珍道中/夢一夜編
涼しい朝風の匂いが、鼻腔を掠めた。
ちゅんちゅん、と鳴き交わす囀りは爽やかで、眠りの糸を緩やかにほどいて瞼の縫い目もほぐれてしまう。
文渡の生き残りである人形繰りの姫、蘭菊は、鳥の声と忍びの気配に薄い肩をゆると起こした。洞窟の入り口から漏れる光は夜明けの淡いながらも白いそれで、昨晩の雨が上がったことを知らせてくれる。
目を擦り行李を眺めつつも大欠伸をし、はしたなさに気づいて慌てて口を押さえる。
――実のところ傍ではまさに、「はしたない上様じゃなァ」という苦笑を背中に隠し、忍びが朝飯の用意にかかっていたので時すでに遅かったのだが、それはそれである。
太めの眉を上げ下げしてしばらく動揺した後で忍びの背をきょろきょろ窺い、姫はバレていないと判断したらしい。
口を両手で押さえたまま、恥ずかしそうにホッとした。
――しつこいようだがバレている。だがそれはそれである。
もう一度、「んっ」と伸びをして、蘭菊姫は立ち上がった。
洞窟の入り口をそうっと覗けば、雀の長閑な囀りが羽音とともに吹きぬけて、夜明けの気配は肌寒いけれど爽やかだ。
「気持ちの良い朝ですなァ」
「はい。お早うございます、加当様」
のんびりとした忍びの声に頷いて、穏やかに笑む。
くつくつと煮える汁物が空腹を思い出させて、まだ眠かったことも忘れてしまう。
寝乱れた髪をまとめ、顔を洗ってまいりますと腰をあげ――心臓に悪いその姿を見ないようにしており、ようやくほっとした忍びをあざ笑うかのようなタイミングで、なぜなのやら姫は思い出したように戻ってきた。
――実に、空気を読まない上様である。
下忍は額を覆って肩を落とした。
相変わらずやりづらい。
「加当様、加当様」
そんな苦悩は知らずにどこ吹く風、蘭菊姫はぱちりと爆ぜる火の脇に回って膝を落として忍をにこにこ見上げてくる。
上目遣いで距離が近い。
ついでに炎も近くて危ない。
さり気なく薄い肩を押し戻して、加当は長い眉の端を上げた。
「はい上様。どうされましたか」
「その、忘れてしまわぬうちに、加当様にもお話させていただきたく」
「は……?」
「実は、ですね」
姫は大きな瞳をらんらんと輝かせて、可愛らしい手のひらをグッと握りしめ、
「まなじら様、私、面白い夢を見たのです」
――と、そんなことを言ってきた。
――からくりの姫君曰く。
それは、こんな夢でした。
不思議な世の中でした。
今のような戦びとが覇権を握る世の中ではありませんでした。
私は、童のための玩具を扱う商家の末娘だったのですが、どうやら商いに失敗してしまい一家離散の憂き目にあってしまったようなのです。
いいえ……「離散」だけのことであればよかったのですが、やはり夢でも現(うつつ)は覆せぬものなのでしょうか。
気がつけば家の者は謀略によりて、皆、殺されておりました。
偶然から難を逃れ一人残された私は、助言に従いとある『びるじんぐ』を訪れたのでございます。
*
「私は、先日一家心中と報道されました、文渡玩具社長一家の末娘、蘭菊と申します。お願いがあってまいりました」
顔立ち卑しくない高貴な少女が、古ぼけたビルの二階、薄汚れたドアの表面をこつこつと叩く。緩く結った黒髪は艶めく豊かな長髪で、目鼻立ちはくっきりと意志の強さを感じさせる十代半ばの娘である。
この年頃にありがちな露出は一切なく、膝より長いスカートにハイソックスでしなやかな足の肌は隠れている。クラシックなツーピースの制服と襟元の間にのみきめの細かな白いうなじがちらりと覗く。背負っている荷物は異常なまでにに大きく、家出少女にしては奇異だった。
季節は晩春、ビル脇の小さな公園には子どもが遊び、ちぴちぴと鳴き交わす小鳥の声は平穏だ。対照的に薄暗いコンクリートの建物は、日差しも入らず涼しげだった。エレベーターの鉄は塗装がはげており、階段には落書きと染みがこびりついていて何とも厭なにおいがする。
「加当様。もし、加当様。どうぞお力をお貸しくださいまし」
