には七割方雲がかかっている。西日も覇気がなく、雲と稜線の隙間に滲む光は寒々しい。季節は無情にも巡り、初雪が降れば秋も終わる。
「さぁ、どうだい、ホータロー」
 意地の悪い笑みを浮かべる里志に溜息をつき、千反田をもう一度見る。伏せていたペーパーバックを机の端に寄せ、閉じた。
「千反田。寺村は、これから修学旅行に合流すると言ったんだな」
「はい」
 千反田の聴覚は並じゃない。聞き間違いはないだろう。だが……、
「……ふむ」
 問題がいくつもあり、優先順位がつけ難い。
「情報を整理してみるか」
 言うと、里志が頷いて腕を組み、伊原は無言で学級日誌を閉じる。千反田が二人の向こうで、小さく頭を下げたのが見えた。

 まずは、朝だ。
 伊原は日直のため、普段よりも早い時間に登校した。里志の話を信用するなら、おそらく、二学年の教員生徒ともに、神山駅に集合すべき時間帯か、その少し前だと思われる。
 その際、職員室入り口で二年A組の担任、寺村とすれ違っている。顔色は悪く、心配事があるようだった。

 次に、六時限前の休み時間。千反田は先ほど「お昼休み」と言っていたが、正確にはその少し後、ということになる。
 試験準備の資料を運んでいた一年D組の男子生徒が、柴崎教頭の電話を小耳に挟み、食中毒ではないかと疑った。途切れ途切れの言葉は正確ではないかもしれないが、『中毒』『命に関わる』『状況を逐一報告』『病院に』『二年生の皆は不安だと思うが』『予定より早く』『宮島と秋吉台は残念だ』など。口調は明るくなく、電話の相手は二年の学年主任。
 漏れ聞いた生徒は一年D組にその話を持ちかえり、里志がその噂を耳にした。

 最後に放課後。ちなみに時刻は四時半過ぎだ。
 千反田が、職員室で柴崎と寺村が和やかに笑いを交えて話している光景を目撃している。
 寺村は「これから二年生一行になるべく早く追いつきたい」という趣旨のことを話していたことから、引率業務の放棄は当初から予定されていたものではなかったことになる。

