七日七晩を掛けて。
ひどく拙い、私のはじめての小説は…まがりなりにも、書き上がった。
完成したのは、なんてことのない、素直に労わりあって楽しく暮らす、うさぎの母娘の物語。
私が真里亞お姉ちゃんのいう「魔法」を本当の意味で理解して、
絵羽伯母さんにとっての白き魔女になれていたのなら……いつかどこかであり得たかもしれない。
そんな二人の、ささやかな物語だった。
ゆっくりと、涼しさが寒さへと入れ替わろうとする、秋の終わりの日々だった。
……そんな季節に明け方まで起きて毛布もかぶらずにソファで寝て、まともな食事もしていなかったのだから…当たり前といえば当たり前なのだけれど。
処女小説を完成させた代償に。
無理がたたって、私は見事に高熱を出した。
3
「一体なんだってこんな無理を。大事にしてくれなきゃぁ困りますぜ」
お嬢の無茶は今に始まったことじゃねえですが、と溜息は続く。
ベッドサイドの椅子に天草が腰掛け、湯気の立った器を差し出してくる。
「で。容態はいかがです?」
「……サイアク。風邪ってこんなにつらかったのね。すっかり忘れてたわ」
アイスクリームとかき氷をぐちゃぐちゃにかき混ぜたものを背中につっこまれて、頭には熱したトングを入れられたよう。
暑くて寒くて何か食べたいのにおなかはいっぱい。
むしろ誰か必要な人がいたら札束つけて三食まとめて進呈したいくらい。
要は、寒気がして気持ち悪くて食欲がなくて、頭とおなかが死ぬほど痛くて吐きそう、のフルコースだった。
喉が痛くないのだけが幸いだ。
とはいえ、何か食べてからでないと薬も飲めない。
不承不承、天草が作ったという熱い鮭粥にれんげを添えた椀を受け取る。
力の入らない指でひんやりしたれんげを握り直し、なんとか少しずつ口に運ぶ。
……悔しいことに美味しい。
傭兵なんかやっていると、こういう料理も上手くなるのだろうか。
想像もつかないが。
処方された薬を手にとって飲み込み、渡された湯呑で、白湯を啜る。
息が、熱い。
日はとうに暮れて、壁を薄い茜に染めていた。
彼岸も過ぎて夕暮れが早い。
差し出された傷のある手に湯呑を渡すと、ずるずる、のろのろと、ベッドに潜り込む。
……参った。
背を起こした体勢から横になるだけでも、こんなに体力を使うのか。
驚くほど力が入らない。
「それで。一体、こんなになるまで何やってたんですか」
天草が額に手を当て、無遠慮に覗きこんでくる。
そういえば、……小さい頃、体調を悪くした時は、お父さんがこうやって大きな手を額においていてくれたっけ。
朦朧とした意識のまま、近くに寄せた顔を眺める。
そこにいつもの陽気さはない。
視線と口調に厳しさはないものの、叱られているようで、やや気まずい。
「………新生活を満喫してたわ」
「そいつぁクールだ。で、いったい何を?」
くそ…。
こういう顔をした天草は大抵のことじゃ誤魔化されない。
朦朧とした熱に呼吸を乱すと掌から頭を逸らし、枕に顔を埋めた。
構わず背中に向けて声がする。
「風邪くらい誰だってうっかりすりゃ引くもんです。別に悪いって言っているわけじゃありません。ただ、お嬢の場合…」
「小此木さんに、報告する?」
「そういう問題じゃねえですって」
やや呆れた低いそれが、熱で弱くなった心に刺さった。
頼むから、そういう言い方をしないでほしい。
額の裏が熱い。
もう何年もこんなことはなかった。
ルチーアで具合が悪くなったところで、気の合わないルームメイトに嫌みな目で見られるだけだったし。
絵羽伯母さんのときは……、どうだったろうか。
気持ち悪くても、だらしないと叱られるのが嫌で、具合が悪いことをずっと隠していた気がする。
だから……本当に、困る。
風邪をひいて、普通に心配されたのなんて、いったい幾つの時以来だろう。
いや、……違う。
これは心配してもらっているとか、そういうことじゃない。
分かってる、分かってる。
身体を下方へとずらし、顔半分を毛布の内側に入れる。
キッチンに散乱した流動食の残骸とか、弁当箱とか、積まれた洗濯物とか、
倒れていた場所がソファでベッドは使われた形跡がなかっただとか……、天草はそういうことを言っているだけだ。
