定時の鐘が鳴る。
今の天気は分からない。
工場の窓は高いところに明かり取りとしてあるだけで、掃除もされずに薄汚れているからだ。
小さな事務所の一角で、ひと段落と肩の力を抜きまくる。
定時と言っても、交代制の製造現場の人たちはまだ帰らない。
私も少しだけ仕事が残っていた。
意識しないとすぐぼうっとして手が止まる。
ミスも多いし今日の私はもうだめだ。
社会人失格だ。
昨年お局さんが介護で退社したので、やるべき仕事も責任も増えたのに。
語尾を伸ばし過ぎだけど焦げ茶の巻き髪が可愛い、新人の後輩だってできたのに。
うだうだしているモニタの脇から、向かいの後輩ちゃんが顔を出す。
「天城せんぱーい。お手伝いすることありますかあ」
「え、あ。いや、ないかな。大丈夫だよ。帰っていいよ」
「はーい。じゃあ失礼しまーす」
残業がなくなったことにより笑顔120%で、荷物をまとめてぴょこんと頭を下げて去っていく。
実に女の子らしいシルエットを見ながら、またもやもやとして頬杖をついた。
確かてっちゃんと同い年のはずだ。
てっちゃん、女の子に慣れていないのかなぁ。
「可愛い」というのは、ああいう子のことをいうもので、私なんかに、使っては、だめだと思う。
夕暮れの階段で、聞いた言葉を思い返すと胸が疼いて落ち着かない。
気がつくと、てっちゃんのことばかりを思っている。
ところ構わずぼうっとしてしまう。
一昨日、あんなことになって、それから昨日も続けて、また。
大学生の弟みたいな男の子に、ええと、あの。
あんなことをされて。
袖口に視線を落して、ボタンを見る。
背中からじわりと痺れが広がって、鼓動が僅かに早まっていく。
冗談に紛らわそうと思えばできたかもしれないのに、否定もせずにずるずると、二日も経っている。
あんなことを、今晩も、それから、またきっと、されて。
私はどうなってしまうんだろうか。
額を覆って、溜息をつく。
――本当に。
お姉さん、失格だ。
溜まった仕事を片付けて事務所を出る頃にはすっかり暗くなっていた。
一般職の私がこんな時間まで残っているのは珍しいので、現場のおじさん達にご飯でもと誘われたけれど、家に夕飯があると断った。
近場の駅まで工場から七分。
朝は晴れていたのに、雲が出ていて月も見えない。
幸い雨は降っていない。
それでも水のにおいがし、空はどんより黒かった。
逃しかけて慌てて飛び乗った電車は乗客もまばらで、冷房の涼しさが足首にまとわりついた。
よぎる夜景の灯りはちらちらと、揺れる電車に流れて踏切りの音も去っていく。
かなり遅くなってしまった。
てっちゃんは、連絡が来ないと心配しているだろうか。
電車を降りても雨が降っていなかったので、私は物思いにふけるにまかせて駅舎を出た。
油断していたと思う。
空はいっそう暗くなり、風は不自然に強くなっていた。
五分ほど夜道を歩き、橋から土手へ曲がりかけたところで、街灯の下、地面に濃い染みが点々と増えてきた。
気のせいかと思い、立ちどまって足元を見る。
手の甲に、ぴちょ、と水が落ちた。
それが、雨の滴だと気付く前に。
――突然、ものすごい光とともに、バラバラバラッと音がして目の前が濁った。
空のバケツがざばんとひっくり返された。
そんな勢いの雨だった。
どこかで、雷が鳴っている。
う、う、うそお。
うろたえて、行くも戻るも走って五分以上はかかる中間地点だと気付き、その合間にも肩も髪も濡れ始めた。
ちゃんと、空と風から判断して、駅前のコンビニで傘を買っておくべきだった。
今更そんなことを思っても遅い。
慌てて鞄を頭上にかざし、土手脇の草に隠れた階段を駆け下りて、雨水の跳ねる脇道を走る。
肩まで雨に降られながら、橋桁の下に逃げ込んだ。
雑草の水滴がはねてストッキングも濡れていた。
ばらばらばら、ばらばんばら。
頭上の橋を大粒の雨が打ち付ける音が真下の空間にも響いている。
むっとするような湿気が漂い、足元の乾いた砂にたどりついたところで足をとめた。
