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ブルー・マウンテンの所為

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9

 入道雲の広がる台風一過、八月下旬の昼下がり。
 ひと夏の間に傷害の被害に遭い、遺体の発見までしたことに、両親はそうとう堪えるものがあったらしい。夏期講習を中途でやめるようにも言われたが、あと数日のこと、送り迎えの条件付きでそこはなんとか許しを貰えた。そして、たった一日だけだが、縁のあった相手に手を合わせたいからと神社の階段前で待っていてもらうこともできた。

 葉鉢神社は、相も変わらず薄暗く、人影もなく、風が弱く吹いていた。
 賽銭箱の前に腰をおろして、指を組む。取り巻く神木から覗く空は青い。
「レイコ」
 呼びかけに返事はない。
 わかっていた。
 もう、いない可能性の方が高かった。彼女の遺体は遺族に引き渡され、容疑者も更なる取り調べを受けている。だから今更、彼に教えてもらわずとも、未練はとうにないだろう。
 それでも、声は届かなくとも、勝手に交わし、勝手に踏みにじった約束を、今からでも守りたかった。
「今日で夏期講習が終わりなんだ。すぐ、行かなきゃならない。だから、もう来れない」
 返事はない。風の温みはもはや残暑のそれであり、蝉の雨も一時期よりは弱かった。
「あんたの名前、わかったよ。あんたの名前はな」

 中空に向けて、知らない響きを口にした。数則にとって、「レイコ」でしかなかった彼女の、生前の名前を。

「進路も決めた。花朱高校に行くよ。……酷いことたくさん言って、ごめんな」
 帰ろうと腰を浮かせた瞬間。額の中央部に、一瞬だけ、気のせいのようにぬくもりが触れた。
 そして、僅かに温かい風が、身体を通り抜けてそのまま、梢を渡る風に混じった。
 額に残る微かな熱だけを、忘れないように佇む数則を、鳥居の下で母親が呼んでいる。

 夏期講習の最終日は恙無く終了した。
 光希が大きく伸びをして、迎えの車を塾のロビーで、夕べの喧騒に待っている。理太が隣でにこにこと彼女に何やら話しかけている。
 夕焼けの訪れが、先月よりもだいぶ短くなっていた。
 何気ない雑談の中、頬を膨らませた光希が理太から目を逸らし、思い出したように頬杖をつき、振り返る。
「そういえばさ。結城はどうしちゃったの、聞いたよ進路。ずいぶんレベルあげたじゃない」
「確かに、花朱高校とはね。何か心境の変化っていうか、きっかけとかあったのかい?」

 数則は静かに笑う。二人の質問はようやく、言葉にならなかった答えをかたちにして与えてくれた。
 きっかけだなんて、ひとつしかない。

 ひぐらしが、住宅街に降っていた。
 足元を渡る風の生暖かさ、終わる夏、繰り返した日々と実験の数々。はにかんだ笑顔。梢の白い光。
 手のひらに擦りつけられる感触のない頬と、細い髪。
 耳裏に張り付いて消えない、泣き声。
――額に残る、微かな熱。

 彼女はもう、「レイコ」ではない。名のある誰かに、なってしまい、二度とこの世で会話を交わすことはできない。だから夕陽に透ける、彼女の精一杯の告白を、受け止めることはもうできない。受け止めてあげればよかったのだ。泣きじゃくる顔が、最後に見た彼女の姿になるなんて、思わなかったから、酷い質問を幾らもぶつけた。元から彼女が、何年も前に惨い形で殺されていたと心のどこかでわかっていたはずなのに。どこで、ぶつりと人の縁が切れるかなんてわからないと、もっと早くに自分は気づくべきだったのだ。

 すべての後悔は、二度と取り戻せないけれど。

――一緒の学校だったら、嬉しいなぁ。
 それが、ようやく見つけた、納得のいく理由だったのだ。行きたい場所を、行きたいから目指す。
 切ったばかりの髪に手をやると、驚くほど素直に、言葉はさらりと喉から滑り出た。

「好きな子と、一緒の学校に行きたいんだ」

 友人二人が、目を見合わせるのがおかしかった。

Fin.

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