珍道中/将来編(後編)
良くない便りが屋敷へと訪れたのは翌々日の晩だった。
山二つ向こうの里が焼き討ちに会い、ほどなくこの里周辺も、戦に巻き込まれそうだという報(しらせ)であった。
気遣いを見せる名士をやんわりと制し、蘭菊は忍びを伴い翌朝早くに旅立つとだけ告げ、そっと頭を下げた。
予定よりも早い出立ではあるがもとより旅暮らしで荷物はそう多くない。
月の昇る風の弱い夜だった。
蘭菊にあてがわれた寝室は、十畳程の離れにある。
加当段蔵は当然ながら同室できず、かといって下忍風情がお招きされた屋敷の廊下に座り込んで見張りをするのもあまり行儀が宜しくない…
と、いうことで天井裏にいた。
あまり居心地良くはないが、上様の眠る隣で夜を明かすよりは気が楽だった。
この天井裏も今夜で最後かと、長い眉を下げて梁にもたれる。
天井板越しに、こと、こと、と、微かに聞こえてくる何かには、初日から気付いていた。
寝入ったと見せかけてする物音も、気付かぬ振りをしてやり過ごせば、いずれまた上様の寝息に変わっていた。
それでも、今宵は最後の晩であったからか。
「……加当様」
長いこと、逡巡したと思しき間をあけて、加当のいる足元から耳触りのよい声がした。
虫の音と聞き紛うような涼やかな呼びかけは敏い耳に良く届く。
「加当様。……起きて、いらっしゃいますか」
「明日に備えて寝ております」
姫が笑ったらしく、息をくふっと篭らせたのが聞こえた。
加当は目を薄く開ける。
「どこもかしこも戦の世ですな」
「ええ」
「次はお里に帰られますか」
ざわめくものは、すすきのわたる音だけだった。
秋の夜長は、虫の調べが耳に心地よい。
もう寝てしまったのかと訝るほどの沈黙の後、主君が、片隅の行李に背を預けたらしい気配がした。
「加当様」
「はい?」
「…………私は、文渡の里に帰るのが」
月明かりのせいだろうか、天井板の隙間から薄く見える蘭菊の足元は闇夜の中で仄かに白かった。
「帰る、のが、怖いのです」
一旦途切れた震える声は、いつか父を憎んで涙を流した小さな姫のそれだった。
手を伸ばすにも天井裏であったので、加当は黙って腕を組んだ。
聞いております、という合図のためだけに、天井板を踵で擦る。
合図は伝わったようだった。
「……里に帰って。お家を再興して、民のために尽くす。文渡の里が蘇る、と、でも、……それは、私が」
行李越しの人形を背に、姫はそれきり言葉を切った。
「上様がおれだけの上様じゃあなくなっちまいますか」
切腹気分で混ぜ返すと、震えていた吐息が、ふふ、と緩んだ。
良いのやら良くないのやら複雑で、下忍としては死にそうな気分だ。
「ま、明日も早いんです。……そろそろ寝ましょうや」
「……はい」
噛みしめるような蘭菊の呟きは、やがて寝息に変わった。
主君が眠りに着いたのを聞き届けてから加当も暫しの刻だけ目を閉じた。
朝焼けの里は仄暗くも涼しく、東の空は晴れ渡っていた。
朱に染まる薄闇に足を止める。
姫の黒い髪は遠い暁を背に沈み、大きな瞳は未だ明けぬ西の空を映していた。
「私は、良い姫ではありませんでした。まなじら様に顔向けできるような立派なことなど何もしては来なかった。ただ、」
――ただ人形を繰っていただけ。
父に褒められたくて、人形繰りを愛して、からくりにうつつを抜かして里を滅ぼした先代の殿と違うところなど在りはしない。
厭わしい歯車の塊も糸を引きからからとなる音、操りに応えて持ちあがる関節は愛おしかった。
「……文渡の姫君は『からくりの君』。ひとの君主ではありませんでした。これまで私の目には一度も民が映っておりませなんだ」
行李は慕わしい慣れた籠。
いつか彼女を黄泉まで連れて行ってくれる蘭菊だけの籠だったはずなのだ。
故に手放せる筈も疎かにできる筈も無い。
蘭菊の告げる心の内は見えずとも人形だけは嘘を吐かない。
出立前、加当が行李に手を触れれば、またも何かしらの違和感があった。
ようやくとそのわけに思い至り、加当は眉を動かした。
――おそらく。
――この人形は、今ここで流れの武者に行きあったとしても、美しい動きを失わずに戦いを始めることが出来るだろう。
僅かも舞いの鈍らぬようにと、主君の手ずから、ととのえられたばかりなのだから。
結局のところ、蘭菊は人形を壊しきることなど出来ない。
諸共に死のうとしない限り、彼女が生きる意味はからくりなのだ。
東の空には薄い下弦の月が薄明るい。
忍は行李を背負い直した。
烏が一羽を先頭に、かぁかぁと山のねぐらから飛び立っていく。
「戦の時代です。父が狩又に滅ぼされたように、無策では里はいずれ文渡以外の手に落ちます。そして私は、私は力のない姫です。万策尽きたときには、必ず、からくりを思い出す日がやってくるでしょう。そうなった時に、私は」
生皮を剥がされる子どもたちの悲鳴。
「私は、ばかな姫ですから。そうなった時には、加当様」
蘭菊が眩しそうに微笑った。
狂わないのであればそれでよい。
もし道を誤った時には、処断をお願いすると言っているのだった。
加当段蔵は、彼の小さな主君に仕えると誓っていた。
――ばかやろう。
仕えると決めて以来、もう二度と口にはできなくなった罵倒を胸の内にて押し留め、忍びは頭をガリガリと掻いた。
言外にやりたくはないのだと伝わったのは確かで、蘭菊もそれは本当に最期の保険なのだと目で答えた。
「当てにはせんでくださいよ」
「はい。がんばりますから、むなじり様。見ていてくださいね。」
「眦じゃ」
前から気にはなっていたのだが、この姫さんは力を入れたり決意表明するにあたって出会ったときの名で呼ぶのが癖らしい。
まァこの遣り取りも嫌いではないのだが。
蘭菊がふくりと目を細めた。
「私も、ひとの……まなじる様の君主でありたいのです。私よりも、きっと長生きして白髪の頃までどうぞ叱ってくださいな」
いくら命でも、長生きの部分だけは聞くまいが。
主君をひとり先に逝かせるなど忍びの恥だ。
「上様の仰せのままに」
幻術(めくらまし)の加当は厳かに嘘をつき、文渡の姫は眉尻を下げた。
朝霧の道は山を谷を越え、枯れ葉は積雪を経てやがて山桜の咲く頃に、姫の帰り来る文渡の里に春は巡る。