「大きく分けると問題点は、ふたつ、ですね」
 千反田が確認するように指を折った。
「二年生の修学旅行先で、何があったのか。そして、」
「二年A組の担任は、なぜ遅刻したのか、だな」
「はい」
 千反田が頷く。付け加えるならば両者の間に関連はあるのかないのか、というところか。
「でもさ」
 ティッシュで汚れを拭き取ってから、「ちーちゃんありがと」と菓子楊枝を千反田に返す伊原だ。……律儀なことで。
「修学旅行じゃなくても、先生が遅刻する、ってこと自体が、ちょっと珍しいわよね」
「教師だって人間だよ摩耶花。寝不足になることだってあるさ」
 里志が俺をわざとらしく見て笑う。渋茶がないのに口が苦い。確かに寝不足だが、俺は遅刻はしてないぞ。
「だって、朝早くにわざわざ学校に来てるのよ。寝坊ってことはないでしょ」
 里志の思惑など知ったことではない伊原は、実にまっとうな反論をした。もちろん承知の上だった里志は、いやあそうだった!と反省もなく片目を瞑って額をこつんと叩いている。伊原のつっこみ魂に共鳴してやりたくなる仕草だが無駄なエネルギーは使うまい。
 二年A組の担任が修学旅行に遅刻した、これはおそらく間違いない。これが大学を出たばかりの新米教師ならばいざしらず、寺村は糸魚川教諭と同年輩だというのだから、年の頃は五十前後。加えて千反田によれば、時間に厳格な性質だという。どうにも情報がちぐはぐだ。
 ……というより、そもそも、根本的な問題がひとつある。机に座る里志を見上げた。
「…俺は、その寺村という教員のことを知らないんだが。いったい、どんなやつなんだ」
「おやおや、データをご所望かい」
 さすがのデータベースというべきか、別学年の教諭のことを、里志は何も見ずに手ぶりを交えて嬉しそうにすらすらと話す。
「僕が知っているのは彼が二年A組の担任であり、二学年に二人いる副主任の片割れでもあり、あとは美化委員顧問でもある、ということくらいだね。年の頃は糸魚川先生と同じくらいか、もう少し下。教科の受け持ちは社会科で、専門は日本地理だ。残念ながら直接会って話したことはない。だからねホータロー、こんなのは文字通りのプロフィールに過ぎないよ。人となりを知りたいのなら、実際会ったことのある摩耶花や千反田さんの方が詳しいんじゃないかな。どうだい、摩耶花」
 二学年の副主任なのか。年の頃も考えればそのくらいは普通なのかもしれない。
 里志に水を向けられて、伊原が腕を組んだまま右の上履きで床を削る。
「詳しいっていったって、わたしも糸魚川先生に聞いたことくらいしか話せないわよ。えっと、なんでも早くに奥さんを亡くして、男手ひとつで子どもを育てあげたとか。その娘さんっていうのが神山高校図書委員のOGで、糸魚川先生とはその縁で話すことが多くなったんだって。でも血縁だからって全然ひいきしたりしない、すごく真面目な先生だったみたい。……なんて、このあたりも全部糸魚川先生に聞いただけで、わたし自身は挨拶くらいしかしたことはないんだけど。ちーちゃんは?」
「わたしも、ご挨拶程度です。摩耶花さんと変わりません」
 千反田が伊原に頷き、俺には静かに首を振った。付け加えることはないという意味だろう。
 伊原が糸魚川教諭から聞いた話と千反田の印象は、おおむね一致している。つまり寺村という教員は、公私の区別をしっかりつけるタイプの人間だ。時間にも厳しく、喜怒哀楽の表現も控えめだ。数学の尾道のように常に機嫌を損ねていたり、福部里志のようにいつもむやみと嬉しそうだったりはしない。当然、笑うべきところでないのに、そうそうお愛想や冗談でへらへら笑ったりもしないということ、か。
 ……こうしてまとめると千反田みたいだな。
 視線に気づいたのか、考え込んでいた大きな瞳がこちらに動く。なんですか、と言いたげな顔になんでもないと首を振ると、少し頬を緩めて困り顔。続けて期待に瞳孔が心なしか大きくなり、逆にじっと見つめられる。落ち着かない。
 やや息苦しくなったので頬杖を外し、休憩にと立ち上がった。
 街並みは既に半ば以上が薄闇に沈んでいる。暗さは日の傾きによるものばかりではなく、晴れ間はほとんど消えていた。机の脇を通り、換気がてらに窓を開ける。
 予想以上に凍える風が吹き込んできたので身を縮め、開けたその手で再び閉めた。
 ――換気、終了。
 伊原の冷ややかな視線を背後に感じるが第六感などあてにならない。疑わしきは罰せずだ。人をむやみに疑うことなかれ。
 教室の真ん中では、一息ついたのに合わせて千反田が牡丹餅の容器を丁寧に片している。里志がありがとう千反田さんおいしかったよ、などとさらっとお礼を言っているのでまたタイミングを逃した。……しかし、彼岸でもないのになぜ牡丹餅なんだ。おかげで腹は膨れたのだから感謝こそすれ文句などあろうはずもないのだが……、………と。待てよ。脳裏によぎった紐の端をどうにか捉え、心の中で吟味する。
 ああ、そうか。そういうことなら、ありえるか。
 ……と、なれば。あとわからないことは一つだけだ。先ほど脳裏に飛来した記憶の端をもう一度掴み、慎重に手繰り寄せる。

 そうだ。確かにおかしい。
 あの時、どうして、俺は、あんなことを思ったのだったか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 席に戻らない俺を何気なく振り返り、里志が机に後ろ手をつく。口許だけが笑みの形を作っている。
「その顔はなにか思いついたね、ホータロー」
「いや、まだわからん」
 念のため訊いてみるか、と口を開き、さすがの福部里志でもわかるまいと考え直した。伊原も千反田も同様だろう。俺自身にも知識はないので確証はないが、とっかかりはあった。おそらく数冊あたればすぐに判明するだろう。
「と、いうわけで図書室に行く。それで、だいたいのことはわかるんじゃないか」
「わたしも行きます!」
 千反田が間髪いれずに立ち上がり、手早く途中の片づけを終えていく。
「構わないぞ。と、いうか来てくれ」
 そうしてくれると、こちらとしても寒い廊下を往復せずに済むというものだ。できればそのまま帰りたい。ので、コートを羽織り、ショルダーバッグを肩掛ける。
 しんと冷えた廊下の窓越しには黒く雲が垂れこめた空が広がり、連峰の稜線は霧のかかったようにぼやけていた。


