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所有権は義務を伴うらしいのです。

本編
後日談

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四話 (5月14日)

指の腹で捏ねるように押し込むと、薄桃色の唇から吐息が漏れた。

「……ここがいいの?」
「そ、そう、うん……ああっそこ。そこ、いいぃ……」

表面はすべすべしているのに強く押せば固いものでも包みこむ。
同じ人間なのに、女の身体はどうして俺とこんなに違うのだろう。
桜子は今まで見せたこともないうっとりとした表情で、座椅子に背を預け切っている。
頬にかかる髪が俯くたび揺れて心臓に悪い。

「ね、徹哉、もっと。うん、それ…」
「………そんなにこれがいいのかよ」
「うん! 最高! ありがとう~」

仕事着の時は近寄りがたい、格好良い年上の幼馴染はふにゃふにゃと笑ってもう片方の手を出した。

馬鹿にしてんのか。

「もう二十分もやってるだろ……終わり! 俺も手が疲れた!」
「ええええー。私は、てっちゃんのお勉強、毎日毎日お仕事が終わってから一時間は見てたのにぃー」
「うっるさいなー」

俺は今、大変後悔をしている。
マッサージ券に、一枚当たりのマッサージ時間も書いておくべきだった。
今時手作りの実に単純な綴り券である。
俺の汚い字で「一回分」としか書いていない省エネ志向のチケットだ。
春先から週一くらいで週末に使われるのだが、これが長い。
初回は一時間くらい延々とやり続けて次の日筋肉痛になった。
こっちの手が疲れる。
確かに、浪人生活からの解放は本当に大きかった。

学生生活は楽しいし、勉強はものによってはサッパリ分からないが、授業も高校時代じゃ考えられないくらいに出ている方だと思う。

桜子には感謝している。
桜子姉を教師に頼んだ母親と兄貴のお節介にも、言葉にはしないが感謝する。
実際、俺に優しく適度に厳しい彼女は、理想の家庭教師だったと思う。
勉強のことだけでなく、俺が一人では逃げてしまいそうなところを、これでもかと叩いてくれたのが一番の合格要因に違いない。

何にせよ、ようやく先の開けた新生活は二年間燻った甲斐のあるものだった。
風呂掃除も飯炊きもたまの掃除も、叱られる前に進んでやるようになった。
早起きもするし(上の階に住む幼馴染が、通勤するところに合わせて出たいというのが動機なのだからちっとも褒められたものじゃないのだが)、皿だって洗う。
母親がたまに涙ぐんで鬱陶しいが、そのくらいで文句を言っては罰が当たるだろう。
もちろん、幼馴染みの手のマッサージだってお安い御用である。

その幼馴染みは「ありがとね」と柔らかに目を細め、外していた時計をまたつけている。
春先切った髪が少し伸びてきて、伸ばそうかどうしようか、とか反応に困る話題を振ってくる。

「反応悪いなあ。じゃあ徹哉はどういう髪型が好き?」
「ショートカット」
「それ今の髪型だもん。ダメ」

……どうしろと!

「まぁいっかー。暫く伸ばそうかな。でももうすぐ夏だしなぁ」
「で、なんで手を出している」
「左手まだだもん。ね、徹哉。私も約束守ってるんだし、お互いさまでしょ?」

むむむ。
そう言いつつ呼び方が三回に一回くらいは「てっちゃん」に戻っているのも、三回に二回は「徹哉」なので、充分満足することにする。
手のマッサージもお安い御用。
そもそも『好きなだけ』という約束だったのだし、恩を返せて、喜んでくれるならなによりだ。

「徹哉、上手なんだもん。もともと上手かったのに、なんかますます最近すご……ん、」

だがしかし。
最近聞きたくて仕方がない。
延々と満足するまで腕とか手をこねくり回させて、あぁとかそことか、それは俺をバカにしているのか?
俺の手は便利な機械か?
あまり触っていると、我慢が出来なくなりそうだがそれは考えているんだろうな?
朝から寝巻きみたいな某ファーストリ○イリングな部屋着とかお前それふざけているのか?
そんな態度を取り続けて、目の前の男が切れても知らないぞ。
俺がこの手に触れて何を思っているのか、考えたこともないのだろうか桜子は。

「うう、そこ気持ちいい……」
「どんだけ凝ってんの?」
「だって今忙しいんだもん。仕事してから体力落ちたー。バッティングセンターとか行きたいなぁ」

こっちを見た。
――頭が真っ白だ。
いきなり何。
俺に誘えって言ってるのか。
それとも今までみたいに、全く意味はないのか。

「い、行けばいいだろ。誰か誘って」

ああ、俺の間抜け。何を言ってるんだ。
しかも噛むなバカ俺。

「てっちゃん予定あるの?一緒に行こうよ。デート」

そしておまえも何をさらっと言っているんだ。

「あ、あのなあ」
「いや?」
「……いいけど」

目を逸らすと、ベランダ向こうは五月の青空が広がっていた。
少し開けた窓から風が吹き込んでくる。

桜子は全然分かっていない。
分かっていたらこんな軽い態度のわけがない。

小学校に上がる前、初めて見た、青空に吸い込まれる彼女の打球、最速で塁を踏む笑顔。
俺にとっては、あの日の憧れが、これまでずっと続いているというのに。

ぺしりと腕を叩いて、左手のマッサージは終了した。

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