満開の桜を横目に急ぐ、四月の夕暮れ、今日もおふくろ亭は忙しい。
出前から駆け戻った辰巳料馬は、手洗い消毒、身支度もろもろ手早く終えて、惣菜売り場へ加勢した。
いとこの玲実と窓口業務を入れ替わり、持ち帰りの注文をちゃきちゃきさばく。春風越しに耳を打つのは、油と衣の出会う音。忙しなくとも心地いい。
春休み中で学生が少ないことを除けば、いつも通りのかきいれ時、だったのだが――
「はいっ、肉じゃが2つに、メンチ3つ、お待ちどーさまです! ……次、は、あー、レミ姉、カニクリームコロッケひとつね」
「ちょっと。まだ何も言ってないんですけど」
同級生の白緑 亜緒が、小窓の先で顔をしかめている。
春休み中は私服だからか、学校で会うよりも、夜のオフィス街で戦うときよりも、空気がどこか柔らかい。
料馬は笑った。
「あれ、違うの?」
「違いませんけど。カニクリームコロッケひとつ」
「はいはい。いらっしゃい亜緒ちゃん」
いつもなら攻撃的な言葉の一つや二つ投げてきそうなタイミングだというのに、なぜか白緑亜緒は押し黙った。
料馬が不思議そうに瞬く。
ツインテールの先が揺れ、目を逸らすこと数秒、そして溜息、――のちにきゅっと大きな瞳が睨みつけてくる。
「……辰巳くん。今日は言っておくことがあるの」
「どうしたのさ改まって。はいコロッケ。熱いから気をつけて」
「ありがと、ってあああもう、そうじゃなくて! パパが転勤することになったの! 新学期から転校するの!」
――怒鳴りつけられた言葉が臓腑にすとんと落ちるまでには、しばらくかかった。
絶句している料馬の顔色を見て、満足したのかようやく亜緒がフフンと笑った。
「というわけで、ここに来るのは今日で最後だから。じゃあね!」
「え? はあっ!? ちょ、ちょっと待っ、」
紙袋を小脇に抱えた小柄な姿が踵を返し、小窓から消える。
「え、ちょ、だあああああああもうっ、レミ姉後頼むごめん!!」
エプロンを引き剥がす間も惜しく、料馬は慌てていままでなかったわくわく日清U.S.O.状態のいとこに後を託し、勝手口から駆けだした。
商店街を見まわしながら走り抜け、交差点越し、横断歩道の人混み向こうに見覚えのある薄い肩をようやく遠目に見つけたが、あいにくと信号が点滅している。赤に変わってしまいそうだ。
「ええい、くそっ!」
メンチカツを食べる!
運動会のお弁当に母親・芳江が必勝祈願にと決まって入れてきたおふくろの味、料馬の走力を倍加させるためのまさに秘密兵器である!!
組織との戦いでもないのにオフクローの必殺技を使うなど、本来ならば禁じられた行為であった! しかし母親は息子の思春期を遠くから春風のような生温かい目で見守るものであるから竃神は片目を瞑って料馬の行為を見逃した!!
必殺技の甲斐あって、地下鉄の階段手前で料馬はようやく亜緒に追いついた。二の腕を掴んで引きとめると、相手が振り返る間もなく、汗だくのまま顔を近づける。
「亜緒ちゃん! 待って! さっきの何!? 転校すんの!?」
「た、辰巳くん? え、何その格好」
「俺の格好なんかどうでもいいだろ!」
「ええい声が大きい!」
ジャンキーホワイトに黒くて甘い炭酸で攻撃されるが今の料馬にはお袋の加護があり無敵である。
攻撃は効かなかった!
ジャンキーホワイトは焦った!
隙だらけだ。眼が泳いでいる。
「や、あの、なんで、関係ないじゃない、もう放して」
「関係なくないだろ。どこ行くの。県外? まさか海外とか言わないよな、いつまで? 連絡先くらい決まってんでしょ」
「う、ううううう、うるさいうるさい! ちょっとは頭使いなさいよ馬鹿っ!」
ジャンキーホワイトは宇宙船型インスタント焼きそばで回転攻撃をかけようとしてきたが、迂闊ッ! 日付の関係でU.F.O.がU.S.O.になっていたのだ!!
不発であるッ!
ことごとく攻撃を無効化されたことに業を煮やしたらしく、料馬の前に細い人差し指がつきつけられた。あっち向いてほいの要領で、指先がぐいと向いた先には商店街の入り口脇、飾り柱にある、日付つきのデジタル時計。
「今日の日付! カレンダー!!」
4月1日。
「………あ」
「ばっかじゃないのばっかじゃないのばっかじゃないの!? ほんとに転校だったら学期末にわかってるでしょ! 頭使いなさいよ、エプロンのまま追いかけてくるとかなんなの、もう恥ずかしくてコロッケ買いに来れないじゃない!」
「え、やめてよ来てよ。寂しいじゃん」
思わずぽろりとこぼした言葉に、ジャンキーホワイトが絶句している。料馬は気づかず素直に笑った。
「まあでもウソなら良かった。引きとめてごめん。じゃあ俺店に戻…、」
次の瞬間、おふくろの意志により無敵状態を脱したオフクローに、甘い無果汁の炭酸攻撃が百連発で浴びせかけられた。
当然の成り行きであった。
おふくろの意志である。
男心は春のようにぼやけて鈍く生温かいので、叩き起こさないとまたうとうと眠ってしまうからである。