403号室に住む、幼馴染の姉さんにガキのころから惚れていた。
言うまでもなく桜子姉のことである。
柔らかな黒髪は短く、私服ではスカートなんてまず履かない。
野球が好きでテレビの中継は欠かさないし不器用だし、好きな食べ物は枝豆だ。
溌剌とした見た目の割に性格は意外なほど穏やかで、いつも「しょうがないなぁ」と俺のことをくすくす笑って見守っていた。
お姉ちゃん気取りでちっとも色気のない格好でやってきては、隙のある体勢でだらだらと寝転がったり。
それでも良い匂いがして肌はやわらかそうで死にそうに目の毒だった。
特に、指がきれいだ。
(野球をしていた頃の名残りか少し節があったり、傷跡があったりもするけれど、)
無造作に触れてくる指先はいつも少しひやりとして柔らかかった。
桜子の手が好きだった。
中学の頃、野球のチケットが当たったと、俺を観戦に連れて行ったことがある。
好きな選手のホームランに大喜びで手を握ってきたのは忘れられない。
感触を知ってしまった後、あの手のひらに包まれて扱かれるのを妄想してどれだけ抜いたか分からない。
賭けてもいい。
桜子は俺の気持ちを知らない。
そうでなければ、『いくらでも手を好きにしていい』なんて書けるわけがない。
その桜子が、いろいろあった挙句に、いきなりデートしようよなどと言い出した。
梅雨の湿気越しに伝わる、切ったばかりの髪が美容室の匂いだった。
心から楽しそうに、今まで見たことのない笑顔で、俺の隣に一日いてくれた。
それでその後、俺の家でいつものように腕のマッサージをすることになり。
そうしたら、なんだ。
つまり、
その桜子姉が、目の前で、さんざん妄想で汚したことのある右手のひらを俺に差し出して。
こっちが指で押すたびに、俺でも分かるような甘い声を漏らしながら顔を真っ赤に染めて。
上目遣いで困った顔で、もう終わり、なんて言い出したものだから。
理性って切れるんだな。すげえな。と他人事のように思い、あとは「マッサージ」の一線を越えた。
当然だ。
桜子が悪い。
他でもない俺の前で余裕なさそうに「てっちゃん」と請われるほどに、ぞくぞくした。
これまで触りたくて含みたくてしかたなかった手を甘噛みし、しゃぶり、堪能する。
そのたび泣きそうな目で声をこらえる様子に興奮する。
姉ちゃん、と呼びかけると何か後ろめたいのか、断然反応が良くなるのを知った。
これまで我慢に我慢を重ねてきた結果だ、止まるわけがない。
桜子の腕は、思っていたよりずっと柔らかくて甘かった。
しかしやり過ぎだ。
やり過ぎだ、俺。
汗ばんだ頬を赤くして、ふらふらと帰っていく桜子を呆然と見送り、頭を抱えた。
嫌われたかもしれない。
というか嫌われても仕方がないことをした。
ただ、桜子は「続きは次にしてもらう」という趣旨のことを言って帰った。
……いや俺が言わせたようなものだからあてにならない。
一睡もできず雨音を聴きながら出た結論は、こうだった。
明け方の白む曇り空が眩しい。
とにかくにも、どうしてこうなったかという思いはあるものの。
多分、もう限界だった。
俺は年上のきれいで格好良い桜子姉ちゃんを好きになったが、それはガキの憧れで終わらなかった。
性欲というものを知り彼女の制服の中を妄想するようになり、俺のものにしておきたいという欲望は膨れるだけ膨れてもう隠せなくなっていたのだ。
だから、桜子が俺を意識してくれるのならもう何でも良い。
少なくとも、嫌われて絶縁されても男として覚えていてもらえるならいいんじゃねえかな、という気持ちになっていた。
徹夜で朝起きれるはずもなく、大学は午後から出ることにした。
相変わらず雨だ。
冷凍ごはんをチンして納豆でかっこみ、残りの味噌汁を沸かして飲む。
月曜休みの母親が後ろで味噌は沸かすなと文句を言う。
その割、視線は昼のドラマに釘付けだ。
「ってきやーす」
皿だけ洗って家を出る。
道端の草に水が跳ね、土手道からの川面は少し濁っていた。
電車では似たような髪型を見るだけでどきりとした。
困ったことに、何を見ても昨日の桜子の声と顔が頭から離れない。
午後の授業は全く頭に入らず、付き合いを断ってまっすぐ帰途についた。
雨はひととき止んでいた。
水たまりのある駅の階段をのぼり、ホームで待つ。
携帯ラジオの予報によれば、明日の夕方過ぎまでは梅雨の晴れ間が見えるらしい。
やがて空気が震え鉄の塊が息を吐き、俺はいつもの電車に乗った。
相変わらず湿気がこもっている。
田舎の地方都市では車通勤の方が多いからだろう、帰宅ラッシュといってもたいしたことはない。
適当な吊革を掴み、身体を預けた。
二つの駅を過ぎた後、僅かな期待で車窓からホームを眺める。
桜子は見つからなかった。
まあ、そんな都合よくは行かない。
大体、会ってもどういう顔をすればいいのか分からない。
またラジオに耳を傾けて揺られ、近場の小さな駅に着いた。
小さな駅なのでホームは一つ、階段を渡ればすぐに出口だ。
ぱらぱらと降りる人に混じり切符を渡し、さてと曇り空を見上げる。
「徹哉」
背中から桜子が俺を呼んだ。
「さ、桜子」
慌てて振り返ると曖昧な笑顔で、スーツ姿の幼馴染が立っていた。