 二年生が不在とはいえ期末試験が近く、三年生は受験も間近とあって図書室は思ったよりも混んでいた。司書の糸魚川教諭は変わったペン片手に何かを書きつけては、委員からの問い合わせに丁寧な物腰で答えている。カウンター越しで良く見えないが、あれは、筆ペンだろうか。糸魚川教諭は忙しそうだったが、こちらにも図書委員の伊原がいたため目的の本の在り処はすぐに見つかった。
 それらしい本を数冊引き出して棚の手前に重ね、一番上の一冊をまずは手に取る。基本から行こう。分厚い表紙を開いて索引からめくり、該当箇所を斜め読みする。
「これは…『家庭の医学』……ですか?」
 覗きたがる千反田を制して、席を取っておいてもらうように頼む。あまり大っぴらに見られたいものではないのだ。

 資料の本とショルダーバッグとコートを抱えて見渡すと、里志が手を振っていた。話をしても迷惑になりにくい窓際のテーブルだ。
 三人は既に席についており、俺に残されていた窓側の席に荷物を置いた。図書室は暖房の効きが比較的いいのだが、窓際はどうやらそうでもないらしい。ひとがあまり来ないのをいいことに、図書委員が換気していたのかもしれない。抑えた声でも呼気が僅かに白く煙った。
「どうですか、折木さん」
「ああ」
 質問ではなく確認に近い千反田の問いに頷き返して、暫し天井を仰ぐ。
 さて、どこから話したものか。

