目次

所有権は義務を伴うらしいのです。

本編
後日談

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五話 (6月12日)

バッティングセンターで沢山汗を流して、雨の土手をてっちゃんと帰る。
舗装されていない土手の道は水を含んだ草の色が鮮やかだ。
桜並木はすっかり葉桜になって、葉の間からひっきりなしに水がぽとぽた落ちている。
ささめに降り続く梅雨の色は、遠い川面を煙らせていた。
久々の運動で、気だるい疲れが心地よかった。

「楽しかった。また行こうね」
「……久しぶりに動いて疲れた」

私の期待するような眼を受けて、てっちゃんは、目を逸らしてそれだけ言う。
素直じゃない。

「もー。久しぶりじゃん、バッティングセンター。徹哉は楽しくなかった?」
「楽しかったけどさ……桜子姉ちゃん、相変わらず打つ時のフォームきれいだな」

私は目を瞬いた。
思いもかけず、とっても嬉しい言葉を聞いた。

「……ふふ」

『姉ちゃん』って言われるの久しぶり。
妙に嬉しくて顔が緩んでしまう。
隣でてっちゃんが、超不覚、という顔をしているのに気づいて眼を細めた。
野球チームで私の背中を姉ちゃん姉ちゃんとついてきた、あの頃の癖が抜けていないのだろう。
短い髪に、六月の風が涼しい。
ビニール傘を傾けると、水がぽとぽとと横に落ちた。
隣を歩く「弟」を傘越しに窺って、足元に視線を逸らす。

てっちゃんの通う大学と私の会社は路線が一緒なので、この春以降、帰りによく会うようになった。
それで何か、大学の友達と一緒にいるのを見かけるようになった。
花粉症の重装備がなくなって、普通に大学生らしい私服で見かける石川徹哉は、知らない男の子のようだった。
私より三つ四つ年下の女の子もたくさんいるグループで一緒にいるのを見た。

……なんでずっと一緒にいたのに、今頃こんな風に動揺しているんだろう。
昔のように姉弟感覚で出かけてみたら元に戻れるかと思っていたのに、逆効果だった。

足元を見ていると、長く使っている紺色スニーカーのふちが泥跳ねで汚れていた。
土手から横に抜けるコンクリートの階段に、雑草がところどころ潰れている。
私達の住む公営住宅はこの階段を降りて曲がってすぐだった。

「桜子、あのさー」
「うん?」

てっちゃんの茶色い髪が湿気で少しぺたっとなっている。
私も習って傘を閉じながら、隣を見た。
私の視線は肩辺りにある。
その少しの差に改めて「身長を追い抜かれちゃった」と思う。

「今日もマッサージすんの?」
「腕疲れたしやってほしいなー。マッサージ券ってあと何枚あったっけ……」

「あと三枚」
「ウソ! え、え、そんなにやってもらってた? あと三回しかやってもらえないの?」

背中を追いかけて階段を上がると、年下の幼馴染はちょっと困った顔をした。

「毎週やってたらなくなるだろ、そりゃ。……まぁ別に、券とかなくてもたまにはやってやるよ。気が向いたら」
「そっか」
「そうだよ」
「ありがとう! 徹哉は優しいねぇ。えらいえらい」
「子供扱いすんな!」

遠慮がちに、後頭部をぽんと叩く。
……やっぱり大きくなった。
あんなに小ちゃかったのに、今や四学年も下なのに、男の人ばかり不公平だ。
何にしても。
てっちゃんはまだ大学に入学したばかりで、
私はもう社会人なのだし、こんな気持ちになってはダメだ。
ダメなのにな。
幼馴染の背中を見上げて、階段を踊り場までとんとんと上がる。

「じゃ遠慮なく使いきっちゃおうっと。明日も仕事だし、腕休めたいな。今日もやって」
「何調子に乗ってんだよ!?疲れたって言ってんじゃねーか!」
「やってよ、ね」

あと三回だけ。
そのつもりで、背中を追いかけて、下の階の同じ間取りにお邪魔しますと靴を脱いであがった。
私の家も、石川さんのうちも、事情は違うもののそれぞれ母子家庭だ。
普段は夕方過ぎるまで誰も帰ってこない。
石川さんのお母さんは接客のお仕事なので土日は特に遅かった。
これでも徹君が居た頃はもう少しにぎやかだったのが、今では本当に静かだ。
窓の外は、相変わらずしとしと雨が降っている。
台所の流しで手を洗ってうがいをしてからコップ一杯の水を飲む。
居間を通るときになんとなくテレビをつけてみたり、こういう習慣は小学生の頃から変わらない。
夕方のローカルニュースを横目に机の端に座る。
自然、あくびが出る。
久々に体力を使ったので、眠かった。
時計を外して、テレビを見つつぞんざいに手を差し出した。
幼馴染が上着を脱いでこちらを見てくる。

