一度だけストレート
カキン、と、乾いた音が空に吸い込まれて、高く伸ばされたミットを越えて一瞬、光に溶けた。
遠目に届く懐かしい光景に口元を緩め、高津神無は足を速める。
高等部校舎からグラウンドへの道を通る風は春の終わりであたたかく、新緑もまぶしい。
(これは、そろそろ日焼け対策を強化しないとね……)
強い陽射しに眼を細めて、見えてきた中等部のグラウンドへ手を翳す。
二年前の夏、寄せ集めからスタートした千刻シニアも、今やすっかり大所帯だ。
歓声と乾いたバットの音、運動部特有の規則正しい掛け声、球がミットに吸い込まれる快いくぐもった音。
二年間も睦月に付き合って毎日のように聞いていたせいで、元は野球に興味のなかった神無にとっても、それらがいつの間にか耳馴染み良い音楽に変わっていた。
「どれどれ、頑張ってるかしらね~……」
独りごちながら、土手を慎重に下りて、木の陰で覗き見る。
初夏のそよかな風に跳ねた髪がなびき、白いスカートは木漏れ日にまだらな影をつくっていた。
光の粒子が変幻自在に形を変える。
弟が、腕を高く上げ、小柄な相棒のミットをまっすぐめがけて、ボールを投げ込む。
力強い音が、パァン、と響く。
慶の返球を自然な動作で受けて、睦月が何かを話してから、投球板へ靴を添え、流れるようにまた投球姿勢に入る。
神無は木陰で満足そうに笑った。
睦月は名実ともに千刻シニアのエースになった。
毎日の走り込みの成果か、それとも実の父親に似たのか、小さかった背も伸びた。
今はまだ同じくらいの身長だけれど、抜かれるのも時間の問題だ。
もう、拗ねてゲームに逃げてばかりいたあの頃の弟ではない。
中等部卒業後は友人の宿河原や野球の白服・大河とともに、甲子園常連の横沢高校入りも確実だと囁かれているのだから、さすがの神無姉さんも驚きだ。
(まあ、……ってことは、つまり)
つまりは、来年から、姉弟で別々の高校になる確率が高い、ということになるのだけれど。
木陰の涼しい風にちらちらと青空が垣間見えて、神無は少し肩を竦めた。
土手の乾いた場所にハンカチを敷いて、腰を落とす。
手の下の土がひやりと冷たい。
――と。
ひときわ良い響きがして、フェンスを軽く超えて美しい弧を描きながらボールが頭上に、飛んできた。
身を竦めた後方に、重いボールが鈍く跳ねて落ちた。
「……相変わらずよく飛ばすこと、」
呟いて斜目にグラウンドを見やってから、土手を数歩登り、草に絡んだ硬球を屈んで拾う。
縫い目の手触りが懐かしい。
遠目に、神無の姿を見つけたのだろう。
普段であれば新入生が拾いに来るオーバーフェンスのボールを、回収に来たのは果たして4番スラッガーの溝口大河だった。
「頑張ってるじゃない。感心感心」
「おう」
軽く放ったボールを無造作に受け止めて、一瞬背後を窺ってから、戻ることなく彼女の方へやってくる。
相変わらずの仏頂面が近付いてくるのを、神無もその場で暫く待った。
汚れたシューズが草を潰して陰に光る。
「何でそんな隠れるみたいにしてんだよ。入ってくりゃいーだろーが」
「うん。……まね。むちゅはもうエースだもん。お姉ちゃんがしゃしゃり出て、顔を潰しちゃ悪いわ」
「ほー」
カン、と新入部員の少し冴えない打撃音がして、神無は練習風景を眼で追った。
大河は平坦な声で合いの手を打ち、一拍置いてからぼそりと言った。
「あんたも色々考えてるんだな」
神無が木陰で微かに釣り目を細めて笑った。
視線の先には、睦月がいる。
「ん、それにさ。もう、あの子に私は必要ないもんね。あたしが引っ張らなくても、睦月は一生懸命頑張ってるでしょ?」
「まーな」
うんうん、と満足げに神無は何度も頷く。
大河が大きな手でボールを真っすぐ上に放ると、一瞬、初夏の雲に白く溶けた。
「…も、必要、ないかな、やっぱり………」
「ん?」
草のさざめきに紛れた呟きに、大河は一つ年上の相手を横目に眺めた。
はっと、癖のある髪が揺れて、息をのむ。
「な、なーんてね! いやぁ、あたしも高等部に行ってからホームシックっていうか、」
睦月の独り立ちは嬉しいけれど、姉としては少しだけ寂しい。
弟の成長を優先して、今まではそんな思いを外に出したことはなかったので、神無は慌てて誤魔化すように明るく笑った。
照れ隠しに隣の腕を叩くように手を振る動きがぎこちない。
大河が、もう一度軽くボールを弄んで溜息をつく。
「……まぁ、オレにはあんたが必要だけどな」
「へ?」
バシバシと汚れたユニフォームを叩いていた、細い手首が動きを止めた。
カン、と、芯を捉えた打撃音が遠く響く。
大河は神無の方を見ずに高い位置でメットをぐいと被り直すと、無言でグラウンド奥へと駆け戻っていく。
神無は宙に浮いたままの手を持て余して、見慣れた背中を呆然と見送った。
うつろな視界に手のひらが映り、冷たい土の名残りが汚れてざらついている。
(な、何言ってんのよ)
木洩れ日がちらちらと頬を掠めて、じわじわと言われた意味を理解した神無の体温を上げていく。
耳あたりから湯気が出そうな顔色だった。
午後の新緑は風に揺れながら、さらさらと彼女の頭上で煌めいている。
混乱し立ち尽くしたままの視線の先では、乱れ飛ぶ歓声を背負い、睦月が大きく振りかぶって、ストレートを投げ込んでいた。
カキン、と、乾いた音が青空に吸い込まれて、高く伸ばされたミットを越えて光に代わる。
――なにはともあれ。
グラウンド裏の微熱を映して、初夏の熱気は砂煙を撒き上げながら。
今年も千刻シニアに、青空と挑戦と、白球の季節がやってくるのでありました。