目次
捧げる六章
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いつの間にまどろんでいたのだろう。
……寝る前にはなかった筈の、湿ったタオルが額に張り付いている。
遠く鳴き交わす冬鳥の声に、薄眼を開ける。
霞んだ視界に、水差しと薬、が通り過ぎてからの天井が高かった。
部屋の明かりはそのままなのに、カーテン越しに滲む光は薄白い。

 

身体は、……まだ、重い。
それでも、指一本も動かせなかった昨夜の状態よりはだいぶマシになっている。
のろのろと背だけを起こし、落ちてきたタオルを取る。
まだ、冷たかった。

「天草……?」

小声で呼んでみたが、返事はない。

サイドテーブルに乗っているのは水差しとコップ、昨日の薬の残りだけ。
ついでにデジタル時計を見れば時刻は夜明けの頃だった。
微かな頭痛に顔をしかめて、力の入らない手で水を飲む。

「お嬢?」

ようやく気配を察したらしく、隣部屋からノックされた。
声を返すと、ほんの僅かの間を開けて、氷水のボウルをもった天草が現れた。

「これはこれは…。どうですかい、お身体の方は」
「……ん…。だいぶいいみたい」

僅かな湿気と熱の残る額を擦り、息をつく。
暖房がきいているとはいえ晩秋の朝は寒かった。

「お薬飲まれるんでしたら何か軽いものでも作ってきやすぜ。リクエストおありですか?」
「え、あ………。ん、」

タオルだけ回収し、あっさり引っ込もうとする姿に戸惑う。

そ、それより。
昨日の…あれは、どうなったわけ。

やっぱり、その、忘れられてしまうほど、酷い出来だったのだろうか。
体温計を渡されて言葉が喉で止まる。
それでも、言葉にならない何かを聞きたくて、呼びとめた。

「はい?」

シーツを握りしめる。
焦れば焦るほど、聞きたいことが言葉になって出てこない。

『何時まで読んでたの?』
……違う。そんなのどうでもいい。

『面白かった?』
……ありえない。面白いわけない。私以外に、面白いわけない。

『原稿用紙返して』
ああ、……うん、これ。これだ。
全く、借りたものは分かりやすいところに置いておくべきじゃないか。

…だけど、……どうしてなのか、あとが続かない。
舌が前歯の裏に縫いつけられてしまったみたいだ。
眉を寄せて聞こうにも聞けずにいると、察したらしく天草は「あぁ」と笑った。

「原稿でしたら、ちゃあんと読みましたぜ。なくしちゃいません」

ほれ、これですわ。と天草はベッドサイドテーブルの引き出しを軽く引いた。
そろえ直された原稿用紙の束が見える。

「……そ。返して」

気のないふりを装って手を出す。
情けないことに、指が震えている。
紙束を掴みかけたところで、さっと、天草の手が束を抱え、上方に避けた。
宙を切った指が迷ってから落ちる。

「………! ふっ、ふざけないでっ」
「ひっはは。強がっちゃってまあ…そんなお嬢もキュートですぜ」

カッと頭に血が上る。

「なによ、馬鹿にして……!」
「愛情表現ですって。やっぱお嬢がしおらしいと俺も調子が狂いますわ」
「は、はぁ……?! 何を、訳のわからないことっ……! そんなふうに遠回しに言わないで、正直に笑えば?! どうせ夢物語だって、馬鹿みたいだって、あの時みたいに笑えばいいじゃない!」
「なんのことかわかりませんが……お返しする前に、感想くらい言わせちゃくださいませんか」

天草が肩をすくめた。
グッと、喉が塞がり声を失う。
ただでさえ起き抜けで混乱して、感情が高ぶっていたので、その仕草はマイナスの意味にしか取れなかった。
……読ませなければよかった。
読ませなきゃよかったのだ。
どうせ私のためだけの一冊なのだ、誰が読んでも茶番に読めるかもしれないって分かってた。
私ひとりがこうあったらいいなと願っただけの一人の少女の夢物語。
だけど。
それがいくら馬鹿馬鹿しくたって私にとっては……、

「もういい、感想なんて聞きたく――」
「面白かったです」

………一瞬。
頭が真っ白になって、全ての怒りがバケツの水を被ったように、あっという間に熱を失った。
代わりに、ぐるぐると、頭の中を白い渦が巡りだす。

「……………え。う。……………え…?」

嘘。

だって、え………、本当に?

