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捧げる六章
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捧げる六章

入道雲が、そびえたつように白い。

頬を撫でる潮風は柔らかくて、……夏の終わりの空は、抜けるように青かった。

うみねこが寄せあってはすれ違い別れ、にゃあにゃあと喧しい。
淹れたての紅茶がバターたっぷりの生姜クッキーをほろと崩す。
ささやかな海の匂いが鼻腔をくすぐる。

ざあ、と。
潮風が防風林を煽った。

これまでは思う存分に夜更かしをしていたものだけれど。
晴れた日には、窓辺から遥か下の水平線を眺めて休憩すると、不思議と執筆が捗ることに気がついてから、
少しだけ生活が変わった。
目覚まし時計を一つ増やして、一時間だけ早く寝る。
慣れてしまえば早起きするのも悪くない。
そんなわけで、今朝も日の射し込むマンションのデスク前に座って書きかけの原稿を眺めている。

もっとも。
執筆、なんて気取ってみたところで……、私はまだ無名のアマチュア作家でしかないのだけれど。

「お嬢、お嬢。次のページ」

うるさい。
無視して頬杖をつき、クッキーに手を伸ばした。
紅茶を持ってきてくれるだけで良かったのに、後ろで大きな犬が続きを急かしてしばしば覗き込んでくる。
果ては馴れ馴れしく肩越しに腕を伸ばしてきたものだからぴしりと叩いた。
エンターキーから長い指が弾かれる。
今のところ唯一の読者とはいえ、数分置きに覗かれては休憩も何もあったもんじゃない。

「駄目。推敲中よ」
「減るもんじゃなし、いいじゃねぇですか」
「減るわよ」

あんたの給料。
付け足すと現金なもので、口笛と共に天草はあっさり引き下がった。
邪魔者がいなくなったので、ようやく私はパソコンのモニタを睨み、黙考した後キーボードを叩く。

カーテンが膨らみ、留め髪が潮の香をはらむ。
白い波が鮮やかだ。

 

天草は引き下がりついでに買い物と遅い朝食を済ませてくると言い、マンションから出ていった。

扉の音でようやく出掛けたのだと気付くほど、その気配はささやかだ。
傭兵の心得なんだか知らないが、その気になった天草は驚くほど静かに出入りすることができる。
時々完全に気配を断って背後にいるので趣味が悪い。
……というか気持ちが悪い。
私の反応が楽しいらしく、わざとやっているのだからますますもってサイアクだ。

だいたい書く前から「次は何書くんですかい」だの「俺をモデルにした奴出ませんかね」だのワンワンとうるさいのだ。
絵羽伯母さんがクビにしたのも今ならちょっぴり分かる。
書き始めたら書き始めたで、呼びつけてもいないのにやってきては軽薄なお喋りばかりして去っていく。
できたところまで読みたい読みたいとうるさいし、集中なんて出来やしない。
当然、絵羽伯母さんでさえ止められなかった口の戸だ。
いくらやめろと言ってもやめやしないし、うるさくて、ええと。
なんて言ったらいいのか。
迷惑、というほどではないし。
…………ああ、そう。邪魔。邪魔だ。
あの元護衛、執筆の邪魔。

「…………?」

不意に。
資料用に積み重ねた雑誌のページが、はらはらとめくれた。
潮の匂いが強まって、耳の奥で記憶のうみねこが鳴き騒いだ。
もうすっかり、うみねこの呼び起こす風景は今住んでいるマンションからの眺望にすり替わっているけれども、
…時々こうして、記憶の底の六軒島が顔を出す。
もう煮え立つような怒りも、吐きだしきれない嘆きもない。
ただ甘やかに寂しさの裏側をなでていくような胸の痛みが、夏空を青々と見せるだけのこと。
私は、ゆっくりと目を閉じる。

そうして。
耳に優しい、大好きだった声がくすくす、と笑った。

――そうじゃないよね?縁寿は、そんなこと思っていない。

――うりゅ。

瞼をうっすらと開き…、窓に透けるベランダのテラスに視線を移す。
真里亞お姉ちゃんが、さくたろうと手をつないで悪戯っぽく笑っている。
白い手すりの向こうに青い海が打ち寄せている。

………うん。
うん、そうじゃない。
私は抵抗もせず、苦笑いしてそれを認める。

「……そうね。迷惑なんかじゃないの」

本当は、ああしてけして上手くない私の物語を、笑顔で読みたいといってもらえることが、嫌じゃない。
むしろ嬉しい。
でも、……まだ自信がない。
叱られることにも、貶されることにも慣れている。
ただ、褒められることだけはどうも慣れていないのだ。

天草は無自覚すぎる。
私は、精一杯書いたものを見せるたび緊張してどうかなりそうなのだ。
もしつまらなそうな顔をされたらどうしようといつだって思ってる。
本当は、怖い。
怖くてたまらない。
新しく知ってしまったこの気持ちを、手折られてしまうのがおそろしい。

誰かに私の世界が届くことが、それを褒めてもらうことが、…こんなに胸の満ちるものだったなんて知らなかったのだ。

 
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Nscripterでオリスク作ろうかとも思ったのですがスキルと時間が足りなくて断念。 それっぽい文章になっているので、お時間があればうみねこ起動してBGM(「ひだまり」推奨)流していただけるとありがたいです。