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ブルー・マウンテンの所為

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 思いついた翌日から、行動範囲の確認実験は日々行った。
 初日に判明したことは、線を引いてわかりやすく、『ここから先へは行けない』という仕組みにはなっていない、ということだった。声が聞こえにくくなり、動きが次第に鈍くなり、輪郭がぼやけて足の運びが遅くなる。彼女自身は気持ちが悪くなったり苦しかったりはしないそうだが、あまり無理をさせるわけにもいかない。
 道なき道や茂みは無理だが、道のある場所はできるだけ広めに潰す。家族の共有プリンタからこっそりと印刷した街の拡大地図に、限界点を記していく。意外にも彼女の行動範囲は広かった。鳥居正面側は坂の下まで。数則の使う裏山側に近い横階段からは更に遠く、農道に降りて、田んぼの横にある最初の家あたりまで歩けてしまった。振り返れば葉鉢神社が木々に隠れて見えない距離だ。
 結論からいって、神社の本殿から見て随分左手側に行動の中心はズレていた。扇に例えれば、要の場所はもっと山の奥の方だ。裏山の土手を深く登ったところ、地図上では山以外の何の印もない場所だ。微妙に嫌な予感がしたが、むしろ、ここまでくるとレイコの方が興味を持ち出したようだった。
「カズくん、すごいね」
 地図を見つめて、遠慮がちに瞳を輝かせている。
「……なんかすごい山奥なんだが、どうする」
「カズくんとなら、大丈夫な気がするし……行ってみようかな」
 珍しく柔らかな笑顔で見つめられて、数則は一瞬、喉をつまらせた。専門家ではないのだから、あまり信用されても困る。隣でその表情を瞳に写したレイコが、笑みを僅かに薄くした。

 翌日はあいにくと小雨が降り、決行はお盆明けと相成った。

 ◇

 道の悪い山奥は、予想に反して陽射しが届かないせいか空気がひやりと涼しかった。大量の虫が、ひっきりなしに顔の周りを飛び回るせいで耳がおかしくなりそうだ。それでも登り道はきつく、次第に汗が滲んでくる。
 息を整えて、こめかみを手の甲で拭う。
 社殿の裏手に回るのは初めてだった。夏草が生い茂っており、しばらく誰も足を踏み入れていないことが明らかだ。最初はお互いに雑談に花を咲かせる余裕もあったが、十五分ほど登ったところで、次第に会話は減り出した。右も左も目印が少なく、眼下にあった社殿の影もとうに見えなくなっている。拡大地図と方位磁石で行きつ戻りつ、虫を払いながら進むうち、靴は紐まで土まみれになっていた。
 それでもようやく道筋が見えてきたところで、異変は起こった。レイコは途中から殆ど喋ることがなかったが、質問すれば背後から答えが返ってきていたのだ。それすら先程からなくなっていた。疲労から苛立った数則は文句のひとつでもと振り返った。
 そして、中途半端に口を開けたまま、足を止めた。
 藍色の制服が、後ろの幹に縋りついて、蹲っていた。胸元の校章の縫い取りを鷲掴み、俯いて息を荒げている。息があるのかどうかはともかく、少なくとも仕草からはそう見えた。温い風が木々の隙間をわたり、ひやりと足元の草から土に沈んでいく。
「レイコ?どうした」
 呼びかけると視線を泳がせ、途切れ途切れに呻く。
「ごめ……あ、足、動かな……」
「『重い』のか? 階段の下みたいな感じか」
 弱く首を横に揺らし、スカートの皺が増えると彼女の肩が痙攣し始めた。呻きとも叫びともつかない声が途切れ途切れに混じり出す。
「お、おい」
 数則も、さすがに何かがおかしいと気づき、坂を数歩戻ると指を伸ばす。ぶわりとした熱の層に右人差し指が突っ込まれた。反射的に腕を引く。波打つ色素のうすい毛先が、持ち上がり、潤んだ瞳と目が合った。周囲の風景も真夏日のアスファルト周りのように、じりじりと歪んでいた。いつもとは明らかに様子が違う。
「カズく、ご、ごめ……、なんか、……怖くて」
「あ、あぁ……?」
 胸元の白い拳がわなないている。唇の淡い杏色はさらに色を失い、隙間からは吐息ともつかない掠れた声。
「怖いの。この先、登ったら、あたし、だめ、怖い…怖いこわ……、いや、だめ、いや、いやっ」
「レイコ、おい、レイコ!」
 肩を揺さぶりかけて無理だと気づき、名前を怒鳴ると彼女はびくりと瞬き、パニック状態からうっすら醒めた。それでも、また、喉を喘がせ小刻みに震えだす。
「…ごめん……言い出したのあたしなのに、ごめんねカズく…ごめ、あたし……」
「……いいよ、戻ろう」
 そう言うしかなかった。溜息を漏らさなかったのは、よくやったと自身を褒めたいくらいだった。どうしていいのかわからない。泣き出された方がまだましだ。
 一度、肩越しに山手の闇を振り仰ぎ、地形を覚える。気休めだ。また来られる自信はなかった。