振り返れば空は全天が灰色で、少し先も見えないくらいの豪雨だった。
橋の脇を照らす街灯の灯りが、上からぼんやり落ちてくる。
仄かな暗さの中、深く息をつき、雨の当たらない影の方まで歩きだす。
橋の下は雨宿りに良い場所だった。
さすがに小さい頃のように気にせず座ったりは出来ないけれど、今でもドラム缶や積み重なった雑誌、四本重ねの古タイヤ、諸々が無造作に置いてある。
軽く埃を払ってハンカチを敷き、タイヤの上に腰掛ける。
ホイールのでこぼこが座り辛いけれど、立っているよりも楽だった。
雨はやみそうにない。
気持ちいいくらいの豪雨だ。
不意にまた、空が白く明滅した。
雷だ。
頬が緩む。
雷は潔くて好きだ。
でも、小学校の頃、一緒にいた近所の男の子は雷が苦手だった。
あの頃は、怖がっている年下の男の子をなんとか励まそうと、雷の時はいつも傍にいて空が光ったあとに「いち、にい、さん」と数えてあげていた。
そのうち私が何を言わなくても、自分で声に出すようになり、泣き出すこともなくなって。
大きくなってからは流石に声に出してはいないけれど、無意識なのか指先でカウントしているのを知っている。
今も部屋の窓際で、数を数えているんだろうか。
光るはしから心の中で「いち、にい」と数え始めている。
おかしい。
私まで、すっかりくせになっている。
温かな気持ちを持て余して、濡れた手をハンカチで拭こうとしたら、なかった。
腰の下に敷いていたのだったと思い出す。
仕方なく、頬に擦りつけるようにして拭いた。
顔も濡れていたのであまり変わらない。
むしろ。
手の潤みに、自然、てっちゃんにされたことを思い出した。
「ぁ……」
はく息がぬるい。
……そういえば、てっちゃんに傘を持ってきてもらうという手があったなと思う。
ここから歩いて五分だし、傘を届けるくらいならお互い何度もやったことがある。
この様子だといつまで降り続くのか分かったものではないし、ちょっと気まずいけれど、お願いしてしまおうか。
それに今日は、「マッサージ」の約束もしていた。
どのみち、会って話さなければいけないのだ。
電話をした。
受話器向こうの弟分に、例の橋の下にいるんだと伝えると、てっちゃんは、すぐ行く、と電話を切った。
ハンカチを敷いたタイヤの上に座って待っていると、雷が二回程光った。
私は二度ほど、数を数えた。
ひっきりなしに水はざあざと落ちて川岸の土にしみていく。
水たまりの音がした。
「桜子」
顔をあげる。
てっちゃんが、傘を持ってそこにいた。
ぱしゃんぱしゃんと、水を踏む音が近づいてくる。
傘をさしていても濡れてしまったようだった。
白いTシャツの腕と肩の部分が色濃くなり張り付いている。
立ちあがるより、てっちゃんが私の前にやってくる方が早かった。
一瞬、視線が合わさって、それ以上に絡むのが気まずくて逸らしあった。
やけに心臓が頑張っている。そんなに血液を送らなくてもいいのに。
「……うい、傘」
差し出された傘を受け取ると、雨で濡れた指が触れあった。
そのまま、お互い、手が止まる。
「あ……りがと」
「いや、ちょっと、心配した。その。もう帰ってるのに、連絡、ないだけかって」
いったん言葉を切ってから、耳元の短かい茶髪をかいて。
「……桜子は、もう俺の顔見たくないのかと思った」
言いにくそうに、とぎれとぎれに呟かれて心が疼いた。
触れあった指が絡む。
てっちゃんがゆっくりと、指と指を絡ませるようにして、私の手を、握った。
緊張しすぎて動けない。
「あ……、」
握られた指から取っ手が離れて、ビニール傘が倒れた。
指の力が強まる。
顔が熱くて、どもってしまう。
……私が、可愛いと言われたのが頭から離れなかったように。
この男の子も。別れ際「嫌い」と言ったのを一日中気にしていたのだろうか。
「……え。と」
そんなことない、という、一言が、どうしても言えない。
長い沈黙に、居た堪れなくなった。
「あの」
こくりと、唾を飲んで。
おずおずと握られていない左手を、差し出した。
