珍道中/逃した魚編
入道雲、蝉のこえ。鬱蒼とした森のなか。
高みより流れ落ちる瀑布が暑気を払い、轟く滝の音に、遊びまわる子どもらの歓声が入り混じる。
光るしぶきがあがり、川魚が跳ねる。
川からだいぶ下ったところにある山道を、大きな行李を背負った男と、小柄な姫がゆっくりと歩いていく。
数刻の後。
褌姿の子どもらが連れ立って家に帰りはじめ、入れかわるように、姫と下忍は一夜を明かすべく川辺に到着した。
日は傾き、ヒグラシが鳴きはじめている。
下忍の眦弥三郎は、火を起こすが早いか、裾をからげ川の中州近くまでじゃぶじゃぶ進んでいくところだった。夕食の魚を調達するためである。
冷たい水は澄んでおり、薄暮の空を映して揺らめいていた。川底がぬるぬると滑る。
弥三郎は、ひょいと肩越しに姫を見やった。
帰りはじめた子どもらを遠目で眺め、足指をちゃぷちゃぷと川につけて涼む蘭菊姫は微笑ましさのなかにも一抹の寂しさを感じているようだった。彼女の子ども時代は、父と操り人形とからくりの歯車だけでできている。
蘭菊姫は、下忍の視線に気づくと、長い睫毛でぱちぱちと瞬いてからにっこりと笑った。
眦はぐっと口を引き結んだ。
呆れるほど無防備だ。水に濡れた生足を恥じらいもなくさらして、うごめく足指の間できらきらと水が光っている。目の毒にもほどがある。
下忍は煩悩を払うようにぶんぶんと首を横に振ると、すごい勢いで川魚を次々に鷲掴みしては、ぽんぽんぽーんと河原に放り投げた。
蘭菊は飛んでくる魚を律儀に目で追う。大きな瞳を見開いて、両手指を胸の前で組んでいる。
「まぁ」
そのときである。
蘭菊の目の前に、きらりと鱗を光らせて、大きな川魚が泳いできたのは。
姫は自分も役に立とうと思った。
そして、裾をからげて(あらゆる意味でやめてほしいと下忍が思うに違いないことである)おもむろに川の中に一歩、踏み出した。
正確には、踏み出そうとしたらしい。
水音に気がついた眦が振り返ったときにはもう、蘭菊姫のやわらかな足指はぬるついた石を思いきり踏んでいた。
「上様、危な――」
「ひゃうっ!?」
静止の声も間に合わず、見事なまでにずるりと滑った蘭菊姫は、盛大な水しぶきをあげて川のなかに突っ込んだ。
下忍が慌ててじゃぶじゃぶと川岸まで急ぐ。
黒髪が土座衛門のように広がっているのをかきわけて襟を掴んで引き上げると、蘭菊姫は子猫のように持ち上げられたままでコホコホと咳込んだ。
「ご……ご無事ですか、上様」
「げほっ……、す……、すみませぬ」
困ったように肩を落とし、小さな上様は河原に降ろされた。
じっとりと汗ばむ夏の夕べに、ぽたぽたと毛先から袖から裾から水滴が落ちる。
「ったく、仕方ねえ上様だな、まず服を脱いで乾かし……………」
「はい」
蘭菊はするりと帯を解いた。
下忍は両手を地面についた。
「いや、間違いました。脱がんでいいです」
「はぁ」
姫はほどきかけた帯を手にしたまま、動きを止めた。
弥三郎は、びしょぬれの姫を一瞬だけ視界に入れてから即座に回れ右をした。
濡れた着物がはりついているところなんか見ていない。
「あの、めなじれ様、やっぱり着物は乾かした方が……」
という至極もっともな主君の相談もできることなら無視したい。
……ここで姫に風邪をひかれては自分が何のために仕えているのやらわからなくなるのだが。
結局。
黄昏の空の下、蘭菊は裸に弥三郎の上衣だけを羽織るというとんでもない格好で、着物が乾くのを待っている。
眦弥三郎は死んだ目でパチパチと爆ぜる炎だけを見つめている。
蘭菊の逃した魚ほど大きくはないが、おいしそうな川魚がいい匂いを立ちのぼらせている。
「むなじら様、お魚、美味しいです」
ニコニコと笑む主君に機械のような相槌を打つ。
あのとき昔ばなしなんぞに絆されず、とっとと姫をモノにしていればこんな思いもしなかったのかもしれないが、下忍の逃した魚は手の届かない竜になってしまったので、眦弥三郎は黙々と上様のために魚を焼くことしかできないのであった。