心臓がどくどくとテンポをあげ、首が熱くなり肩が震える。
天草が私の目を見て真正面からもう一度、繰り返す。

「だから、面白かったですって」
「う、……嘘。うそっ。そんなに面白いはず、ないっ。だってちゃんと読み返したりしてないわ、そ、それに私、」
「まぁまぁ。御命令通り『正直に』言ってやってるんですぜ? お嬢も素直に受け取ってください」

にやりと返すぞんざいな笑みに、反論する言葉がまたもや出口を失って、白い混乱を加速させていく。

「…そりゃあ、俺はあんま絵本だとか童話だとか甘ったりぃモンは読まねぇですし。
 お嬢が特別上手いかはわかりませんよ。……ただ、そうですね」

懐かしむような声音がさり気なく混じるのに、背筋がさわさわと、不安と期待に入り混じる。
絞り出した声は私らしくもなく、泣きそうに掠れていた。

「…………ただ?」
「昔の可愛かったお嬢にも読ませてやりたいもんだと思いましたね。お嬢、実は絵本とかすげえお好きでしょ?」
「あ……、…………。……っ」

頭ではちゃんと分かってる。
お世辞かもしれないって分かってる。
けれど。
口に出せない感情で溢れすぎて他の感情が住む余裕なんてちっともないから、 嬉しいのか反発したいのか、もう分からない。

………そうなの。
…今、あんたが言った通りなの。
私は6歳の「縁寿」に読ませたくて、書いたの。
天草はきっとそんなこと分からずに言ってるんだろうけれど、それでも構わない。

このお話は、昔の、私に当てて書いた物語だった。
私だけにしか、そんなことは分からないものだとばかり思っていた。

だから…、なんて、嘘みたいな本当の奇跡。

私は確かに絵本も童話も大好きだった。
お花の飛び交う優しい世界、真里亞お姉ちゃんが思い描いたのとはまた違う存在としての魔法使いやお姫さま、動物たちの大冒険。
お父さんがいろんな国から買ってきて、お母さんや時にはお兄ちゃんが(もちろんアドリブで)読んでくれたことのある物語を色も音も世界も、愛してた。
……でも「あの日」以降は、それらが絵羽伯母さんの望む「右代宮の令嬢」に相応しい本ではないような気がして。
憎い彼女に弱みを見せるなんて死んでも嫌で……、
否定される前に否定するしかないと思い込んで。
私は誰に言われる前に、自分からその世界を「殺して」しまった。
だから確かにその意味でも、これは縁寿にもう一度その世界をプレゼントするための、お話だった。

俯いて原稿用紙を握ったままの私が機嫌を損ねたと思ったらしい。
天草はしばらく窓の外を眺めた後、紙の端から手を離すと立ちあがった。

「どうもすいません、言葉足らずでお気に召しませんでしたかね。…腹も減ったでしょうから、何か用意します」
「………ん…」

別に、怒っていたわけでは、なかった。
でもその場で誤解を解く余裕もなかったので、答えを返しもしなかった。

私は、天草が部屋を完全に出ていったのを見届けてから、ようやく涙をこらえるのをやめた。

あの日。
右代宮縁寿だった一番最後の日、確かに、小此木さんに言ったのだ。

――作家になるわ。
――とにかく何でもいいの。誰かに心を、伝えられるなら。

あんなに拙いのに、たった一人にだけど、もしかして僅かに掠っただけなのかもしれないけれど……、
物語の中にこめられた心は、確かに、伝わるんだとちゃんと分かった。
本当だったら誰にも見せない筈の猫箱を。
私じゃない誰かが丁寧に開けて、箱の底の宝を見つけて、共有してもらえたこと……。
ささやかだったあのたった一言が、これまでの私を支えているのだと言ってもいい。

ちなみに。
処女作それ自体は今読み返せばひどいものだ。
面白かった、なんて優しいお世辞だったのだろうと今では分かるし、
愛なしに視れば、あの一言も大した意味はなかったのかもしれない。
………でも、私は嬉しかった。

晩秋の夜明け。
うっすらと雨の煙る、気だるい身体を抱えたあの日の海の色。
涙が乾いてあちこち変色した原稿用紙の束に射す光。
きっと忘れないだろう、ささやかな出来事を。

もちろん、これはあの煩い犬には絶対に一生の秘密だ。

 
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推奨BGMは、「wingless」→「(絵本とかお好きでしょ?あたりから)なまえのないうたinst」です。 6話目は「Thanks for all people」で!