「まったく……」
「ふふふ。ありがと、てっちゃん」
「また呼び方戻ってるし」

ごめん、と言いかける前に、机がぎしりと軋んだ。
てっちゃんの大きな手が、手首を両側から包み込む。
一瞬、体温に驚いて思わず引っ込めそうになった。

「何」
「あはは。なんでもない、なんでもない」

訝しげに見下ろされた。
笑ってごまかし、慌てて腕を伸ばす。
春先は全然気にならなかったのに、今日は変だ。
一緒に出かけたのが予想よりずっと楽しかったからかもしれない。
触れあった指先に、少しだけ心が甘くなる。

「流石に、今日は俺のもやってほしんだけど」
「いいよー後でねー」

気にしてても仕方がない。
軽く答えていつものように腕を任せた。
親指が、手首から肘の裏側の方に向かって少しずつ押し込んで移動してくる。
……なんだろう。
いつもだと眠くなるだけなのに、今日はてっちゃんの指に触られてるところが変に熱い。
落ち着かなくて息をのみこむ。
かたく凝ったところをぐっと押された。

「あ」

溜息のように漏れた声が、変に聞こえて焦る。
――うわ。どうしよう。

「ふ、ぁ……」
「やっぱ今日凝ってんね」

平坦な声が耳に響く。
変に思われていないだろうか。
だって、そう、私はもう学生じゃないわけで。
てっちゃんのまわりの子から見たらおばさん、までは行かないけれど、
こういうのは、

「や、ん。あっ、あう」

いやだ、声がまた変だ。
だって、てっちゃんと言えば、ほら。
そう。
あの青い空。

濡れた川べりの草。

私がかっ飛ばしたボールを拾って目をキラキラさせて、桜子姉ちゃんすげえと駆け寄ってきたときの誇らしい気持ち。
そのあとまたボールを追ったてっちゃんが、川に落ちかけたのを慌てて助けて。
野球チームの面々でずぶ濡れになったあの水の冷たさ。
ツンツンした髪がべちゃっと今日みたいに水で濡れていて、家に連れかえって乾かしてあげた。
乾いた髪をかきまわして「しょうがないなぁ」って笑うと、生意気そうに頬を膨らませていたっけ。

いつの間にか私がベンチからそれを見るようになったけれど。
あの頃から、私にとってはずっとずっと弟分だったじゃないか。

そう。
今さら、こんなことになるはずない。

触れられている腕から顔を逸らして、てっちゃんをそっと盗み見る。
まともに見られず慌てて俯いた。
どうしよう。
多分、私の顔が、真っ赤になっている。
腕の凝りがどうとかがよく分からない。
まともな声が、出てこなかった。

「あの。……ね、徹哉」
「ん……?」

相変わらず無心に、今度は手のひらを広げて反らし、親指の付け根の腹を押しながら、声が帰ってくる。

「もういい……から、帰る、ね。終わりにしよ」

てっちゃんの方を目だけで見上げる。
言ったこととは裏腹に、手を引っ込めていない自分がいて、戸惑った。
声が小さく、掠れている。
心臓が早くて身体が熱い。
このままこうされていたら、きっと良くない。
てっちゃんが顔を上げて、私の眼を見た。
そうして、しばらく眺めているうちに、顔が変わった。
ふうん、と低い声で呟いて腕をぐっと掴む。
知らないふりなのかなんなのか、相変わらず手のひらをぐいぐいと押してくる。
普段なら痛気持ちいいのに、もう良く分からない。

「え?……ちょ、ねえ、もう終わり。もう終わりだから!」
「そういえば桜子さ、俺が受験勉強してる頃に、メール送ってきたろ」
「知らないよ、め、…るなんか……たくさん送ったじゃな…あ、や、」
「それでさ、『俺が受かったら、幾らでも手を好きにしていい』って言ってたよな?ちゃんと覚えてるんだよ。マッサージなんてけちなこと言わねえからさ、気にしないで思う存分、受験勉強のお礼させてもらうことにするよ」

