――二月某日から、遡ること三日前、深夜
かつ、かつ、かつ。天井に壁に跳ね返る足音。夜のリズム、気持ち良いハミング。
夜の学校が暗くて怖くてドキドキするってことを、夢ノ咲に入学するまで、ひつぎは知らなかった。可哀そうなアタシの弟。足音がやけに響く静寂も、窓から落ちる月明かりの優しさも、蠢く森の不気味さも知らない。
アタシは知ってた。
もちろん施設は学校じゃないけど、先生がいて、仲間がいて、衣食住を共にするのだから似たようなものだ。
大人も寝静まった真夜中にこっそりベッドを抜け出して、寝巻きで廊下を歩くのが好き。裸足に上靴で、ときには仲間を誘って、みんなで毛布をお化けみたいにかぶったりして。きいきい軋む廊下は、いつだって隙間風の匂いがした。夏は生ぬるく秋は肌寒く、冬はしんしんと底冷える。愛おしい思い出は、アタシの魂に紐づけられて今なお鮮やかに心をくすぐる。
アタシの肉体とともに燃え落ちて灰になった、実家の記憶。
ぴかぴかの新・『舞鶴舎』は、パジャマにカーディガンを羽織っただけの軽装なのに、驚くほど寒くない。さすがに居室以外に床暖房はないから、心持ち脚が冷えるけれど、それだけだ。
滑り止めつきの階段を降り、中庭へ向かう。外に通じる角を曲がるたび、懐かしい冷気が足元に伝ってくる。窓ガラスは結露でうっすら曇り、足音だけが乾いている。
渡り廊下は吹き抜けだ。手前に上半分がガラス窓になった引き違い戸があった。消灯後は防犯と雨風を防ぐために施錠されている。
そのドアの前に、ほっそりとしたシルエット。
……あんずたちの仕事では『ラフレシア組』に振り分けられていた年長組の少女だ。
足音を忍ばせて近寄り、手を口に添えて、そっと背中に囁いた。
『悪い子、だーれだ』
「……ッ!」
『うおぅ』
囁くと、その子はガラス扉に押しつけていた顔を離して反撃しようとし、そこにいるのがアタシだと知るとその手を寸でのところで止めた。泣きそうに顔をくしゃりと歪めるのでかえって申し訳なくなり、距離を取る。見逃されたことを理解したのだろう、無言で玄関ホールへ逃げていった。遠ざかる足音に耳を澄ませる。結露したガラスは額が押しつけられていたところだけがうっすら透明になり、渡り廊下が見通せた。
月明かりの逆光で見えにくいけれど、渡り廊下の柱に隠れて、庭を覗く少年がいる。逃げた彼女が見つめていたのはあの子だろう。彼もまた、問題児で有名な年長組の少年だ。『怪獣組』で一二を争う、凶悪な年長者。
窓ガラスに文字を書くと、指の跡だけガラスが透き通って、水滴がホラー映画の血みたいに垂れた。
(ねぇ。アタシが生きてたときは、こんな風にラクガキをして遊んだね。ムカつく奴らの名前を書いて、息を吹きかけて消して大笑いしてさ)
しかたない子たち。
傷も痛みも怒りも憎しみも、どうやって逃がせばいいのか馬鹿な大人は誰も教えてくれなかった。痛い痛いと暴れていたら、流した血が鱗みたいに凝り固まって、歪んで醜い棘だらけの怪獣になってしまった、可哀想なアタシの友達。
コンコン、とノックしてシルエットで見回り職員の存在を知らせると、彼も中庭をもう一度だけ見つめた後、ためらいがちに逆側のドアから奥の廊下へ消えていった。施錠されていたはずだけど、あの子たちには問題にもならないのだろう。なぜなら昔のアタシがピッキングを教えたからです。
奥のドアが閉まるのを待って、カラリと戸を開け渡り廊下に進み出た。息が白く染まる。
問題児少年が見つめていた視線の先、庭の中央に、誰かがいる。
廃材で組み上げられたバリケードに囲まれ、夜の中庭は、さながら『モモ』の円形劇場だった。星の瞬く冬空に、ひときわ明るい月が輝いていた。
月明かりの下、大きな手のひらが星を掴む。長い脚が地を滑り、コンパスで描いたように完璧な円を描く。ターン、ステップ、1-2-3、1-2-3。見とれるほど鮮やかなパフォーマンスを月に披露する彼は、紛れもなく一流のアイドルだった。誰に言われなくても、自主練をしている、きっと毎晩。
……マヨイ先生もそうだった。アタシやひつぎが寝たあとはいつも夢うつつに揺れるような歌声が聞こえていた。月に照らされて見えづらい星々の代わりに、地上で綺羅星のように輝くアイドル。
彼は人手不足の解消にとアタシが呼んだ臨時職員で、あんずの「旧い友達」だ。
『やっほ』
キリが良さそうなところで庭に踏み出すと、長い影が重なった。驚く様子もなく振り返るので、なんとなく手を振ってみる。三つ編みハーフアップの茶色い髪に埋もれた瞳が、無表情でこちらを眺め、笑みの形に細くなる。汗が湯気になり立ち昇っている。
「ははは。君か。「どっち」だあ?」
『NEGIだよ。初めまして、三毛縞先生。それとも“三毛ちゃん先輩”って呼んだほうがいい?』
「光さんに聞いたのかあ? ああ、彼も修学旅行ではひつぎさんに巻き込まれた口だったか」
