夕闇の向こう
チリン、と鈴のような音が響く。
18階でドアが開き、私だけが降りた。下りエレベーターを待ちながら雑談しているのは定時で上がる事務員さんのグループだ。会釈して脇を抜ける。コズミックプロダクションは七種くんの領分だから、他の事務所に比べて顔見知りのひとも気持ちすくない。ファイルを抱いた腕に力が入る。
モノトーンの絨毯に夕陽色が染み込んで、血の流れる泥地を歩いているみたいだった。三毛縞さんに教えてもらったGFKの行状が蘇る。『P機関』で知らされていたよりもずっと、内実はおぞましかった。
ESのアイドルを食い物にしはじめた、悪徳プロデューサー。
彼のことは、『P機関』の会議でも『サミット』でもこれまでたびたび議題に上がってきた。法的措置を検討しているけれど効果が薄いだろうと、偉いひとたちが頭を抱えていたのを何度も見ている。生き死にの激しい世界だ。業界に長くいるというだけで、とてつもなく強い。長期戦になっても勝てるかどうか。
なのに、
三毛縞さんは、こはくくんとならGFKを来週にも『成敗』できるという。こんな短い準備期間で。司くんもユニットの準備資金を出してくれるという。
そそけだつ予感には気づかないふりをする。
(きっと、何をするのかは、最後まで教えてくれない)
あのひとが何も言わないのは、今回レオさんにそうしているのと同じように、いつだって大事なひとたちを守るためなのだ。
そして――大事なひと、には「私」も含まれているのだろう。いまだに彼を思い出せもしない、恩知らずの私も。
コズプロの事務所をのぞく。声をかける必要はなかった。こはくくんは勘がいい。一緒にいた燐音さんに何かを告げて、こちらの気配をすぐに察して来てくれた。
「もう夕方なのにごめんね」
「良ぇよ、気にせんで」
「オイオイオイオイ、こはくちゃ~ん。おね~さんと二人っきりでどこに行く気なのかなァ? あァン? 逢引はダメでしゅよ~アイドルなんでちゅからね~」
「黙らんかいボケカス」
後ろからこはくくんの肩に片腕を回し、頬をつつこうとした燐音さんが、急にグエッと呻いて蹲った。
「え、え? 大丈夫ですか?」
こはくくんが鼻を鳴らす。
「放っとき」
「でも」
「グゥ……ッ……おね〜さんが結婚してくれたら治るかもしれねェ……」
「あ、大丈夫ですね」
「心配せんでも大丈夫や、燐音はん。わかっとる」
燐音さんに穏やかな瞳で告げると、こはくくんは私を手招きして事務所の奥へ向かった。喧騒から距離を取り、窓際のパーティション奥で用件を説明する。
「はぁ、衣装の採寸なぁ。そら考えもせんかったわ」
こはくくんが目を軽く見開いてから、悩ましげに俯いて指の第二関節を薄い唇に添えた。桜色の前髪は一本一本がしなやかで細く、広窓から降る赤い色に透けている。世界の終わりを奏でる楽器の弦はきっとこんな色をしているのだろう。なんとなしに視線を投げると、まだ空を映して明るい川面の向こう、街だけがひっそり夕闇に沈んでいくのが見えた。
もう一度、目の前のこはくくんに目を移す。
「せやけど事務所が『Crazy:B』の衣装を作ったっちいうことは、こっちに資料でもあるんとちゃう?」
「こはくくんくらいの年だとすぐ成長しちゃうから……。去年もね、【ハロウィンパーティ】で一年生の子の練習着を用意したときにね、」
実は測り直したデータをもらうこともできるのだけれど、なるべくなら言いたくない。七種くんに借りを作るとあとで取引材料にされてしまうから、できれば自分でやりたいだけだ。
「ふんふん。前にそれで丈が足りひんことがあったんやね。良ぇよ、そういうことならむしろわしからも頼むわ」
「ありがとう。すぐ済ませるね」
ポケットからメジャーを出して、さっそく始める。こはくくんは大人しく手を開いたり足を開いたりして、きれいな姿勢で動かずにいてくれる。 やりやすい。
腕を横にあげたまま、こはくくんの視線は足下を見ている。
「【ハロウィンパーティ】なぁ。わしはよう知らんけど、ラブはんが今年は絶対参加するっち言うて興奮しとったわぁ」
「一般のお客さんも参加できるし、すごく規模の大きいドリフェスだから楽しいよ。よかったら来てね。今年は学校の方にはあんまり関われないんだけど……去年は三毛縞さんの発案で『流星隊』と『Ra*bits』が泊まり込みで準備を手伝ってくれて……」
雑談の傍ら数字を手帳に書き留めて、ページをめくる。この手帳で何冊目だろう。朝に夕に、夏の終わりの、匂いがする。あれからもうすぐ一年が経つ。
「はぁ。斑はんは変わらへんねやな。ったく、あっちゃこっちゃ節操なく首突っ込みよってからに」