「二年A組担任の寺村教諭は修学旅行に遅刻した。単なる遅刻じゃない。管理職公認で事情が説明された上で、ほぼ丸一日の職務放棄だ。噂の件はいったん埒外にして、まずは遅刻の件を考えてみようと思う」
 ここで、一息。見渡してみるが否やはない。
「修学旅行といえば、二学年の最大のイベントといっていい。しかも遅刻したのは責任感が強く公私混同はしないと同僚にも評判のいい、ベテラン教師だ。クラス担任でもあり、学年副主任という肩書も持っている。けして、その責任は軽くないだろう。そんな重要な行事に前もって他の予定を入れておくはずがないから、今日の遅刻はおそらく前々から予定されていたことではなかったという推測が立つ。……ならば、どんな急な事情であれば、そういう教諭が遅刻するのかを考えてみればいい」
 千反田の真似ではないが、人差し指と中指を立てて、手前に出す。ピースではない。
「ひとつ、役割を本人が果たせそうにない場合。体調不良でどうしても行くことができない、というケースだが、これは、ない」
 伊原も千反田も寺村を目撃している。中指を折る。
「もうひとつは、教員としてではない、『私』としての寺村本人が責任を果たさなければならず、他に代わりがいない事情が急に発生した場合だ。わかるか」
 おそらく勘付くだろうと推測した通り、千反田は打てば響くようにとは言わないが、暫く考えてから顔を上げた。
「そうですね、弔事でしょうか。ですが……」
 惜しい。千反田も問題点には気づいたようで、薄い眉を曇らせている。俺は小さく頷いた。
「もし受け持ちの生徒の引率を、丸一日も他に任せてまで優先しなければならなかったとすれば、実の親子などの極めて近しい者が亡くなった場合だと俺は思う。だが、そうだとすれば千反田の目撃した光景との間に矛盾が生じる」
「先生たちの笑顔……かぁ」
 伊原が呟きながらしかつめらしく腕を組む。隣で里志がふむと首をひねって言った。
「弔辞でなければ、慶事はどうだい? お祝いごとなら笑顔は不自然じゃない」
「慶事っていうと……そうね、結婚式とかでしょ。でも結婚式って、かなり前から予定を決めてやるものじゃないの? いきなり今日明日ってことはないじゃない」
 伊原の言は尤もだ。頷く。
「結婚式を優先するとなれば、これも相当近しい場合に限られる。寺村の場合、さすがに本人ということはないだろうから、考えられるのは娘さんの挙式だな。……だが彼女は神高の卒業生だ。修学旅行は毎年同じ時期にやっているし、知らずに予定を入れてしまうというケースも考えにくいだろう。その線も薄い」
「結婚式ということはなさそうですね。葬式でもない、結婚式でもない……」
 千反田がくちびるに指を添えて反芻しているので、暫し待つ。しかし、この席は寒い。あまり待っていると凍えそうだ。かじかむ指を擦り合わせながら手元を眺め、何気なく話題を変える。
「ところで伊原、その寺村教諭の娘さんだが。いったい、年齢はいくつくらいなんだろうな」
 振られた伊原はあからさまに眉根を寄せた。一生かかっても千反田に向けることはなさそうな類の目つきで俺を見ながら、「はぁ?」と抑えた声を投げてくる。
「いきなり何の関係があるわけ。そんなプライベートなことまで立ち入って聞かないわよ」
 さいで。……知っていたら楽だったのだが、まあ仕方がないだろう。
「里志。おそらくだが、公立高校の教員にも、定期的な異動はあるよな?」
 里志は誇らしげに一本指を立てて、蜻蛉を捕まえるときのようにくるくると回転させる。
「もちろんさ! 十五年が現教員の最長記録だけど、それは例外的に長い方でね。ここ最近のトレンドじゃ、平均七年ほどで転勤になるはずだ」
 そうだろうとも。
 都心とは真逆に、田舎の進学校は得てして公立校がその役割を担うものだ。神高もその例に漏れない。つまり……私学ならいざ知らず、中学に比べてそのスパンは長くなっているかもしれないが、公立高校である神高の教員たちは必ず一定の期間で転勤を繰り返すことになる。だとすれば。
「寺村の娘は神高の卒業生だそうだな。そして、糸魚川教諭とは娘さんの在学中に彼女を介して親しくなった。寺村と糸魚川が同じ神高勤務になったのは古くてせいぜい十年前。つまり娘さんの年齢は、まず十代後半から三十歳の間だろう」
「で、それと寺村先生の遅刻にどういう関係があるのよ、折木」
 回りくどいことはやめろと言いたいのだろうが、生憎そんなつもりはなかった。大いにに関係がある。
「里志の言う通り、弔事ではないなら、慶事だ。それも『予定外の慶事』なんだ。……あくまで想像だが、寺村先生の娘さんは、妊娠中・・・だったんじゃないか」
 千反田が、はっと息をのんだ。
「『予定より早いが、仕方がない』……出産ですね」
「ああ。だが、それだけなら何も寺村教諭が自ら立ち会う必要はない。自分の子ならばいざ知らず、孫だからな。娘さんの旦那か、父方の親戚が立ち会えばいいだろう。寺村教諭は、孫の誕生を心待ちに、修学旅行という大仕事が終わってからゆっくり病院へ向かえばいい。だが、出産は慶事であると同時に母体に危険が生じるリスクも非常に高い」
 机上で手を組み、パイプ椅子にもたれる。図書室は静かだ。放課後の喧騒も遠い。
「実の娘が産まれてくる孫もろともに生死をさまようような危険な状態であり、危篤だったとしたら。一週間以上もすぐに駆けつけられないと知ってなお、遠方に向かうべきだろうか。果たしてその時でも、」
 蛍光灯が明滅する。
「寺村は『私』よりも『公』を優先するだろうか」
 死とは人生の終着だ。亡き妻に代わり男手一つで育てあげた実の娘の、立ち会えなければ二度とは訪れないそのときが迫っているとしたら。それはいかばかりの優先度か、俺には実感しようもないのだが。
 千反田は、睫毛を伏せてくちびるを震わせ、長いこと俯いていた。やがて、頬を緩めて俺を見上げる。
「では放課後、わたしが見たのは」
「ああ。結論だけ言えば、母子ともに無事だったんだろうな。そこで、ひとまず安心だと仕事に戻ることにした。教頭もねぎらう。寺村も本来の仕事に戻らなければいけないものの、めでたいことだ、安堵の笑みも出るだろう。これで、放課後の和やかな雰囲気も説明がつく」

