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ブルー・マウンテンの所為

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 葉鉢神社。
 坂が多いから坂多町、というなんとも捻りのない町の北北西に位置する、こじんまりとした神社だ。県境に連なる蚕尾山の裾野にあり、神社の裏山を分け入っていけば、やがて深い林から急峻な山手へと出るらしい。もっとも水はけが悪くしばしば土砂崩れが起きるため、山菜や茸の季節でも人の出入りは殆どない。

 自宅と中学を結ぶ線とはほぼ逆方向にあるその神社の境内をその夏、通ることになったのは、母の勧めで渋々向かった夏期講習のせいだった。受験生なればこそ、夏期講習それ自体に反発する理由はなかったが、勧められた塾は小学校のころ住んでいた隣町、坂多町の駅裏だった。駅といっても、数則の住む町まで電車の路線は通っていない。路線バスはあるが、一時間に一本だ。つまりはただ遠いだけの、非常に便が悪い隣町。夏の暑さで祖母が体調を崩して入院し、母が迎えに来れないとあってはその遠さもひとしおだった。

 あの日と同じ夕立のせいか、教室で外を眺める数則の脳裏には、先週の光景が何ともなしに蘇っていた。

 引きとめる友人の喚き声、夕立の上がった濡れたアスファルトの匂い、少女の泣き出しそうな顔。降りしきる蝉の声、神木の高みから落ちる水。

 頬杖をついてぼんやりと光の屈折についての授業を聞き流していると、いつの間にか空が茜に変わっていた。講師が引き戸の脇で質問に答え、講義室と階段は、迎え待ちの生徒たちでざわめいている。数則には迎えが来ない。早めに歩いて帰るべしだ。
「なーに考えてんの、結城」
 顔がひょっと目の前に現れたので、視線だけを上げた。近い。慣れていれば気にならないので、数則は素直に答えた。
「神社と幽霊の関係性について考えてる」
 ム、と眉根を寄せて更に顔が近づいたので、さすがに少し首を引く。小学校時代の同級生、ショートカットの春奈光希は極端にパーソナルスペースが狭い。
「まーたぁ! 神社の方は危ないって言ったじゃん! 昨日もクラスの静枝ちゃんが変な男に追いかけられたって言ってたよ? 最近じゃ暗くなったら警察も見廻ってるくらいなんだからね。理太くんも何か言ってやって」
「近道もいいけど、たまには一緒に帰りませんか」
「棒読み! 棒読みだよ!」
 光希の攻撃は理太へ向かい、数則はその隙にと教科書類をまとめて片す。
 理太と光希と数則は、かつて同じ古アパートに住んでいた。穏やかな理太、小柄なくせに男子二人の姉気取りの光希、マイペースな数則。駅一帯が再開発される前の坂多町は治安が悪く、物騒な事件が多かった。年頃の娘をもつ親たちが焦って戸建てに越したこともあり早々に学区は分かれたものの、昔のよしみで話しやすい。
「だからね、油断したらだめなのよ。いくら結城くんが男子だからって、危ないことには変わりないんだからね」
 チャコールグレイの野球帽で隠しナイフが云々と、不審人物の特徴について教えてくれる光希のお説教を話半分に聞き流して、キリのいいところで遮った。
「心配はありがたいけど、約束があるんだ。悪いな」
「え、うそ誰っ?」
「数則は口が堅いからなぁ」
 むやみに目を輝かせる光希としれっとした理太に肩をすくめて手を振ると、数則は塾帰りの人波にゆったりと混ざり歩く。
 信号待ちで見上げた雲の多い空は、泣き出しそうに淀んでいる。
 考えていなかったが、雨は、彼女にも作用するのだろうか。冷たいと、感じるのだろうか。風邪などは引くのだろうか。……そもそも、あの雨上がりの日から毎日こうして、通ってしまうのは、なぜだろう。首裏を掻いて思う。