その陰気な風景に一輪咲いた野花の如く。
立ち尽くし眉をひそめる少女の姿は不釣り合いに過ぎ、実に実に目立っていた。
もっとも本人の所作からそれを気にする様子は微塵も窺えず、少女はのんびりと首を傾げていた。何度か背伸びするように擦りガラスを覗き込んでいるが、当然ながら何も見えないらしい。
首元で緩く束ねた黒髪を左右に傾げた彼女が、もう一度、「加当様」と鈴のように呼ばわった。
いや――呼ぼうと、した。
「なんじゃい。加当ならおらんぞ」
突如、間延びしたような声がして、少女はぱちりと目を瞬いた。
隣の扉は開け放されており、誰も住んでいる様子がなかったが、覗いてみると、やはり声の主はそこにいた。
誰何の声に、名乗る男は眦弥三郎。
なんとも古風な名前である。
「仕事は、まァ、調査員のようなもんじゃ。二束三文での汚れ仕事ばかりよ」
「はァ」
少女はもう一度首を傾げて、大きな瞳をまんまるにした。
「そなたも、加当様と同じ『はっかー』なのですか」
「ええい人聞きの悪ィこた言うな。『調査員』じゃ、『調査員』。だいたい加当なら海外に逃げたぜ、ヤベえネタを掴んじまって追われてんだとよ」
「そ……それでは、」
「ま、俺も似たようなドジを踏んでっから人のことァ言えねえやなぁ。悪いこた言わねェ、あんたみてえなお嬢サンのいるところじゃねぇえよ。さっさと逃げ……」
長く太いがピクリと上がり、言葉が途切れた。
追って振り返る蘭菊の眼に映るのは、かつて、父や一家を殺害した――機械と、黒服の光る男たち。
男は硬直した少女の腕を取り、扉の陰に引きずり込んだ。暗いビルの陰に肩から振り向き懐から黒光りする何かを即座に取り出す。銃声!
「クソ、なんで当たったのに血も出やがらねえ!!」
眦と名乗った男が吐き捨てて弾を込め直す。
乾いた音の応酬と、口汚いやり取りとを、聞きながら。
少女は背負った荷を確かめる。
つうと膝裏を這う汗の滴をそのままに、おもむろにたくし上げたスカートの下から、あるものを取りだした。
もはや逃げ切れないかと覚悟していた男が気配を感じて振り返る間もなく、「それ」は姿を現した。
ヘッドセットの金属とコンピューターの操作盤が、薄明かりのなかで鈍く光り――、
***
「そ……その、『こんぴーた』とかいうモンはなんなんじゃ」
加当は混乱のあまり身分もわきまえず話を遮り呟いた。
どこぞで聞いたような筋書きであることはさておいても、先刻から上様がどんな風景を語っているのやら、彼にはいっこう分からない。
対照的に、蘭菊は頓着せずにほのぼのと頷いた。
忍びの無礼に気を悪くする様子もなく、
細い指を口元に当てて、思い出そうと天井を見て目を閉じる。
「そうですね……ばねや歯車よりも小さな部品によりて動いておりました」
「ほう」
「千里の眼をもつからくりです。城に忍ばずとも内部を覗きこめ、遠くのお里とお話もできるようでした」
「そりゃ便利ですが……はぁ。どうにも信じられませんな」
話が長引きそうなので、忍びは先に朝飯を用意することにした。
「ああ、すみませぬ」
汁椀を手渡してくれる手甲から湯気の立つ香りを呼吸し、姫はふうと醒ましながら美味しそうに喉を鳴らした。
――からくりの姫君語りて曰く。
ですが、姫が背から取り出したるものは糸繰り人形ではございませぬ。
懐から取り出したるヘッドセットを耳に掛け、両手両足に巨大コンピュータから繋がるコントローラの無線にて操るに、現れたるは鋼にて作られたからくりの人。
ヒューマノイドという遥かに技術の進んだからくりでありました。
跳ね返す銃弾は皮膚を焼くことなく、古風な剣技にて謎の男たちを切断すれば、火花を散らしてコードを撒く。
敵も、同じ、金属からくりによる自動人形たちでした。
***
撃っても撃っても銃弾の効かない相手に互角の戦いを繰り広げ、撃退したのは良いものの。
蘭菊の生存が伝わったことで、事態は一気に深刻さを増した。