 胸のつかえがとれたとばかりに、千反田は深い吐息をもらし、全身を弛緩させた。が、すぐに思い出したらしく再び目を大きく見開くと顔を上げた。
「だめです、折木さん。それでは、噂の説明まではつきません。今のお話ですと、お昼にD組の方が聞いた柴崎先生の電話は、今の遅刻のお話に関係があるということですが、そうすると逆に説明がつかないことも出てきませんか?」
「そうよね。中毒の話はどう関係してくるの?」
 むろん関係するが、根本的なところに取り違えがある。
「里志。お前はおかしいと思ったはずだ。あの噂が本当だとすれば、説明を受けるのは教頭の柴崎の方だろう。妙に具体的な単語が飛び交っていたじゃないか」
「そうだね。といっても、僕は直接聞いたわけじゃないから、そうらしいよ、というのがより正確なところかな」
 言語表現における正確さの追求は、この際どうでもいい。
「だから、おかしいんだ。相槌を打つ側が、なぜ説明をする必要がある。千反田も言っていただろう、『言葉がはっきりしすぎている』、ってな。柴崎は修学旅行先のトラブルについて説明を受けていたんじゃない。学年主任に対して、こちら側の、つまり神山市側でのトラブルについて状況報告をしていた・・・・・・・・・、と考えるべきじゃないか」
 半ばは途中で思い当たっていたのだろう、里志は肩をすくめて笑っている。
「なるほどね、そこは盲点だったよ。そうすると、さっき千反田さんが指摘したふたつの問題提起はどうつながってくるんだい」
 里志は頬杖をつき、俺を試しているのか手をすくうようにこちらに向けた。
「こればっかりは俺にもわからん。が、何かしら想像はつくんじゃないか。朝早くに、臨月の娘さんの様子が危ないということになり、寺村宅へ連絡が入る。理由はわからないものの、取るものもとりあえず学校には事情を説明して病院に。その時点で本人から学年主任へ一報くらいしたのかもしれないが、病院は携帯電話の電源を切らなくてはならないだろうし、二年生は移動中だ。よくわからないが、携帯電話はトンネルの中でも通じるものなのか。連絡の便を考えれば、病院からの寺村の報告を教頭が随時受けて、定時連絡の際に学年主任へ伝えていたと考えるのが自然だろう」
 さらに言うなら、数週前の校内放送のことを考えれば柴崎は急な出来事に慌てがちだ。様子がおかしかったことも、特段不思議なことではない。
「命に関わる『中毒』の内容なんだが、これは妊娠出産時の死因の主要因をあたれば難しくなかった」
 俺は、分厚い『家庭の医学』の該当箇所を仰向けに開いて、千反田の方に押し出した。

 遅刻に焦る俺の背後で、姉貴が何気なく発したこの単語。誰もがいずれ直面する実に一般的な生活習慣病、『血圧』の話題を、俺には何をどう間違っても関係のない嫌がらせだと判断し聞き流していたのは、――普段の姉貴の態度も大いに関係があるのだが――なにより、明らかに女性・・における悪影響の話を姉貴がしていたからに他ならない。