こはくくんが呆れたようにぼやく。
「ま、助っ人ばかりしとるっちことはそういう性分のひとなんやろな。なんや、ぬしはんと似とるような気ぃするわ」
「そうかな……」
少しの間、手が止まった。足元の絨毯は、デスクの陰で黒く沈んでいる。
「『幼なじみ』なんだって。だから似てるのかも」
「……へぇ。そうなん?」
床に膝をついて、足まわりを測る。こはくくんの表情は読めない。
「小さいころ、よく遊んでもらったみたい。私は……どうしても思い出せないけど。それだけの縁で、ずっと助けてもらってるの。最初から、三毛縞さんにはなんの得もなかったのに」
メジャーを巻いてポケットにしまった。数字を書き留める手元の残光が、かすかに赤くなり、やがて薄れていく。
「だから、……あのひとに恩を返したい。笑ってほしい。どんなことでも、笑って楽しめることを、やってほしいの」
「ふふ。ほっか、斑はんは幸せもんやね。こないに想ってくれはるひとがおって」
「そ」
優しい声に含みはない。そわ、と背筋を撫でられたように冷える。
「……そういうのじゃ、ない」
「? そういうのって何なん?」
「あ、……ううん。何でもない。勘違い」
波立つ心を縫いつけて、笑顔の布をかぶせる。大切なひとには笑っていてほしいだけ。誰でも普通に思うことだ。
好きな色やモチーフ、動きやすさについての希望なんかを聞き取って、壁の時計を見る。まだ手芸店には間に合う。
「こはくくん。細かいことはわからないけど……『ユニット』活動のことなら私に任せてね。二人が最高の状態でステージに立てるようにバックアップするから、よろしくね」
「コッコッコ♪ そら、おおきに。頼もしいなぁ」
「うん。困ったことがあったら、いつでも連絡してください」
「そやったら斑はんに言ってくれん? 連絡はまめにせえ勝手に何でも決めんなやわしは子供とちゃうで事あるごとに抱えて運ぶのやめんかい」
「あはは」
ひとしきり笑ってぺこりとお辞儀をすると、居たたまれなくなるほど美しい「礼」で返される。
きれいな子だ。
IDカードで退勤処理をして、エントランスを出た。
宵の空気が肌に優しい。薄藍色には一番星が輝いていた。
夢ノ咲近くにある馴染みの手芸屋に行くため、駅方面へ急ぐ。
駅の階段前で、三毛縞さんを見つけた。めずらしく鞄を掛けている。近寄って、服の裾を引いた。
「んん?」 と肩越しに振り返った無機質な視線が、私だと気づいた途端、そっと温む。
「おやあ、あんずさんじゃないか。こはくさんには会えたかあ? うんうん、良かった良かった♪」
挨拶だけでお別れだと思っていたら違った。意外にも、同じホームへの階段を並んで下りる。
「寮には帰らないんですか?」
「うん、ちょっと野暮用でなあ。あんずさんのおかげで【マーブルキャスト】の観客も俺たちで選べることになっただろう? それで、できれば当日、来てほしいひとがいるんだよなあ。あちこち飛び回るから、数日留守にするつもりだぞお」
「手配ならこちらでしますよ」
「いや。ちょっと考えていることがあるから、招待客の件は俺たちに任せてほしい。その代わり表向きの『ユニット』についてはあんずさんにプロデュースをぜんぶ任せたいんだが……君は忙しいからなあ。無理をさせてしまいそうだ」
ホームに立って、同じ方向を見ている。緩い風が吹いている。
「あの、」
「その上で。あえて我が侭を言ってもいいかなあ。『プロデューサー』の君に、頼み事がしたい」
――まもなく、電車が参ります。
アナウンスと、線路の振動と、まばゆい光と。ざわめくホームの喧騒のなかで、三毛縞さんは私を見た。
「無理をしてくれ」
「やります」
「ははは。即答だなあ!」
三毛縞さんが笑う。すこし雪のにおいがする、あたたかな春風のように。
(ぜんぶは教えてくれなかったけど)
何もかも隠されて、遠ざけられたわけじゃない。手を出す余地が残されている。
私は、夜への扉を潜れない。でも、あの子が真暗闇でも迷わずに、彼とともに歩いてくれるなら。そして、どんな名目でもいい。ステージに立ってくれるなら、『プロデューサー』の私にしか鍵を開けられない道がある。
春色を名に纏う少年と、春風そのもののようなひと。でもきっと、二人並べて春のような淡い色で飾るのは、違う。衣装のイメージが泉のように湧いてくる。レオさんの気持ちが今ならすこし理解できる。はやくこの世に出したい。私のなかに満ちたすべてを。
「『プロデューサー』のお仕事ですから。当然です」
私も笑った。
列車がホームに滑り込み、甲高いベルが鳴る。
重い扉が音をたてて、ゆっくりと開いた。