蘭菊は、ごついヘッドセットを外しながら、驚く弥三郎に頭を下げて説明をする。
この技術こそが文渡玩具店の表に出せない収益の結晶であり、武器商人の組織に技術とともに一家の命が盗み取られた理由である。
弥三郎がたまたま産業スパイとしてハッキングした会社も組織と繋がっており、蘭菊の話を総合して考え直すと、一調査員には重大すぎる情報を、彼自身も握ってしまったのだった。
蘭菊嬢は、一人では戦えないので、眦弥三郎に是非とも復讐を手伝ってほしいのだと頼み込んだ。
しゃれにならない状況である。
仮の宿りとして隠れた夕暮れの怪しげなホテルで、弥三郎は法外な報酬に頭を悩ました。
姫の荷物には巨大なコンピューターと人形が積まれているのであり、それらは売り渡してしまえばもっと大きな金になるかもしれないのだ。
いっそ自分の安全だけは保障してもらえるかもしれない。
第一、蘭菊嬢は警戒心がなさ過ぎる。
そもそも、女子高生がこのようなホテルの一室で隙たっぷりにシャワーを浴びているという事実が、
***
――これまた………どこぞで、聴いたような話が。
忍びは渋い顔を両手で覆って脱力した。
勘弁してほしい。
そこから先は、省略していただきたいということで積極的に加当の方から話を振った。
「結局、俺が上様に雇われるんでしょうな」
「どうしてお分かりになるのですか?」
姫は目を丸くしてから、両手の平をつけて俯き微笑んだ。
「そうなのです。めなじる様は雇われていただけるとのことで……」
黒い髪がぺこりと頭を下げてきた。
預かり知らぬ過去の繰り返しに、改めて感謝されると非常に反応に困る。
姫の語る異界の話にはついていけなかったが、とりあえず困惑を避けるため、加当は明後日を見て話の続きを促した。
日差しは春で、暖かい。
今日中に峠は越えねばならなかったので話は道々続いていた。
「……で、めでたし、めでたし。ですかな」
ようやく長かった「貞義との合戦絵巻」の語りが終わり、加当は苦笑しながら振り返った。
分かったことはひとつある。
上様の想像力は脅威だということだ。
御伽草子でも書けばさては源次物語の再来かとさぞや評判になるであろう。
半分流し聴きのまま、高く結った髪を風に吹かせて先へ行く。
「いえ」
蘭菊はやや遅れて後ろを歩きながら、何の気負いもなく穏やかに続けた。
「まだ終わりではありませぬ。狩又城での顛末からは加当様のされたことが違うのです」
「はぁ……何ですかな」
「全ての始末を終えたあと。――夢の中のまなじる様は、お約束を守ってくださ」
加当は大岩が落ちてきたように行李ごと潰れて地面に伏した。
「……るそうだったのですが、その途中で目が覚めて、お約束を果たせませなんだ」
すみませぬ。と付け加えて、姫が悲しげに頬に手を当てた。
それは良かった、と思い掛けてから『途中で』がどこまでなのかと這い起きながら加当は一人苦悩した。
はぁぁと魂が抜けるかのように、深く深く息を吐く。
空が抜けるように青い。
「もういいのですよ。上様の夢の中とは申せ、そのような無礼は許される筈も」
「いえ……あの。どうやら、そこな世では無礼には当たらないことだと、夢の中の加当様は仰って」
そのような都合のいい世の中があって堪るか。
心中で突っ込みながら踏み出せば、一段高い崖の上に突如として、道が開けて南風が吹いた。
ざわざわと芽を膨らませた木々が春の予感に暖かくそよいでいる。
峠の上から遥かに見える里の景色は霞んで淡く、花の色がとりどりに装う錦模様に、姫は夢の話をようやく忘れてくれたらしい。
まあ。と微笑みながら幸せそうに眺めている。
加当段蔵はちらと横目で彼女を見遣った。
例えば、そこには、身分などというものがなく。
姫との約束がいつかは、いつかは何も後ろ指を指されることなく果たされても良い世の中であるとしたら。
身の丈に似合わぬ想像を一瞬だけでもした己を心の底から恥じて歯噛みし、下忍は頭をガリガリと掻いた。