目次

所有権は義務を伴うらしいのです。

本編
後日談

作品ページへ戻る

ロスタイム (12月24日)

テレビも世間もクリスマス一色。
おまけに雪も降ってきた。
桜子に命令のような約束を一方的に押しつけてから、今夜で三週間。

……クリスマス・イブである。
母親たちと話し合い、今年のイブも、ホールケーキだけは皆で食べることになっている。
デートを早めに切り上げた俺たちは、母親たちに気づかれないよう、ひっそり自室でプレゼント交換というわけだ。

築三十五年、303の六畳和室。
肌寒い室内では壊れかけのファンヒーターがごんごんと頑張っている。
眼の前の桜子姉は、短い髪に癖づけさせて小洒落た服で、爪は薄桃色にラメが散っていて、どこもかしこも砂糖菓子みたいににきれいだ。
ベッドに腰かけ、俺がプレゼントした安物のペンダントを見つめて、ふふふ、と幸せそうに笑っている。
それはいい。
喜んでくれたなら素晴らしい、それはいいのだ。
俺はといえば、目の前に広がる、モスグリーンの平たい何かを黙って見つめている。

――取り交わしたのは、マフラーを編むという約束だったはずだ。
そうに違いない。
しかして、目の前にある物体はマフラーなのかという点が問題だ。

伸びきって駄目になった腹巻の途中を切って広げたら、こんな感じになるであろう。
そのような代物を差し出して、幼馴染みで社会人で彼女でもある桜子は、マフラーだと言い張っているわけだ。
まあ、頑張った形跡は見られなくも、ない、………が。
問題は、この物体が長さにして約30cm程度であることだった。

「…………」
「て。てっちゃん? ええと、……駄目かな」

恐る恐る訊ねてくる睫毛の揺らぎから不安がちらちら見え隠れしていて上目遣いが可愛い、じゃなくて精神がぐらつく。
確かにあの後、桜子は週末だらだらと俺の部屋で過ごすのをやめた。
夜遅くまで頑張っているらしい気配もした。
よく分からなくなって何回もほどいちゃった、と朝の電車で瞼を擦りあくびをしていた。
あの不器用な姉ちゃんが、弟分の不埒な命令を聞くために、精一杯努力してくれていたのは間違いない。
それは素直に嬉しい。
まぁそうはいっても命令は命令なわけで。
ここで甘さをみせてしまえば今後の主従関係(?)に差し障る。

「手、出してみ」
「こう?」
「あ、着けてくれてんだ」

誕生日にあげた安物の時計を、律儀に着けてくれているのが嬉しかった。

「……ん」

桜子は無防備に両手を差し出している。
俺もマフラー……のようなものをテーブルの端に寄せ置き、彼女の手を取った。
腕時計をした方の手首を緩く握り、しっとりとしたその感触に酔う。
脈をとるように時計の上下に指を添え、短い髪のかかる瞼を覗きこむ。

母親たちは404号室の天城家で歓談中であり、多少の無茶は許容範囲だ。

そのせいか桜子はきゅ、と目を瞑り、肩を薄く震わせてこちらの命令を待っている。
そういう態度が余計に煽ると分かっていないのだから、桜子は実に甘い。
……普段はどうやっても敵わない桜子姉ちゃんがこうして手を握るだけで従順になるのだから、世の中分からないものだ。

「『桜子姉ちゃん』、命令な?」
「………は、い」
「もう一度言ってみ。これは、なに」
「え? だから……マフラ」
「これは何かな」
「マフラー………」
「マフラーは首に巻くものだと思うんだが、これじゃあ長さが足りないよな?」
「の、伸ばせば巻けるよ。ボタンつけて前で留めれば、」

そんなマフラーは存在しねえよ。

ツッコミたい衝動を懸命に押し隠し、手首を握る力をわずかに強める。
幼馴染がぴく、と肩を引き攣らせ目を伏せた。
自由な方の手で背けようとする顎を抑え、こちらを向かせる。

「こっち向いて」
「っ、んや……ふっ、……!」

数度、角度を変えて唇を塞ぐ。
……相変わらず柔らかい。おいしい。
何度食べても飽きない。
文字通り噛みつきながら唇の甘さをたっぷりと満足するまで堪能し、唾液を舐めとって顔を僅かだけ離す。
とろりと潤んだ黒眼を確認すると、濡れた唇同士の僅かな隙間に、言葉をつなぐ。

「完成してないよな、マフラー」
「も、もう少し長く出来てたときもあったよ……け、けど変になっちゃった、から」

意外に粘るな。と目を眇めて作戦をほんの少しだけ改める。

「うん。頑張ってくれて嬉しい。これはホントな」
「あ。う、うん」
「でも、完成はしてない」

桜子はうっと言葉に詰まって、少し泣きそうな顔をした。
……そういう顔はずるいんじゃないか。
この期に及んで卑怯な手を、許し難い。手だけに。
敢えて黙殺して、顔を見ないように今度は耳たぶに標的を変える。
整えられた黒髪のショートカットを掻きわけて唇を寄せると、しなやかな腕がまたぴくっと震えた。
その指先を扱くように握りこみ、やや肉の薄い耳たぶを噛むと甘い鳴き声を喉に押しこめ、桜子は身体を固くした。