 先週もちょうど、同じような天気の中、地図で調べたこの坂道を上っていた。
 そして、彼女に逢ったのだ。

 ◇

 一週間前、雨の上がったばかりの、雲に覆われた空の下。
 良い噂は聞かないんだからよしなさい、と警察一家の末娘、つまりは光希に叱られて一度は大通りに向かったものの、やはり一時間の回り道と三十分の近道とくれば、後者を選択したくなる。と、いうわけで早々に引き返して、葉鉢神社の石段を目指していた。後になって考えれば石段に足をかけたその時点で、何か、声がしていたと思う。それでもイヤホンを片耳にしていたこともあり、鳥居をくぐるまでは気のせいだと、聞き流していた。
 石段脇に張りだした夏草から、水滴が時折落ちては跳ねていた。
 鳥居をくぐろうとした瞬間。不自然なくらい近くを人影がすうと通り過ぎた。目で追って見たがすぐ脇には茂みがあり、人が隠れられるような場所もない。  ようやく違和感を覚えて首を傾げようと、したところで……、今度は、視界の端に妙なものを捉えてしまった。
 じわじわと視線を落とすと、すう、と、胸元に女性の手首が抱きつくように回されていた。蝉の合唱が遠くなる。息を呑んだ数則の背後から、少女のくぐもった笑いが首筋を撫ぜてきた。
 さすがに驚いた。ところが何の因果か悪戯か。緩やかだった温い風が急に強まり枝を揺らし、頭上の鳥居にかかった杉の葉とともに、びちゃびちゃと夕立の名残りが落ちてきた。――本来なら、それは恐怖を助長させるだけの小粋な自然現象になるはずだったのだが、
「ひゃっ、」
 背中の『何か』は、妙に可愛らしく叫んで胸元に這い寄る両手を一瞬、びくりと震わせた。おかげで、数則の跳ねた髪にも水滴は大量に落ちてきたのだが、驚き避けるタイミングを失った。頭がつめたい。
 沈黙の中、数則は、唾液を飲み下し、深呼吸をし、ゆっくりと振り返ってみた。
 目が合う。
 そこにいたのは、同じ年頃か少し上の、見慣れない制服を着た細い少女だった。輪郭が薄く、不思議な透明感があり、影が異常に薄かった。潤んだ瞳をこれ以上ないほど見開いて、小動物のように肩を縮こまらせている。数則は不意に、かつて姉が飼育していたハムスターを思い出した。おかげで幾分恐怖心は薄れ、じりじりと這いよる好奇心にその場をどうぞどうぞと笑顔で譲った。元から、眠そうな表情に反して知らないことを解明するのが好きなのだ。
「何だ、あんた」
 とりあえず、聞いてみる。少女は一歩だけ後ろに下がった。
「う、え……あ、あの」
「幽霊とか、そういうの?」
 何かを言おうとして声を失った、という様で硬直していた。
 数則の目が上下に動き、ぐるりと少女の周囲を回る。それからおもむろに手を突きだして、少女の腹のあたりに突っ込んだ。
「ひゃあうっ」
 慌てて少女は飛び退る。
 別に浮くわけではなく、走って移動した。そのまま松の影に隠れ、怯え切っている。
「な……な……っ」
「触れるかどうか試しただけだろ」
 そもそもが脅かしてきた側に、なぜここまで怯えられるのかと少年は呆れた。大胆になったついでに歩み寄ると、少女よりも背が幾分高いとわかり、さらに気持ちが軽くなる。
「別に冷たいわけじゃないのな、霊つっても。なあ、もう一回触っていい?」
「えええ……?」
 あくまで淡々と聞く数則に、彼女も脱力したのか、俯いてから、数度胸を撫でさすり、顔をゆるゆると上げた。
「えっと。あたしのこと、見えてるんですよね……?」
「見えてる」
「あの、じゃあ、あの、あたし、幽霊ですから、……あの、祟りますから、帰ってください」
 何やら必死だが、説得力がない上、更に興味を刺激するようなことを彼女は言った。
「どんなふうに」
「え」
「だから、どんなふうに祟んの。俺が何するとスイッチが入るの。んで、あんたは何をすんの。念じるの?」
 数則はいくつも質問をして、少女は問われるままに渋々と、自身の状態を打ち明けた(合間合間に「帰ってください」と言われたが、黙殺した)。
 ひとつひとつの問いに対して、考え込みながらゆっくりと。返された答えを整理すれば、おおよそ事情はこうだった。
 彼女は気づいたときからここにいて、この神社を中心に、あまり遠くへは動けないらしいこと。身体が重くて思考がぼやけて、どのくらいここにいるのかも思いだせないこと。
 記憶にある限り、今までは誰も話を聞いてくれず、話しかけようとするたび逃げられて、追いかけると余計に怖がられたこと。逃げない人間もいたが、カメラを向けられたり野次馬で見物に来られたりするのは怖くて人に見られたくなくて、最近では訪れる人を脅かすようになったこと。
 通り魔というのは、さては彼女のことだったかと、ここで数則にも得心がいった。あの噂は囁く声に怯えた女子たちの噂話が広まって、尾ひれがついたものだろう。
 それを指摘すると、彼女は気まずそうに黙りこくってから、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないというようなことを消え入りそうな声で呟いてから、真っ赤になって姿は誰にでも見られるわけじゃない、数則が特別なのだということを付け加えた。
 不自然なのは明らかだったが(そもそも霊感などとは生まれてこのかた縁がなかった)、妙に自尊心をくすぐるところがあり、数則は敢えて追及を避けると話題を変えた。
「名前もないのか」
「……ん」
 明らかにほっと息をついて、長い睫毛を伏せる。
「このままではどこにも行けないって、わかってるけど……でも、仕方ないよ」
 落ちていく夕日に、僅かに透けて。少しだけ年上に見える少女が、泣きだすように微笑んだのを、数則は見た。
「調べてやろうか」
「ううん、いいの。それにね、君も、ここ、もう来ない方がいいよ」
 首を振る。
「……なんでだよ」
「あぶないから」
「何が」
 口を噤んで微笑む顔は、なんの期待も抱いていなかった。真実を語る気すらもなさそうだった。ただ、もう来なくていいよ、わかってるからと。そう言っているようだった。
 数則は、髪を掻きつつ思案した。そんな中途半端な理由で納得などできないし、何よりつまらない。『彼女』は興味深いのだ。
 翌日、図書館で借りた関連書籍を抱えて、やってきた数則をレイコは追い返そうとした。しかし、別に彼女に押されたところですり抜けるだけなのだ。毎日通ってくる少年に、彼女が折れるまで早々時間はかからなかった。
 観察や実験も、押しが弱いのか何度か頼めば渋々ながら付き合ってくれるようになったし、雑談で頬を緩めるようにもなってきた。
「あんたのこと調べてみるよ。その代わり、幽霊についてもっと色々教えてくれよな」
 と伝えた時は、ゆったりと微笑むことさえしてくれた。

 あれから、延々一週間。

 確かに、変な存在を面白いと思ったことは事実だ。興味を持った。実験体として、観察対象として。
 けれど、実験そのものが、神社経由の近道を続けている一番の理由ではないと、薄々感じながら、今日も数則は緩やかな坂道の水溜りを踏み越える。 ひぐらしが、湿度の高い薄闇の空に、かなかなかなと鳴いている。

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