湿気のせいか、髪が心なしかはねている。
違う車両だったらしい。
「えっと。あの、見かけたからね、うん……あは、は」
桜子も散々迷って声をかけたのだろう。
笑いながらも言葉を続けられなくなり、目を泳がせて口をつぐんだ。
気まずい。
会話を続けようがない。
しかし駅舎の入り口で立ちすくんでいるわけにもいかない。
どちらともなく、いつもの道を無言で歩き始める。
――今、分かった。
こういう時に同じ団地に住んでいると、避けようがなく実に気まずい。
道順がどこまで行っても同じである。
桜子が駅で声をかけてこようが、そうでなかろうが、どのみち途中の道で一緒になったろう。
橋を渡って、分岐点から土手へ曲がる。
雨雲が風に吹かれ、吹き散れるようにして空が顔をのぞかせていた。
淡くぼやけた、夕暮れの川。
背中に桜子がいて、昔を思い出した。
このあたりは雷が多い土地柄で、小さい俺にとっては「雨」といえば「雷」の恐怖だった。
桜子姉は雷が好きだ。
皆で橋桁の下で雨宿りしたときも怯えたりせず、雷に驚き泣きわめく俺の後ろについていてくれた。
背中から伝わるぬくもりと匂い、肩に置かれた温かい手。
『ピカって光るじゃない? それから、ゴロゴロっていうまでの秒数を数えてみるといいんだって。てっちゃんもやってみよ? 一緒に数えようね……はい、いーち、にーい、さーん、きたー!』
桜子のカウントする声は雨音の中でも良く通った。
楽しそうに雷さんをお迎えする姉ちゃんにつられて、俺も泣きやんだのだと思う。
考えてみれば、俺より学年が上の彼女は「音速」について習っていたのに違いない。
その時隣にいた兄たちが、あっさりそれをネタばらしして、桜子が怒っていた。
豪雨の黒い空はそれでも怖かったけれど、
俺にとって、雷は桜子姉ちゃんと数えて待つような「怖くないもの」に変わったのだ。
みっともない思い出だ。
コンクリートの帰り道に、湿った風が流れていた。
気の詰まる十五分が過ぎ、ようやく団地の階段をへとへとになりのぼった。
303号室の前で、俺につられて、桜子が立ちどまる。
「てっちゃん、えっと……また、明日」
「うん。じゃあ」
303のドアノブを掴みぞんざいに答えた後、「また明日」の響きがじわじわと来た。
桜子は、明らかにほっとした息をついて階段へと踵をかえしている。
俺はドアノブを掴む指を離した。
仕事着の桜子は隙のない格好だ。
長めのタイトスカートにグレーのジャケットも決まっている。
その背中を追いかけて腕をとった。
生地が湿気で少し湿っていた。
「――桜子、ちょっと」
「え……? え、徹哉、なに」
吹きさらしの階段は湿った風が吹き、桜子の髪が乱れる。
ぐいと、掴んだ手を引き上げて指を舐めた。
「ぇえ、ぁっ?! ……んっ」
桜子が思わずといった甘い悲鳴をあげた。
それから昨日のように慌てて、左手で口を押さえた。
中指を舐める。
引きかけた手首がびくりと跳ねる。
もう一度、口に含んでからしばらく唾液で転がし、手の向きを変えて甲にキスをして、その上からまた舌を這わせる。
手の裏で、息が荒くなり始めた。
やけにきっちりしたブラウスの袖のボタンを手間をかけて外そうとすると今度は少し抵抗された。
軽く人差し指の爪のつけ根を唇で挟むと、喉が詰まったような呼吸をした。
爪は、くわしくないが磨かれている、のだろう。
きれいな形にととのえられていて、淡い珊瑚色だった。
「ちょ…ねえ徹哉、ここ外、階だ、ん…っ、」
「そうだよ」
「そう、って! うそ、ちょっ、やー、ぁ……っ、ん……うう…!」
明日は明日、今日は今日だ。
虐めたくなったのだから仕方がない。
桜子は観念したらしく、また左手で口を覆った。
指を舌で転がすだけで、息が荒く、瞳がとろんとするのが見て分かる。
ストッキングの膝がかく、と震えた。
立つのがつらいらしい。
「…んんん、ん、うふぁ、うう、んっ、ぃう……ん、ふ……!!」
身体を震わせて、声を押さえる以外の抵抗がもうない。
くそ可愛い。
夕風が吹く。
夏至前でようやく日が暮れる頃だったので、遅い時間と言うのに雲がうっすら紅かった。
ブラウスの袖をたくしあげるようにして腕の内側をなぞり、唇を落としながら濡れた指を俺の指で擦る。
これはどうやら好きらしい。
喉の奥から悲鳴が上がり、口を押さえている手がびくびくと震える。
しばらく堪能し、手を解放した。
……満足した。
ばか、ばかと涙目で呟く桜子姉の腕をとり、袖のシャツのボタンを留め直してやりながら、それ以上のことをしないように鉄の精神で耐え、もう一度手の甲にキスをした。
「てっちゃん、もう嫌い……」
「桜子、可愛かった」
「嫌い」がグッサリと致命傷だが、敢えて黙殺して誤魔化した。
というか俺の口は何を言っちゃってんの。
可愛いとか。
まあ本音だが。
桜子が、また、てっちゃんのばか。うそつき。と言い、目を逸らした。
山際に夕陽が落ちる。
日の照らす階段で俺と303の扉を交互に見て、彼女は乱れた短い髪を風に抑えていた。
俺の噛んだ跡が微かに残る指先が明日を予感させる。
「……また、明日ね」
桜子姉ちゃんの震える声は、心なしか甘かった。