手を抜こうとするのに力がうまく伝わらない。
全身が火のようで、息が荒い。
恥ずかしい。
なんで。いきなり。
今日はずっと、いつも通りの姉と弟でいたはずなのに。
――私がちゃんとしたお姉ちゃんでいられなくなったからいけないのかもしれない。
私が悪いのかも。
と思うけれど、もう考えがまとまらない。
すっかりぼやけた耳の奥で、テレビと雨のノイズがする。

「てっちゃん…ちょっと、んんっ、だめって、ば!」
「何? 約束破るのかよ、『桜子姉』」
「徹…だめ、ね。てっちゃん、だめ」
「手しか触ってねーよ何がダメなんだよ」
「そうだけどっ」

右手を掴まれたまま、寄せられて、手のひらを舐められた。
思わずくっと喉が鳴る。
恥ずかしい、恥ずかしい。

「ぅ、うえぇええちょ、ちょ、うーななにしてんの!」
「手だけだって。約束守るから、それでいいだろ」
「何がぁ……やう、あ、あああ嘘、うそっ何、だめだって、なめないでやめなさぁっんっ」
「桜子が悪いんだよ。俺、男だぞ」

最後の言葉を聞いた瞬間。
驚くほど、かくんと、力が抜けた。

身体が逃げているのに、手だけを引っ張られるような体勢で右足の靴下が床に擦った。
余計バランスが悪くなって、逃げられなくなる。
――指の間を、なぞられて、先端に吸いつかれて。
少し、先端を噛まれた。
歯のあたる軽い痛みと舌の感触が慣れなくて背中がぞくぞくとした。
……腰、熱い。
ぼうっと考えながら、今度は中指と薬指の間を舐められて、手首から内側の方まで撫ぜるようにされて、大きな声が出そうになった。
慌てて椅子にしがみついていた左手を離して口を押さえる。
押さえるのが間一髪間に合って、幸い、悲鳴をあげなくて済んだ。

「~~~~~~~~! ふ、んっ……!!」

指を咥えられて、軽く噛まれて、口の中で舐められた。
膝がガクガクする。
短い髪が汗で頬に張り付いて、視界がおかしい。
右手の指が順繰りに全部食べられて、てっちゃんの唾液塗れになるまでに、私自身の唾液で左手もすっかり濡れてしまった。
口が離れても、息を荒くして必死で声を我慢していると、幼馴染がわざとらしく優しい声を出した。
私の知っている困った顔の幼馴染じゃない。

「『桜子姉ちゃん』、指弱いの?」
「…ぃ、じわる……!ばかあ…!てっちゃんの、ば……かっ」
「何それ、煽ってんの」

手の裏では声がうまく出ないので、首を振って否定する。
すると口を押さえていた左腕が今度は掴まれた。
抵抗したいのに、もう力が入らなかった。
掠れた喉で哀願する。

「ねぇだめ。もう舐めるのや…」
「言われなくてもびちゃびちゃだよ」
「う……」

耳まで熱くなる。

「……こっちの手はどうすっかな。『俺の好きにしていい』んだろ」
「や。そ、それは、それはね。あの!」

ぐらぐら煮えた頭で必死で、考えて、私は俯いた。
息が荒くて小さな囁きのようにしか、ならない。

「次の、次のマッサージ券のときにしてもらうから……!!」

おそるおそる掴まれた左腕を引き戻すと、てっちゃんは手を離した。
顔を見られないままの私に、頭上から、話し掛けてくる。

「それ、本気?」
「う、うん、そう。次……!」

私は必死で頷く。

もう終わりと言って、打ち切ろうとして聞いてくれなくなったら、どこまで行ってしまうのか。
私の手が、本当にてっちゃんのものになってしまったら、どうなってしまうのだろう。
気持ちよすぎて、どうしてこんなことになったのか忘れかけていたけれど。
とにかく今ここで全部が所有されてしまうのが怖かった。

――でも、多分、もう逃げられないところまできている。

「いつ?」
「ええと……じゃぁ、来週……」
「それじゃ遅えよ桜子姉。次の日授業ないから、明後日」 
「あ、明後日は、仕事だってば」
「じゃぁ夜な」

切羽詰まった声で言われて、きゅ、と、身体の奥が変になる。
身体が、熱っぽい。
私は目の前の弟分に、どんなふうに手を好きにされてしまうのか、多分、期待をしているのだ。

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