結局、処女作を読まれてしまったことが良くも悪くもきっかけとなり、
天草は私にとって、その後もずっと「最初の読者」になっている。
段々と忌憚なくなる感想には苛立つことも多いけれど、第三者の視点が加わることで、作品が格段によくなるのも確かだった。
『寿ゆかり』 という新しい私の名も、天草に話したことで思いついたようなものだ。
残念ながら、最初の作品を書いた後、私の筆はちっとも言うことを聞いてくれなくて、書いても書いても上手くいかない時期には新しい名前を考えるのが体のいい暇つぶしにもなっていた。
……その日も冬の海をベランダのテラス席で眺めて、私はぼんやりと新しい名前を考えていた。
このあたりは東京と違って、冬でも厚着をしていれば風邪をひくほどの寒さじゃない。
少しだけ海風は冷たいけれど、冬至は過ぎて年も明けて、春の予感をうっすら感じる。
天草は中に入りましょうよとぼやきながら、新聞のクロスワードに挑戦していた。
時折思い出したように、私が最終手段にと持ち出してきた『人名事典』も覗いてくる。
「で、本日の調子はいかがですかい」
「駄目だわ、全然駄目。一生使うって考えちゃうと、もう何がいいのか分からないし…天草も何か思いついたら教えて。ボーナス弾むわよ」
「縁寿さんは、ご自分の名前がお嫌いで?」
私は薄く澄んだ空の視界をそっと引き、足元に目を伏せる。
久しぶりに、その名で呼ばれた。
首を振る。
「……まさか。好きよ。右代宮の姓は捨てるのに未練はないけれど、…名前はお父さんとお母さんがつけてくれたんだもの」
それとも、もしかしたら、……もしかしたら、右代宮金蔵が、つけてくれた名前なのかもしれないけれど。
どんな事情だったとしても。
今頃になって、名前をつけてくれたお父さんとお母さんの愛が、前よりずっと良く視える。
そう、お兄ちゃんや大好きな皆が呼んでくれていた名前だもの、嫌いなわけがない。
それに…もし皆がどこかで生きていて、私を探してくれた時に見つけてもらえないのは考えてみれば確かに困る。
ううん、きっと生きてる。
だから。
「ありがと。……もう少し考えてみるわね」
「ご健闘を」
珍しく茶化しもせずに、天草が手を広げた。
その仕草がおかしくて。
くすりと微笑うと、連絡役の男は、いつか風邪の日のように私を見た。
だから、……そういう目で見られると、驚くから…困る。
それが嫌じゃない自分にも、まだ戸惑っている。
『私』の新しい名前は、ほどなくして決まった。
残念ながら、名前を決めたからと言って、すぐに『寿ゆかり』が無名の作家じゃなくなるなんてことはなかったのだけれど。
6
そんなわけで。
今の私は『寿ゆかり』であり、『ベアトリーチェ』でもあり、そして作家としてはなんの名前も持っていない。
まだ無名の無限の魔女は、とある児童文学賞に応募するための童話を書いている。
初めて書いたうさぎの親子の物語。
あれを、もう少し膨らませて、もっとたくさんの人に伝わるようにできればと思っている。
私だけじゃなくて、もっとたくさんの子どもたちに、何かを伝えられるような、そんな作品に出来たらいい。
出来たらいい、じゃない。
……きっと出来ると信じよう。
少なくとも一人には通じたのだから。
もちろん、まだまだ私は未熟だ。
真里亞お姉ちゃんの言うとおり……私は、魔法からずっとずっと遠ざかっていたから、取り戻すのは想像以上に難しいだろう。
まだ私の魔法は、私にしか視えない。
もう一人がかろうじて視ようとしてくれるけれど、お姉ちゃんとベアトリーチェの域に達するには、まだまだ。
それでも一歩目から始めるしかないのだ。
私は、原稿用紙に涙の滲む冬の早朝に、…そう決めたのだ。
……今まではただ、絵羽伯母さんの顔を見ないようにして泣き暮らすだけだった「ひとり」の持つ意味を、台風の予感が胸にもたらすざわめきの色を、変えよう。
毎年10月が近づくたび、遊園地のCMが流れるたび、ゲームセンターの横を通り過ぎるたびに泣かなくてもいいように、新しい自分の第一歩として、自分のために魔法を使おう。
きっと、それはとてもとても難しいこと。
でも、……私は最後の魔女だから。
できることは努力だけ。
一歩一歩のその先に、たくさんの人に視てもらえる、私の魔法が使えるようになるはずだ。
今度こそ一人で休憩、と伸びをして紅茶を飲みほし、立ち上がる。
サンダルに裸足の指を通してベランダに出る。
手すりに手を置くと、残暑の海風が髪を煽った。
そろそろ本格的に台風の季節になってくる。
たった一人のこの部屋で初めて過ごす、親族会議の待つ季節。
今年は泣かずに過ごせるだろうか。
今年は駄目でも、来年は。それとも、再来年、いつかはきっと。
……そして、これはまだ夢物語でしかないけれど、いつか天草に捧げる話も書こうと思っている。
ほら、始まる前の右のページに、よく書いてあるじゃない。
お世話になった○○先生へ捧げる、とか、ああいうものだ。
それは私の感謝を伝えるために、私が出来る最大の魔法だと思うからだ。
仕事だからかもしれないけれど、
飽きもせずにこんな小娘に付き合ってくれて。
私の魔法を視ようとしてくれて。
台風の日は傍にいてくれて。
名前を呼んでくれて、くだらないおしゃべりをしてくれて、……ありがとう。
彼に捧げる一作こそ、猫箱の鍵を私自身の手で開けられるように、絶対に覗かれないようにしなくちゃならない。
気配を消すのが趣味の誰か相手じゃ難しいけれど、やってやれないこともないだろう。
何せ私は右代宮金蔵の孫で、お兄ちゃんの妹で、………絵羽伯母さんの娘なのだから。
視界の端に幹線道路の歩道が見える。
小さな影が、遥か向こうの角を折れて、袋を提げて帰ってくる。
……さて。
休憩もそろそろ終わり。
伸びをすると、ベランダから書斎へ戻る。
潮騒が届く。
振り仰いだ空を横切り、うみねこが鳴いている。
了