『そうそう、ひつぎが迷惑をかけまくったオーストラリア。だだっ広くてさぁ、見渡すかぎりなーんにもなくて……。南十字星が見えたよ。地平線に引っかかって、人工の光がある都会じゃ絶対見えないようなところにさ。きれいだったなあ。……さっきのキミみたいに』
真っ暗な渡り廊下を振り返る。誰もいない。
『……気づいてた? あの子、ずっと見てたね』
「殺気ばかりは一丁前だが、しょせんは素人なんだよなあ。あれで気配を消しているつもりなんだから、笑える」
『キミに見惚れてたんじゃない? 悔しいけど羨ましい。あ〜あ、アタシだってもっとレッスンが続けられたらなあ……』
「すればいいんじゃないかあ? 君たちを縛りつける父親は消えた。自由だ」
彼は腰の高さにあった廃材を椅子代わりに腰掛け、首のタオルで汗を拭いた。
アタシは劇場中央に立ったまま。まるで観客と歌姫だ。
『へへ。ありがと。……でも、ずっとこのままじゃいられないことはわかってるんだ。ひつぎはアタシの歌が好きで、だから身体を貸してくれたけど。そろそろ限界だなぁって思う』
くるっと回って、円形劇場で月に歌う。ら、ら、ら。
はぁ、と、白い息が空に溶けていく。
まだ、少年の柔らかい歌声のまま。今はまだ。
寒気に震えて、カーディガンの前を寄せる。地を這う北風に落ち葉が囁き、寝巻きの裾がはためく。
『ひつぎは男の子だもん。髭も生えるし、声変わりもする。いくら変装がうまくても、歌声だけは取り繕えないよ。装えないし、誤魔化せない』
「見解の相違だなあ。それでは娯楽産業が飽和するこの時代に、合成音声を使用した『ユニット』が一定の支持を得ている事実に説明がつかない。電脳世界限定のアイドルは現実に存在するし、ファンも着実に増えている」
『わかるよ。SSVRS? だっけ? ……ひつぎはそっち方面も考えてるみたい。弟なら、記憶を頼りに、揉み消された本当のアタシの顔を再現できたりしちゃうかもね。よかったら今度あんずに伝えてよ。いつか真・アタシに会えるから、その時は探していいよって』
「そういうのは直接言ってあげた方が喜ぶと思うぞお?」
三毛縞斑は、立て膝に腕を預けて苦笑する。
「しかしひつぎさん、それと知らず憎い父親の影を追っていやしないかあ? 記憶の通りの顔と声を再現して電脳世界で生き返らせるって、それはもはや死者蘇生だろう。危ういなあ、心配だなあ」
『余計なお世話』
突っぱねて、アタシも適当な廃材に座った。
さわさわとかすかに鳴る、枯葉と木々のざわめきが心地いい。
『でもね。アタシはさっさとゴミ箱に捨てられたけど、ひつぎは間近で父親あいつを見てた。真似たくなくても、どうしたって似ちゃうことはあるんだと思う』
これは懺悔だ。
あんずにはけして言えない罪の告白。二月の夜気は容赦なしに体を冷やす。廃材に触れた指の感覚が鈍い。
『……今だから言うけどさ。転校したての頃、ひつぎ、あんずのこと舐めてたっぽいんだよね。平和党の自作自演をして取り入ったのに、気づくどころか自分の立場が悪くなるのも構わず必死に庇ってくれるんだもん。誰もが慕う伝説の『プロデューサー』なのに、危機感薄くて騙されやすくてお人好しで、チョロい先輩だなぁって。……怒った?』
上目遣いで尋ねると、「あんずの友達」は渋面をつくった。
「いや。あんずさんに関しては俺も似たような立場だから、とやかく言う資格はない」
『おやぁ。キミも「悪い子」だったんだ』
ぱちくり瞬いて、気まずそうな男をまじまじと観察する。
「何だと思っていたんだあ? 利用する気で近づいて、自縄自縛の蟻地獄に嵌ってしまうところまで目に見えるようだ。客観的に、己の醜悪な所業を見せつけられるようで気持ち悪くはあるけどなあ。……こうして話だけ聞くと、俺、あの子に嫌われてても仕方がないんだよなあ」
『あんずは誰も嫌ったりしないよ』
知ってるくせに、と呟きながら顔が綻ぶのがわかった。
「そうだなあ。――みんなのことがだぁい好き、それがあんずさんだ。あの子の美点だ、憎らしいくらいになあ。つまり俺はよっぽど嫌われてるってことになるんだが」
『誰も嫌ったりしないって言ったでしょ』
祭事の明かりに照らされて、子供たちに囲まれて、笑顔で歌い踊る『MaM』のステージを撮るあんずの横顔。驚いたから覚えてる。
『あの子はみんなが大好きだから。……キミのことも、きっと――キミが思う以上に、大切に想ってるよ』
「……」
アタシから教えてあげられるのはこれだけだ。特別サービスは無し。だって妬けるから。
一息ついて立ち上がり、服についた木屑を払う。
『おやすみ。風邪引かないように、キミもそろそろ寝なきゃだめだよ。「三毛縞先生」』
冷え切った体を擦りながら建物内部に戻ると、驚くほど暖かかった。なんだ、新築の高気密高断熱も悪くない。
職員居室に戻って熱いシャワーを浴びたら布団にくるまり、アタシは眠る。
やがてカーテンの隙間に朝日がとろけて、ひつぎは目覚める。
【上映会】まで、あと二日。