ある夏の暮れ

 ドアの隙間から覗いた顔を認めた瞬間、斑の警戒がするりと解けた。
 長い影が会議室の床に落ちる。斑の頬にも、白い西日が射す。薄水色の空を背に立っているのは、ESの『プロデューサー』……あんずだった。透けにくい色のファイルにぎっしり詰まった資料を抱えて、左右に視線を走らせてから「今いいですか」と小声で訊ねてくる。

「ふふ。その様子だと、例の件はうまくいったみたいだなあ?」
「はい、それで報告を……あれ?」

 扉を押さえる斑の腕の下から、あんずが会議室の奥を覗きこんでくる。

「こはくさんなら今ごろ事務所に戻っているんじゃないかあ?」

 伝わらなかったらしい。首をかしげる仕草が小動物のようだ。こんなかわいらしい子におずおずと切り出されたら、あの手の馬鹿な男は疑うまい。頼みごとはさぞやうまく運んだろう。

「俺たちの計画はまだ誰にも知られない方がいい。だから念のため会議室も長めに予約して、出る時間も別々にずらしているんだよなあ。……ははは、これはこれでアイドルっぽいだろう?」
「……」

 あんずは、一瞬、すごく呆れた顔をした。

「とりあえず、三毛縞さんに報告しますね」

 ちいさな体が、トンネルみたいにすいと二の腕の下をくぐる。さすがにお上品な例ではなかったかあ、と斑も反省したので、おとなしく腕を持ち上げ彼女を通す。後ろ手に扉を閉め、壁際の席に着いた。
 資料を並べ、進捗の報告を受ける。
 さすが敏腕プロデューサーと名高いだけある。簡潔明瞭、わかりやすくまとまっている。さぞや嫌な思いをさせられただろうに、どこ吹く風と淡々と【マーブルキャスト】の問題点を分析するさまをあの男に見せてやりたいものである。まあ、……この子の価値を悟らせる気など毛頭ないのだが。

「あのひとも『プロデューサー』なんですよね」
「同業者の君から見てGFKはどうだあ?」
「……すごいひとだと、思います。舞台も、番組も、うまくいきそうにない企画もあるのに。トータルで見れば、どうにか収益化できてる」

 資料から顔をあげて、あんずがそんなことを言う。少し傾けた視線の先に、別の収支表がある。

「ひとつの番組が長年続いてるって、すごいことなんですね。長生きしているだけで、価値が生まれてる。だからこそ、余命いくばくかの【マーブルキャスト】を延命させるために、管を入れて人工呼吸器に繋ぐみたいに、驚くほどいろんなことをしてる。……弱みを握ったスタッフさんに無理やり、させていることも多いから、GFKだけの功績じゃないですけど。私の知らない方法、やれること、まだまだあるんだなって思いました」

 斑は頬杖をついて、揺れる毛先を見つめる。白熱灯に照らされるネイビーのスーツは、まだ借りてきた衣装みたいで、あんずに馴染みきっていない。だというのに、

(君は怖いなあ。あのGFKからも、アイドルを輝かせるための手練手管を吸収し換骨奪胎して己のものにしようとしている)

 無反応が気になったのか、あんずが問うようにこちらを窺う。斑は吊り目を細めた。

「大丈夫、聞いているから続けてほしい。ママは感心しています! 自彊不息! それでこそあんずさんだぞお♪」
「あ、はい。もちろん、その『収益』のいちぶはお客さんの支払ってくれたお金じゃなくて、アイドルやスタッフのみんなから不当に搾り取ったものも含まれていて、だから……許せないけれど」

 細指のあいだで、資料がよれる。情報部の極秘資料を、横流ししたのは斑だ。彼女は『アイドル』を愛しているから、彼らを踏みにじられれば、我が子を打たれた母のように怒る。事実を知れば、彼女は協力を拒めない。
 優しいあんずさん。
 転校そうそう、Trickstarの革命に賛同し立ち上がった勇ましい『プロデューサー』。斑も大概愚かだが、愚かさでは彼女も負けていない。

「うんうん。生き馬の目を抜く芸能界でまがりなりにも生き延びてきただけあるということだなあ。生物の在り方としてはまあ、正しいといえなくもない。宿木ヤドリギ郭公カッコウも立派な宇宙船地球号の一員だぞお。優勝劣敗! 他者を利用し生き延びるのも生存戦略のひとつだなあ!」

 見上げてくる青い瞳に、映る斑は笑っていない。

「とはいえ俺たちは爪も牙も持たないが、徒党を組み身を寄せ合い、松明を振りかざし闇を駆逐した人間だ。泣き寝入りする必要はない、涙が枯れて立ち上がれないなら、誰かが代わりをしたっていい。そうして手を取り合い、生き延びてきたのが、人間だ」

 楽しさを詰め込んで月夜のような静寂を織りこみ、天上のタペストリーを描くあの子に、斑の親友に手を出したから。可哀想だが容赦はできない。
 燻っていた熾火に、薪が投げ入れられた。だから、

「……すくなくとも、俺は、許さない。手遅れになる前に、今度こそ、真似事でもいいから大事な誰かを助けたい」
「はい」

 静かな応えがあった。澄んだ瞳が、妙な輝きを湛えて、まじまじと斑を見ている。

「三毛縞さん、楽しそうですね」
「えっ……そんな話じゃなかった気がするんだが。ママの話を聞いてくれてたかあ?」

 斑に構わず、あんずは俯いてブツブツと呟いている。手帳に書き込みもしている。マイペースな彼女らしい。

「ロゴと、衣装の手配と……でも知らせるひとは少ない方がいいのか……。衣装は私が作りますね」
「ああ、うん。苦労をかけてすまないが、巻き込むひとは増やしたくないからなあ。後顧の憂いはないようにしたい」

 ふむふむと頷くと、二、三の確認事項を書き留めて、あんずはパタンと手帳を閉じた。

「これ以上は教えてもらえないんですよね」
「そうだなあ。知らないでいてくれた方が、俺たちも仕事がしやすい。あんずさんは顔に出やすいからなあ……ほおら、『そんなことないです』って顔だぞお! わかりやすいところは小っちゃかったころから変わらないなあ♪」
「……あなたも」

 あんずが、口にしかけた言葉を切って、首を振る。そして立ち上がる。

「ううん。大丈夫。任せてください。やる気が出てきたんです、私」
「おお、頼もしいなあ」
「こはくくんのところに行ってきます。採寸しなくちゃ」

 資料をかき集めて揃えてファイルに詰め込み、慌ただしく出口に向かう。見送りに扉を押さえた斑の二の腕トンネルをくぐると、あんずの足下は淡い橙色に満ちていた。九月ともなれば、夜の訪れは日に日に迫ってくる。
 血のように赤い夕陽色のなか、駆けだそうとした足が止まる。肩をひねって顔だけ振り返り、

「三毛縞さん。私、負けませんよ」

 花咲くように、あんずは笑った。

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