雪がしんしんと降っている。
窓は結露し、カーテンの隙間から冷気が忍びよってくる。
年末まであと僅か。師走はあっという間に過ぎていく。
私は冬が好きだ。
冬というよりコタツと蜜柑が好きなのかもしれない。
月並みだけれど、幸せなものは幸せなのだ。
公営住宅の間取りは全て同じだけれど、私の家にはコタツがおいてない。
お母さんが「コタツは堕落道具だ」という信念の持ち主で、どんなに頼んでも許可してくれないからだ。
――ではなぜ今コタツに足をぬくぬくさせているのかといえば、下の階の石川さんちにいるからである。
目の前では、てっちゃんが完全に拗ねている。
茶色い髪をぐしゃぐしゃにした浪人生で、粋がっているけれど中身は可愛い弟分だ。
夏頃から、徹(とおる)君とおばさんに頼まれてたまに勉強を見てあげることになった。
徹君は私と同い年だけれどしっかりしていて、工業専門学校に行き、既に隣市の工場で働いている。
小さい頃から機械弄りが好きだったのもあり充実しているようで、たまにしか帰ってこない。
仲が悪くはないけれど、ちょっと路線が違うので、実は徹君のことはよく知らない。
むしろいつも一緒にいたのは、二つ年下で体育会系の徹哉の方。
通称てっちゃんだ。
今目の前でグテグテしている彼である。
「もう、てっちゃん。起きなさいよー」
「………」
湯のみでつついてみるのだが、問題集から額をあげようとしない。
しかたないので蜜柑を剥く。
ふたつに割って、白い筋を取りながらひとつずつ食べる。
外はますます寒そうだ。
仕事帰りのスカートは寒く、腰に布団を被せ直す。
「……俺にこんなの分かるわけねえじゃん」
「大丈夫大丈夫、やる気の問題だって」
箱いっぱいに蜜柑があれば、アタリもハズレもある。
幸いこれはアタリだ。
おいしい。
帰り際、雪でかじかんだ手がちりちり痛む。
てっちゃんは、未だ拗ねていた。
「どうせ桜子とか兄貴みたいになれねえし。やっても無駄だし」
「私も徹君も関係ない。てっちゃんは、てっちゃんに出来る範囲で頑張ってるんだから大丈夫だって」
「だって全然分かんねえんだもん」
溜息をつく。
もう一つ蜜柑をゆっくりと剥く。
いい加減疲れてきた。
「てっちゃん、拗ねると語尾に「もん」ってつけるよね。可愛いよねぇ」
「………うるさいな、なんなんだよ」
「もう。そっちこそなんなの?努力してるんだから何とかなるでしょ。するんでしょ。それより私が仕事が終わってからの時間、ずうっと来てあげてたのに、それは意味がなかったんだ? 飲み会に誘われても半分くらい断ってたのに。家の用事ですって言って頭下げたのに。頼られて損した」
様子を見ていったん言葉を切る。
経験上てっちゃんは、突き放し過ぎると諦め、甘やかしたら付けあがる今時の難しい若い子だ。
そりゃあ、進路が決まらないのは辛いだろうけれど、
最近の愚痴はまるっきりただの泣きごとで、真面目に受け止めていたらもたない。
それにこの半年間。
私が仕事帰りの貴重な時間を、使っているのにお礼の一つもなくて、正直少し、きついのも本当だ。
システムの入力だのなんだの、一日中キーボードを打ってからに、帰ってからは久しく使わないシャープペンシルやら赤ペンやら。
そもそも家計のこと、ちょっとは考えているんだろうか。
『徹君は関係ない』といったけれど、でも、少なくとも彼は自分にかかる学費をちゃんと考えて進路を選んだはずなので、やっぱりてっちゃんは甘え過ぎなんじゃないかと思う。
一度口にすれば積もり積もった不満は私にもあるわけで、嫌みのひとつもふたつもぶつけてしまう。
「今まで一回もお礼の言葉もないしさ。手が痛いのに蜜柑の一つも剥いてくれないしさ。愚図ってれば何とかなるなら、いつまでもそうやっていればいいじゃない。もう知らないよ」
茶色い髪が俯いて、むっつりと黙っている。
本当にもう知らない。と思った。
通勤用のニットコートをスーツに羽織り、筆記用具を手元にまとめる。
いつもはおばさんが仕事から帰るのを待ってお暇しているけど、今日はもう疲れた。
ふとてっちゃんが顔をあげた。
立ちあがりかけたところに、目が合う。
「知らなかった。手、痛いのか?」
「そこは本題じゃないでしょ。まあ痛いっていうか、疲れた。毎日毎日仕事してから勉強見てるんだから、そりゃそうじゃない?」
「ごめん……」
「謝るくらいならやる気を出してくれた方がいいなぁ。ねぇ、どうやったらやる気出るの? 受かったら御馳走してあげるとか、そういうのでいいなら、希望言って。約束するから 」
言いつつ荷物を肩にかけ、(名残惜しい)コタツから立ち上がる。
カーテンから外を窺えば、窓の桟まで結露していた。
今晩も冷え込みそうだった。
情けない顔で俯く幼馴染を一瞥して、蜜柑を右手に取り左手を振った。
「やる気がないなら今日はやってもしょうがないよ。じゃね、また明日」
勝手知ったるダイニングキッチンを抜けて玄関へ。
パンプスの踵をはめて、今日何度目かの溜息をついた。
そりゃあ、てっちゃんは年下の男の子だけれど、男の子に成長してほしいと思うのはわがままなことなんだろうか。
「てっちゃーん。お邪魔しました、おばさんによろしくね」
居間に向かって声をなげる。
返事を待つが、何もない。
まったくもう。
金属製のノブは手のひらにジワリと冷たく沁みた。
コンクリートの階段は雪がうっすら積もっていた。
公営住宅の403と303。
すぐ上の階が十年来の私の家だ。
昇り階段から冬の雪空が見える。
一緒に小さい頃から見てきたのに、私が成人した今も、てっちゃんは少年のままみたいだ。
不意にポケットが震えた。
足をとめて、鍵の隙間から電話を探る。
画面を開くと思わず頬が緩んだ。
『 title: ごめん
本文: 頑張ります。今度手のマッサージとかするから』
「そういうことじゃないんだけどなぁ……」
一人ごちながら思わず笑う。
考えて、すぐ扉向こうの相手にぽちぽちとメールする。
吹きさらしの階段で立ったままメールを打つなんて、中学時代に戻ったようだ。
『 title: だめです
本文: おさわり禁止。ただし合格したらいくらでも手を好きにしていいですよ。
あと、やる気が出そうな約束があれば考えておいてね。
ちょっとお高い中華料理とかどうかな?
桜子姉さんより』
ぱたんと携帯電話を閉じて、白い息をはく。
私は私で、年末の会社は忙しい。
明日も仕事を頑張ろう。