「完成できなかったら、」
「……っ、ん、ぅ」
「桜子姉ちゃんは、……聞いてんのかよ」
「っ、……んっ、あ、聞……ぃ、てる、……あっ」

腕時計のベルトに沿って手首をつうっと一周なぞると、背がしなった。
敏感にもほどがある。

「ほら。……完成できなかったら、何をしなくちゃいけないんだっけ? 言ってみ」
「うー……ば、ばかぁ! てっちゃんの……えっちな本、目の前で読むんでしょ……!」

軽く叩かれるのがもう愛しすぎてどうしようもないのでそのまま抱きしめ、食いこむ柔らかさに溺れた。
肩口でもがもがと抗議を続けているが気にしない。

「てっちゃんのばかっ。変態、スケベばかへんたい」
「はいはい。桜子は約束破らないもんなー。かっこいいなぁ」
「うう……、なんでもぅ、こうなっちゃうのかなぁ……」

蠱惑的な温もりを意志の力で引き剥がし、桜子の見守る中、ベッドの下に腕を突っ込む。
埃をかぶらないようにビニールに包まれたまま置いてある。
ひんやり冷たい暗がりの中に、この日のために買った至高の一冊。

「…………本当に読まなきゃダメ?」
「だめ」

これでもマイルドなタイプの薄い雑誌を選んだのだが、桜子にその違いはわかるまい。
俺の差し出す表紙から顔を背けて、耳まで赤くしている。

「ほら。約束」
「うー……わかりました」

なぜ敬語。
桜子は、受け取った雑誌を覆ったビニールを、ちらっと見た。
しばらく目を閉じてから、覚悟を決めたのか、そろそろと視線を落とす。
裏返し、もう一度表紙を上にして、光の反射の筋を一本一本確かめるように矯めつ眇めつし、……だんだんと、座った目つきになった。
そうして、膝に置くと、はぁあ、と深くため息をついた。
ベッドが軋む。
おもむろに立ち上がった桜子は、エロ本を持ったまま居間に続く引き戸に手をかけた。

「えっ」

止める間もなく、がらりと開ける。
幸い、母親たちはいなかった。あぶねえ。

「……ここで読むと、てっちゃんに襲われそうだからコタツで読みます」
「……」

返す言葉もありません。
おっしゃる通り下心はありまくりだったので、自室の電灯は気持ち薄暗くしてあった。
煌々と明るい居間を背にした桜子は、ジト目になっている。
逆光で表情が少し冷めて見える。
……気のせいだよな?

「いや、でも、母親帰ってきたらどうすんだよ」
「てっちゃんの命令で読まされてるって言うよ。嘘ついたりしないよ。大丈夫」

大丈夫じゃない。
目が怖い。

「てっちゃんの部屋で読んでたっておんなじでしょ。『ケーキ食べましょー』って急に入ってこられたときにさ、二人で、こんな。ほら。ねえ、こんな表紙の本をいっしょに読んでるの見られたらなんて言えばいいの?」

改めて突きつけられると、確かに、ちょっと、言い訳のきかない表紙ではある。
もう少し、言い訳のきくタイプの表紙の本を探そうと思えば探せた、でも自分の嗜好と折り合いをつけられる地点がもうちょっと手前だったので心に正直になってしまったのだ。
正論過ぎて反論できない!

「ねえ、てっちゃん」

桜子の瞳が、猫のように細められた。
明るい光が細くなり、引き戸が当たる乾いた音がする。
薄暗さを取り戻した六畳間で、影が濃くなりベッドが軋む。

「……命令、少しだけ修正する気ない?」

桜子はベッドに膝をつき、俺の腕にするりと滑りこんできた。反射的に抱きしめてしまう。
くっ。卑怯な手を。手だけに!!

「三週間じゃ足りなかったけど。このまま頑張れば、バレンタイン頃にはちゃんとマフラーっぽい長さになると思うの。だからね、」
「……約束はやくそ」
「頑張るから、バレンタインまで期限延長してほしい。えっちな本は、その……ちゃんと読んできて、……感想、言うから。目の前で読むのは、なしにしてよ」

ぎゅう、と抱きしめられて、鉄の意志がドロドロに溶けて跡形もなく消えていく。
布一枚ほどのしぶとい未練で何とか反論しようとするが、

「いやでも」
「だから! あんなの、どんな顔して読めばいいのかわかんないし、恥ずかしいの!」

ああもう、まったく、これだから。
俺はどうしたって、天城桜子には敵わないのだ。

番外編1(前編)へ
作品ページへ