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所有権は義務を伴うらしいのです。

本編
後日談

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三話 (4月16日)

冬も好きだけど、春の桜も好きだ。
いよいよ野球シーズンが始まるというのもあるし、なにより気持ちがうきうきとする。
桜の花びらを踏みしめたまま、見上げると広がる緑と桜色の鮮やかさがいい。
夕方から会社の新入社員歓迎会があるので、土曜なのに昼から髪を洗い直した。
最近美容室に行くのをサボっていたので、耳下で半端に伸びた髪があちこち揺れてまとまらない。
家を出るときには、お母さんがつけたラジオに混じって、開いた窓から野球少年の声が聴こえていた。
公営住宅のすぐ脇に、河原とグラウンドがあるのだ。
小さなバッグを肩にかけ、川沿いの桜並木を歩く。
これでも私は昔、野球少女だった。
才能がなかったとか、男子に球威で敵わなくなったとか、中学にソフトボール部がなかっただとか、遠ざかった理由はいろいろとある。
小学校も上の学年になると、プレイするより見守りながらスコアを書くことが多くなり、中学では男の子みたいな髪型もやめ、マネージャーになった。
少女の頃、雪が解けて河原のグラウンドを使えるようになる四月は、あんなにも眩しい季節だったのに。
春風が強く、私は小さく眼をこすった。
私は花粉症ではないが、この分だと近いうちに発症するのかもしれない。
歩きながら、なんとはなしに携帯電話を開くと、ちょうどのタイミングで着信が来た。

「――はい。天城です。ええ、今向かっています……スーパーありますよ。分かりました。ビールのメーカーは……はい!?」

急に肩をつつかれて、携帯を肩に挟んだままで振り返る。
無茶な体勢になったうえに、目の前に居たのがマスクと色つき眼鏡の男性だったので、一瞬電話を取り落としかけた。

「あ、いえ、なんでもないです。買い出し了解です。ではまた……、てっちゃん! びっくりさせないでよ」

変質者かと思ったじゃない。
軽く頭を小突くと、てっちゃんはなんともいえない顔をした。
眼鏡の奥の表情が目に見えるようで、妙にくすぐったくなる。
二つ下の幼馴染は、四月に入り、服装がちゃんとして髪も整い、大学生らしい格好になっている。
だから余計、マスク越しに話すたびに鼻がズビズビなるのが可哀そうだ。
こんな恰好でも表情が分かるのは、小さい頃から傍にいたゆえなのかもしれない。

「ごめんごめん。つらそうだね、花粉症。外に出て大丈夫なの?」
「講義があるし、しょうがねえよ…。実家から通いだし」
「土曜もあるんだ?」
「たまにな」

てっちゃんの大学は、自宅から徒歩十五分の駅まで行き、そこから電車に三十分揺られてさらに二十分を歩く。
つまり、通うには充分だが、けして近いとも言えない場所にある。
私も駅に行くので、並んで土手を町へ下りた。
踏切りを渡る風も暖かい。

「ね、てっちゃん。今年は無理かもしれないけど、アルバイトして、一人暮らししたらいいんじゃない? 大学の近くだったら、外を歩く時間が減るでしょ?」
「……そうしてもいいけど」
「そしたら遊びに行かせてね! あのあたり、いろいろ喫茶店とか映画館とかあるし、遅くなっちゃうと帰るの大変なんだあ」
「便利な基地かよ! やだよ!」
「誰のおかげで大学合格したんでしたっけー」

頬をつつこうとしたらよけられた。
生意気である。
足元の砂利をはね上げて、踏切りの板を小走りに追いかける。

「お礼は手のマッサージ券やっただろ!大体……恥ずかしいからやめろってんのに、てっちゃんとか、いつまでも」
「そっかごめんね、約束だったもんね。言いやすくって」

耳元で無情な電子音。

鞄を片方の肩に掛け直し、少し笑った。
顔をしかめて『恥ずかしいからやめろ』というてっちゃんは、時々知らない男の子のような顔をする。
大学の近くに引っ越して、下の階には居なくなったら、ますます私から離れていくのかもしれない。
(実際、電車が一緒になったときも私の方が二駅先に降りるので、そうなったら完全に顔を合わせる機会がなくなってしまう。)
新しい生活をして。
たくさん新しい女の子と出会って。
私の知らない人たちと、知らない関係をいろいろ紡いでいくのかもしれない。
弟離れをしてないと言えばそれまでだけれど、少し寂しかった。
線路沿いの道を並んで歩いて、「私の弟」と他愛もない話をするのは好きだった。
自分で一人暮らししたら、なんて提案をしておいて矛盾してる。

――本音をいえば、呼び方も。
多分この先、「てっちゃん」と呼び続けられるのは私の特権かなと気付き、止めるのが惜しくなったので、わざと変えていないのだ。

でも約束を破るお姉ちゃんはあまりよろしくない。
それもきっと、私だけが見せてあげられる姿だろうから。

「呼びやすいけど…いい加減諦めようかな。じゃあ、なんて呼べばいい? 君? さん? 呼び捨て?」
「ガキ扱いしてない奴にしてくれよ」

相変わらず困った顔をしている。
サングラス越しでもよく分かる。
私は定期券を漁りながら、首をかしげて考えた。
大人扱いということは、『さん付け』とか?
そして吹き出した。

「……やばいこれなしこれなし!! しずかちゃんみたいあはははは徹哉さんー!! あはは、あははは!」
「すっげえむかつくそれ」
「そうそう、私スーパーで職場の飲み会用に、ビール買うんだけど。徹哉さん、荷物持ってくださる?」
「……それ以外の呼び方ならやるよ」
「じゃあ『徹哉』、荷物持ち手伝ってちょうだいね」

ま、このあたりが順当だろう。
本当は、てっちゃんと呼びたいし、残念だけど仕方ない。

マスクの向こうで、余計ランク下がってねえかとてっちゃんがぶつくさ言いながらついてきた。

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