呆れられて当然だ、……私だってひどいと思う。
そう、だから、その。
「お嬢?」
とにかく、だから、その……。
そういう声音だと、困る。
いけない。
気が緩んでいらないことまで言いそうだ。
「お嬢、本当に大丈夫ですかい。何ならもう一度病院へ、」
「……たの」
「はぁ?」
「だからっ。しょ…小説…書いてたのよ」
毛布から顔を出して、枕の上で頭を反転させる。
眼が合った瞬間に言うんじゃなかったと途端に後悔したが、もう遅い。
頭上できょとんと眼を見開いた天草が、ややあってニマニマと気持ち悪く笑う。
「へえ………。へええ。なるほど、小説をねぇ…」
「あっ、………う、ち、違っ」
「それはそれは。台所が埋まった頃には書きあがるんですかい?」
「し、失礼ねっ。もうできてるわよ!」
頭が回らないせいか単純な挑発に苛立ち、反射的に言い返す。
結果、……さらなる墓穴を掘ったわけだけど。
怒りにまかせて背を起こそうとしたのでくらむ。
「ははっ、もう完成したんですかい!じゃあ読みたいです。ほら、看病した分の特別手当ということで」
……ああくそっ、しまった。
臍をかむがもう遅い。
「…………本気?」
「本気も本気です。お嬢、せっかくなんですから。読ませてくださいよ」
「嫌よ。あんたのために書いたんじゃないもの」
「そりゃあねえですぜ。物語ってのは読みたいヤツのためにあるんでしょうが。読者あっての小説じゃねぇですか」
いけしゃあしゃあとそんなことを言う。
……っていうか、ちょっと、必要以上に距離が近い。
圧し掛かるようにお願いされて、顔を動かせないうえに暑苦しい。
普段なら蹴るなり押しのけるなりなんとでもなるのだが、
残念ながら今は言葉一つ喋るにも普段の数倍、体力が要るわけで……、……。
あぁ。
そういうことか。
この男、分かってやっているのか。
力を抜き、ふうと息をつく。
とりあえず、体力が回復したら即、お礼をさせてもらうことにして。
悔しいことに、身体的にも精神的にも限界だった。
どうにも断れそうにないと分かってしまい、溜息を深くする。
「あんたって…、いつも適当にふらふらしてるようで、結構押し強いのね……意外だわ」
「そうそう。お嬢も観念してくださいよ。ね、俺が読んでいる間ゆっくり休んでください。ほら、原稿原稿」
「ああもううるさいっ。…あと、顔近い」
腹が立つくらいに普段通りの表情だが、顔と顔の距離は今にも鼻の頭がつきそうだ。
……パーソナルスペースとかないのか、こいつは。
「読んでも、いいけど………多分、面白くないわよ。…は、初めてだから」
微妙な沈黙が降りた。
耳の横の腕が位置をずらそうとしてやめ、時計の音が聞こえる。
……ややあって、天草が身体を起こす。
私は毛布を抱き込むようにしてそのまま背を向け、枕に瞼と頬を押しつけた。
特に意味はない。
寒気がひどいのと、あとは…ちょっぴり驚いただけだ。
「で、お嬢の原稿はどこに」
「机、の。二番目の引き出し……鍵掛かってないし、勝手に取って」
「ヒヒッ、そう来なくっちゃぁ。それじゃ、ごゆっくりお休みを」
天草は、隣室に消えてしばらくすると、乱雑に束ねた私の分厚い原稿に眼を落としながら戻ってきた。
中々戻らないので、てっきり向こうの部屋で読むのだとばかり思っていたのだが。
何で戻ってきたのか。
そんなに、楽しそうに汚い字を読みこまれると、急に自信がなくなってくる。
枚数の順番、揃ってなかったかもしれないし。
それにそれに、ちゃんと読み返したりしてない。
「……まさかとは思うけど。ここで読むわけ?」
「おっと失礼、お休みでしたね。それじゃ、隣にいますんで。何かあったらすぐ呼んでください」
すぐに引き返そうとする背を慌てて呼び止める。
それはそれで、壁の向こうが気になって眠れそうにないからだ。
「あっ……。え、っと。別に、こっちで読んでてもいいわ」
「そうですかい? お嬢は部屋が暗くなくても眠れますか」
「ええ。……暗いのは、そんなに好きじゃないし」
そいじゃ遠慮なく、と天草はベッド脇までやってくると、そこの椅子に跳ねるようにどかっと座りこんだ。
そんなに近くで読めとは言っていない……けど、もう言い返す力が残っていなかった。