珍道中/将来編(前編)
夕方は山里の村外れである。
加当段蔵は視線で抗議する。
――上様が笑っている。
口に指先を重ねて当てて、ふふふ、ふふふふと、実に愉快そうに笑っておられる。
巨大な行李を面白がった子供らに集団で纏わりつかれたものだから、膝を上げては蹴散らして、また寄ってこられて蹴散らして、ぜいはあ肩をいからせていた、哀れな忍びの姿が面白かったのだろう。
睨まれたのに気づいたのか一瞬気まずそうに口を押さえたものの、その一連の流れすらも姫のお気に召したらしい。
またも口を押さえて笑い出した。
凄んでも逆効果らしい。
下忍は抗議を諦め、嘆息した。
夕風がひゅうと吹き、砂利をまきあげていた。
蜩が鳴いている。
陽が落ちかかり、村人が農具を担ぎ、あるものは商売道具をしまい込みと小さな村なりの夜仕度をはじめていた。
「あーあぁ、何がそんなに面白ェんだか知りませんがね。さっさとしねえと日が暮れますぜぇ」
投げやりに上様を放置し、行李を背負い直す。
乳母の遠縁となる村の名士に便りをしたところ是非にと請われ、山麓の小さな領地に、数日の滞在を予定していた。
文渡の里へは遠まわりになるが、蘭菊は構いませぬと微笑った。
夕風が強まった。
木の葉がざわめく。
加当段蔵もとい眦弥三郎は長い眉毛をこれでもかと下げて、振り返った。
ただでさえお忍びなのだ。
村の散策もいい加減にして屋敷に戻らねば、日が暮れてしまう。
「上様」
「あっ、……すみませぬ」
涼やかな声が、肩越しにまで歩み寄るのを暫し待ち、忍びは眼を明後日の方に向けた。
草履が砂を踏む音がする。
さく、さく、と屋敷への道を歩く。
ちらと蘭菊姫を見遣ると、頬が夕日に透き通っていた。
土の小道はなだらかに小山の斜面に沿い曲がり、屋敷の門へと続いている。
加当は何も言わずに薄い背中を眺めて歩いた。
蘭菊が眼の色を薄くして口元で笑う。
「……何も、仰らないのですね」
「はて。何のことですかな」
遠く響く鳴き声に、蘭菊は歩みを緩やかにしながら耳を澄ます。
そうして、髪を押さえて天を見た。
ざわりと湿気に山が揺れた。
「加当様」
「なんでございますか」
「加当様のような腕の立つお方に、私は勿体のうありませぬか?」
さくり、さくりと足音が重なり、片方が止まった。
改めて尋ねられること自体があまり気持ちのいいことではなかった。
「そりゃ、つまりですな」
ぽりぽりと鼻の頭を掻く。
「上様はおれの働きに御不満なんですかね」
「え……? い、いえ、いえ!」
蘭菊が慌てた。
そして、わたわたと手を目の前に出して謎の動きをした挙句、派手に転んだ。
加当はいつものことながらぎょっとして凍った。
ひゅるりと風が着物の裾と、枯れた葉っぱを舞いあげる。
ようやくにして、姫は真っ赤になって恐縮しながら差し出された腕を取った。
「ほれ」
「………す…すみませぬ」
小さくなる蘭菊姫の手には擦り傷があった。
それ以外の古い傷も無数にあった。
相変わらず指は人形繰りのせいか、年頃の姫に見合わず固かった。
節くれだつ指はそれでも白く、袖から覗く手首には薄く血管が浮いている。
――まことに遣りづらいことこの上ない。
姫からさりげなく視線をはずして、忍びは行李を背負い直した。
忍びの背には白拍子の繰り人形がただ一体、文渡に残されたおそらくまともな唯一のからくり人形と思われた。文渡の人形は知る人ぞ知る死なずの忍びとして名を馳せており、隠すことなどできはしまい。姫が如何に厭うていようとも、文渡の復興に際しては人形が一役買わぬということは考えられぬ。
では果たして背負う重みは今も、姫の繰りに応えるのかと問えば、下忍は疑いを持っていた。
幾度も幾度も宿なり洞窟の中なりで、彼が見張り番をしている間に行李と姫は互いだけになっており、翌朝行李を背負ってみれば、
そのたび何かしらの違和感があった。
けして行李に触れていないような素振りではあるものの、姫が繰り人形に何かをしていることは加当だけには明らかだった。
そして此度の回り道に象徴されるように、蘭菊は文渡への道中をそれと分かるほどに遅らせていた。
間を失った会話は立ち消えになり、暫し足音だけが夕焼けを染めた。
屋敷の明かりがほのかに心強かった。