妊娠中毒症・・・・・だ。俺も説明を読んだだけだが、妊娠後期の高血圧症で、重症化すると母子ともに命の危険があるらしい。発症率は約一割だが、初産の場合や重いストレス、高血圧の場合にやや高くなる。寺村先生の娘さんは、まだ若いが、この発症率なら可能性は低くない」
 千反田の脇で、里志と伊原が医学書を覗き込む。伊原はむしろ呆れたようにぽかんと口を開けた。
「よくこんなの知ってたわね」
「たまたまだ」
 謙遜ではない。俺自身も驚き呆れているのだ。今朝がた姉貴に聞いていなければこの先も知る機会はなかったし、一晩寝ればやはり忘れていただろう。だからそんな目で俺を見るな、伊原。
 里志は純粋に興味深く紙面を追っている。
「確かに、僕らには馴染みがないけれど言われてみれば。小耳にはさんだことはあったかな……なるほどね。『二年生の皆には残念だが、こればっかりは仕方ない』。そりゃあそうだ、こればっかりは仕方がない」
 里志は納得したようだが、伊原は細かい。
「『宮島や秋吉台は残念』っていうのは?」
「定時報告だったんだろう。お互いに。だったら、文脈的に関係があると男子生徒は考えただけで、それは単に天気の話題だったんじゃないのか。日程は知らないが、瀬戸内経由で宮島と秋吉台なんだろう? 天気予報じゃ、明日から明後日にかけて全国的に雨か雪だ。風光明媚な旅行先で、天気の荒れはご勘弁、と。何も報告内容は寺村の件だけじゃないだろうさ」
 神山市は神山市で、だいぶ雲行きも怪しいがな。地学講義室の窓を開けた時の異様な風の冷たさからして、明日になる前に雪が降ってもおかしくない。ちなみに念を入れて折りたたみ傘は持ってきた。
 とりあえず、これでなんとか説明はついた。少なくとも、先ほどよりはだいぶ寝覚めはよいだろうし、千反田もようやく納得してくれたようだ。
「なんとなれば、二年生の先輩方は元気で今も旅行を満喫しているというわけだ。心配には及ばないね。安心したかい、千反田さん」
「……はい。折木さん、ありがとうございました」
 千反田が微笑んで頭を深く下げる。
「事実とは限らないけどな」
 それこそ、明日になれば裏も取れよう。

 里志の荷物はまだ部室にある。伊原は学級日誌を書き終えておらず、部室に戻るそうなのでここで二人とは別れることにする。
「糸魚川先生、何を書いていらっしゃるんですか」
 カウンター越しに背をかがめている千反田を横目に本を返して一足先にコートを羽織り、寒い廊下に踏み出した。
 タイルに足音が吸い込まれ、屋内のくせに息が白い。
 それにしても、姉貴の言葉だ。伊原には偶然だと言い切ったが、果たしてそんなことがあり得ただろうか?
 知り合いが何かしらの病気にかかれば、気になるのが人の性というものだ。たとえば隣の席の女生徒がインフルエンザで休んだら、俺は普段よりも手洗いうがいを丁寧に行うことだろう。食中毒の話を聞いたあとで、俺たちが手を洗わずに牡丹餅を食べたものかと悩んだように。姉貴が高血圧対策の料理に嵌り出したのはいつもの気まぐれだろうが、気まぐれのきっかけとなった友人知人がいたのかもしれない。寺村の娘は、ここ数年での神山高校のOGだ。姉貴と同じ年か、先輩か後輩か。無駄に顔の広い姉貴のことだ、何にせよ知り合いだったという可能性はけして低いものではない。
 まあ、……だったらどうということもないのだが。

 少し遅れて、早足で品のいい靴音が追いついてくる。……と、そうだった。
 足を止め、肩越しに斜め後ろを振り返る。空が暗いせいか、階段は窓からの光も薄く、足元は胡乱だ。ゆっくりと下りながら、前を見て話す。
「千反田。……牡丹餅のことだが、近所でお祝い事でもあったのか」
「はい、少し。たくさん作りましたので、お裾分けです」
「実にうまかった。ご馳走さん」
 ヒントにもなったしな。
「いえ」
 お嬢様は大きく表情を動かすことはないが、喜んでいることはわかる。これで懸念事項も解消された。心穏やかに帰るべし。

 昇降口。
 外靴に履き替えて合流し、ショルダーバッグの底を探りながら、半ば想像を確かめるために訊いた。
「そういえば、糸魚川先生は何を書いていたんだ」
「ご祝儀袋でした」
 目が合った。千反田が昇降口のほのかな灯りに照らされて、口許を緩めるとゆったりと微笑う。
「寺村先生、――初孫だそうです」
「そうか」
 俺は千反田から庇の縁へと顔を向け、白い吐息で折りたたみの傘を出す。
 天気予報は当たらなかった。
 冬の始まり、初雪だ。



(『終わりよければ』/了)

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10周年記念リクエスト企画の『古典部シリーズで奉太郎と千反田さんの出てくるお話』というお題で書かせていただいたものです。(リクエストは、かおるさとーさんからいただきました。ありがとうございました!)
※妊娠中毒症は2005年から正式名称が「妊娠高血圧症候群」と改名されていますが、古典部シリーズの舞台は西暦2000年なので、旧名称を使わせていただきました。