7
夕暮れの空に、飛行機が薄らと雲を引いて横切っているのが見えた。静かな苛立ちの呼び声は風に消され、気の早い秋の虫の高い声が野に渡り、人影は少年一人のそれしかない。数則は、何度か、彼女を呼び、それでも返事がないことで、肩の力を僅かに抜いた。
「あのな、分かってるんだ。たった今まで見えていた存在が簡単に消えるものか。光の屈折で、消えたように見えているとか、そういう手品の種なんだよな?観念して出てこいよ」
もう一度、境内を見渡す。返答はない。溜息をつき、狛犬の周囲をなんとなしに歩きまわり、足元の杉の葉を踏む。
「だったら、今から質問をする。答えられなければ答えは『はい』だと思うことにする。それで、納得して帰る」
返事はない。数則は宙を睨み、淡々と話しかける。
「『俺だけに姿が見える』だなんて、嘘なんだろ? あんたは、誰に対しても、自分の意志で姿を見せたり消したり、できるんだろ。最初から、ずっと、そうだったんだよな? 俺だけが特別だなんて、理屈に合ってないんじゃないか」
自分だけが特別だという理由がどうあっても説明できないのなら、おそらくそれは、嘘なのだ。最初から、おかしいと思ってはいた。彼女が聞くたびに話を逸らすことに、ちりちりと引っ掛かるものはあったのだから。
自動販売機の影にいたら、気づく。あの影に潜んでいた男に殴られたのだ。それまでよりも注意をしていた。誰もいなかったのは確認済み、それでも彼女は自販機の横から不意に現れた。
極めつけは昨日の目隠しだ。声はすれども姿は見えず、彼女が姿を現す前は、確かにそこにはいなかった。そして、『彼女の意志で』、誰もいなかった場所に、レイコは忽然と現れた。この眼で見たものは、否定できない。
一呼吸。反応は、やはりない。
「原理なんかわからないけど、そうだってことくらいは俺にもわかる。まあ、それはいいさ。ただ、あんたが俺に隠していた理由がわからなくてな。ずっと考えてて……思いついたことがあるんだよ」
レイコの柔らかな微笑みと、カタカタと震える木陰での様子を、思い出す。落ちつかず、首裏を掻いた。
「あの男も、あんたのことを知ってたんじゃないのか、ってな」
チャコールグレイの帽子を被る煙草臭い通り魔の男は、誰を、探していたのだろう。怯える女子たちの噂。ナイフで脅して、葉鉢神社近辺で、もしくはおそらくこの境内で、呵責ない暴行を繰り返す男。彼に見つかることを極度に恐れ、『あぶない』と繰り返していた、レイコの泣き出しそうな細い声。
「そもそもおかしいと思ってたんだ。どうして、俺のことを脅かしたんだ?もしあんたが言う通り、俺以外にレイコの姿が見えなくても、声で脅かせるならそれで十分じゃないのか? 別に、姿を見せる必要なんてない。あいつを脅かせばよかったじゃないか。あの犯人を。あいつ自身を。でも、あんたは弱気だし、一応、女の子だからな。姿が見られないようにしたところで、近づくのは怖かったのかもしれないな」
でも、おそらくそうではない。
返事はない。数則は言葉を切り、息をつく。しばらく、待った。返事がなければ肯定の意味に取ると、そう言ったはずなのに。風は僅かに弱まって、足元もおぼつかない夏の夜が広がる影で迫ってくる。
もう、これ以上待てない。彼女を、いわば断罪することになる、肝心の一声が、喉の奥からこぼれ出る。
「違っていたら、ちゃんと『違う』って言ってくれ。
今年になって、境内で、何度も女子たちが襲われた。それでも、引っ込み思案のあんたは、触れもしない犯人が怖くて、ただ、見てたんだ。見ているだけで、怖くて、犯人を脅かすこともできなかったんだろう。傷つく体もないくせに怖くて隠れていたんじゃないのか? それとも、……それとも、最初から組んでいたのか。ただ、俺があんたの役に立つから、庇ってくれただけなのか! あの男が神社で探してたのはレイコ、あんたなんだろ。あんたが脅かして。怯えて動けなった相手に、あの男が暴力を振るう、そういう共犯の」