 下るに従い、レイコの恐怖は薄れてきたらしい。ゆっくりと落ち着きを取り戻し始め、痙攣に近い震えも次第に痺れ程度の、観察すればようやくわかる程度の小さいものになっている。
「平気か?」
「ごめんね」
 悄然と俯くレイコに何を言ってやれば良いのか悩んでいると、滑った。気を取り直す。
 たかをくくっていたが、下りも同じくらいに時間がかかった。あまり水はけの良くない土は足元で崩れやすく、木の幹についた手のひらにはトゲが刺さった。軍手をしてくるべきだったと反省する。
 スニーカーは既に紐まで濡れて、焦げ茶に煤けていた。これは帰ったら洗わなければと、思っているうちに本殿の裏側が見えてきた。近所の人間が珍しく散歩でもしているのだろうか、珍しく人影が見える。こんな格好ではいったい何の悪戯をしていたのかと変に思われてしまうだろうが、まあ、中学生が夏休みに裏山で遊んでいてもおかしいことはない。とりあえず平らな場所に座りたい。安堵の息が漏れて、足を早めようとした。
「………待っ、て」
 背後から、レイコの凍りついた声を、聞くまでは。
「………カ、カズくん、待って」
「今度はなんだよ」
「喋らないで。樹に隠れて」
 肩越しにほんのりと温いものが、口元に回される。物理的な干渉力はないとわかっていても、口を手で覆われるその仕草だけで声は自然と抑えられた。言われたとおり太い幹に背を預けると、ようやく白い両手がそっと離れた。寄り添ってくる生温かい感触は、眼下の人影から目を離さずに口を引き結んでいる。
「あのおっさんがどうかしたのかよ」
「出しちゃだめ、声……」
 絞り出すような泣き声に、仕方なく、息を殺した。ちらりと見ただけの人影の何に彼女が怯えているのかはわからない。正直、早く帰りたかった。気になったら躊躇わずに質問するのが数則だ。
「あいつ、誰なの。知ってんの」
 囁き程度に落とした声に、レイコは顔を引きつらせて必死で首を横に振った。それではわからない。思いつきのままにものを言う。
「じゃあ、女子たちや俺にやったみたいに、脅して追い返せないのか」
 一拍の沈黙の後、レイコは、真っ青だった顔色を紙のように白くして唾を飲むような仕草をし、静かに一度、首を振った。
「あ……あの人には、あたしのこと……、見えない、から、無理」
 その拳が先程と変わらずに震えている。感情の高ぶりのせいだろう。寄り添った彼女から発する空気がじわじわと熱い。祈るように口元で両手を組んで、彼女は呟く。
「……あたしを見られるのは、カズくんだけだよ、あの人は、無理」
 じゃあなぜ自分と一緒に隠れているのか、見られない相手になぜそうまで怯えているのかと、問いただそうとした時、物音がより近くへと移動した。思わず口をお互いに覆い、ずるずると尻を地面につける。土が湿っていたが、それより鼓動の音が気になった。何時間にも思われるような数分の沈黙の後、またがさがさと音がして、その後ろ姿が初めて数則の横目にもしっかりと映った。

 薄汚れたチャコールグレイの野球帽。紺色のジャージ。痩せぎすの三十台前半、裸眼の男。
 光希の言っていた、女子共を襲う、通り魔が、あんな容姿ではなかったか。

 レイコの話に尾ひれがついただけではなかった。早合点に過ぎたという若干の後悔と、レイコの反応が、一度は固まりかけた思考をゆっくりとかき混ぜていく。遠ざかる背中を枝の隙間から確認してから、またも囁き聞いてみる。
「なあ、あいつ」
「だ、大丈夫だよ、隠れてれば、大丈夫。い、いざとなったら、あ……あたしが、追い返すから、だいじょ…」
「やっぱり、あいつのこと知ってんの」
 答えなく、カタカタと震えて俯くレイコの目は虚ろだった。肩が時折大きく上下し、胸元のタイを握りしめている。
 数則は、小さく溜息を漏らすと首裏のぼさぼさした髪を無意識に掻いた。立ち上がり、尻の土を払う。計測道具を傍に起き、深呼吸をした。
「だ、だめ、あの人は、あぶないの……」
「あいつのことは知らないんだろ」
「だめだってばっ……!」
 初めて怒った顔を見た。幽霊のくせに迫力がないな、などと頭の隅でぼんやりと思いつつ、手の汚れをズボンで拭う。
「けど、あんたの正体に関係あるのかもしれないし」
「お願い、行かないで、だめ……!」
 レイコの制止など怖くない。どうせ、物理的に自分を止めることなど幽霊の彼女には出来はしないのだと、実験を重ねたこの数週間で十分過ぎるほどに知っている。

 音を立てないように気をつけながら、数則は男の背中から視線を逸らさず土手を静かに滑り下りた。

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