「やめて、違うっ!」
悲痛な叫び声に合わせて、熱で景色がゆがんだ。
――やはり、いたのか。
「違うのか?」
軽い失望とともに、小さく呟き。
数則は夕日を背に現れた少女の歪んだ顔を見つめた。しかしその間違いに気づくには、彼女の泣き声の前兆を感じたその一瞬だけでも、充分だった。
「違う、違うもん。カズくんのばか、ひどい、ひどいよ。あたしは、あたしは……あたしはね、止めようとしたよ、したの!すごく、すごく怖かった。あ、あの、あの人が、……、」
ひきつらせて、泣きそうなのを堪え、淡い輪郭を熱でぐらぐらと歪めながら。レイコは血を吐くように、誰にも言えずに押し込めていた恐怖をありったけの叫びに込め、数則に向けた。
「『やめて』って、言ったの。姿も見せたの、手を伸ばしても触れないって分かってたから、絶対あたしは傷付かないって分かってたから、……死ぬほど怖かったけど、女の子が襲われてるのを、止めたくて、頑張って頑張って、勇気を出したの!でも、だめだった!女の子はあたしを怖がって動けなくなっちゃって、あの人は少し驚いてたけど、あたしが触れないって知ったら、………」
がくがくと震えながら、数則があの帽子の男であるかのように、嗚咽する。
「カズくんがいうのは、無理もないよ。あたしは自分で姿を見せたり、隠したりできるよ。それは本当。でも、だって、それをしたら、あ、あの人は笑って、それで」
その先は、耳を塞ぐべきだった。風が、声を隠してもよかった。それでも、聞こえてしまった。
「あたしが何もできないなら、観客になれって。またここで何度でも同じことをし、てやる、って」
「………は、」
理解が、追いつかない。無理はなかった。その悪意を理解できる環境にも、年齢にも、数則は足を踏み入れていなかった。それでも、目の前で涙も流せず立ち尽くし訴えてくる、虚ろな悲しみを向けられるだけで、彼女を断罪したことの残酷さは、充分に悟った。影の薄い彼女の、輪郭がぶれ、空気が激情の熱に膨張する。
「そ、そんなの言えない。あたしのせいで、女の子が何もできなくなって何人も何人も襲われちゃった、それが本当だよ。それが祟りなんだよ、カズくんの言うとおりだよ、そのたびあの人、が、あたしがどこかにいると思って喜んでたのも知ってるよ、でもそんなつもりなかったの!あたしは、あたしは助けたかった。でも、だめで、追い返すことくらいしか、でも、でも、あたしあたし、そんなこと……」
しゃくりあげ、顔を覆い。
「そんなこと……知られたくなかったぁ…ぁっああああ」
空が揺れるほどの絶望を込めて、人でなはい少女は蹲り号泣する。涙はなかった。それでも、声にならないこの世のものではない声で、全身全霊で少女は泣いていた。
風の中、何も言えずに立ち尽くした少年はようやく、すべてを間違えたことを知った。満足して、優しく去っていき、この世から消えるはずだった彼女が、最低のかたちで留められてしまったことを。
夜が、境内に訪れていた。梢の合間に、一等星が輝きだす。いつしか、縮こまる彼女の姿は闇に溶けるように消えていた。しばらくはひぐらしの哀切な響きに混れていた嗚咽も、気づけば虫の音になっていた。
「レイコ……?」
恐る恐る名前を呼ぶが、返事はなかった。どれだけ呼んでも、探しても返事はなかった。
人の世のものでない、臆病で優しかった少女は。
それから二度と、数則の前に姿を見せてはくれなかった。
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