見上げられないまま、続き、とか。マッサージ、というようなことを口の中で呟いた。
また、空が光った。
雨音に混じれて、ごろごろと轟く。
息をつく間もなく、手がぐいと濡れた指に握られて、引きよせられる。
力が強すぎて、痛い。
あ、と声をあげる間もなく、バランス悪く後ろのコンクリートに寄りかかってしまう。
体勢を直す前にてっちゃんが、掴んだ手を持ち直して、口元に持っていった。
てっちゃんの息が荒い。
肩が、予感で勝手に怯える。
「あ、あ……、う」
だめだ。
きっと何をされても声が出る。
何かされる前に口元を覆うべきなのに、右手を握られたままだ。
せめてと唇を噛んで、その時を待った。
橋桁を水滴の打つ音がしていた。
雨どいからは時折、こぽりと水があふれる。
手の甲に、遠慮がちにキスをされてから、今度は、指の付け根から先まで順繰りに。
ゆっくりと噛むように、吸われて、痕を付けられる。
印みたいだ、と思ってぞくぞくと指が熱を持った。
そして、また、指が舌で転がされるようにして食べられた。
てっちゃんが違う指を口に含むたび、ちゅくりと唾液の音がする。
「……や、ああっ、あ…っ!」
広げられた指と指の間に、舌が這った。
左手は、右手とまた違う感覚だった。
――両手で感覚が違うだなんて、知らなかった。
私のからだは左手の方が敏感なんだということを生まれて初めて思い知った。
「ふぅ………んっ……、ふ、ぁ、ん、」
死に物狂いで息を殺して、気持ちよさを受け止める。
意志とは関係なく、身体が震えだす。
私の、指のいろんなところ、てっちゃんに覚えられてしまっている。
ちょっとずつ勉強されて知られてしまってる。
多分どの男の子よりも私のこと全部知ってるはずなのに、まだ覚えたいことがあるって、舌の先が言っている。
こうやって、されながら、私自身知らなかったところも含めて全部、あの、雷が怖くて泣いていた、ちいちゃかった石川徹哉に調べられているんだ。
「………んっ」
手首を噛まれて、びく、と恥ずかしいくらい、肩が跳ねた。
また、袖口のボタンも外されて、ブラウスの袖が不器用にたくしあげられた。
落ちる袖口を押さえるためにか握られていた右手が離れた。
左手の先で、水の音がする。
重なる刺激に耐えられず、解放された右の手のひらで口を覆う。
肘の方まで抱えられるようにして舐められる。
そんな風に、大事なものみたいに肘の裏にキスをされると良く分からなくなる。
背中の固い橋桁のコンクリートが、足首にちくちくする雑草が、湿気のこもったぬるい風が。
熱を持ってじんじんと染みてくる。
「ぅあ、ふ……う…ぁ、はぁ」
「やっぱり。『桜子姉ちゃん』これ好きだよな?」
「………ふっ、っ! あ、や……っ」
「雨うるせえし、声隠さなくてもいいと思うけど」
指先を噛みながら言われた声は少し切実に聞こえたけれど、そんなことを言われても、一番こんな悲鳴を聞かれたくないのは目の前の男の子なのだ。
てっちゃんが手を弄くる様は、昨日一昨日に比べてとても控えめだったけれど、それが余計に焦らされるようで気持ちよかった。
涙が出てくるくらい息が苦しくて、口元を押さえる力が持たない。
刺激に身をよじるのも限界だ。
「桜子」
不意に、てっちゃんの手が間近に来て、右手の甲にも、触られた。
無理やり手を退けられるのかと思い、力を込めて抵抗しようと、した。
そうしたら、顔が近づいた。
それに胸を高鳴らせる暇もなく、今度は、
舌で、右手の甲を舐められた。
――うそ。うそ。
必死で心の中で繰り返し、どうしていいか分からず、眼を閉じる。
何度も、そうして、手のひら越しにキスされるように、口を覆った手の上に、てっちゃんが唇で舌で触れる。
抵抗したいのに左腕は濡れた指先で繋ぐようにして固定し、幾ら身をよじっても離してくれない。
「っ、ん、うー!!? う、う? ん……!」
「手、どけたらやめてやるけど」
指の隙間をこじ開けるように、生温かいものが指の谷間を往復する。
どけても、このままでも、つらい。
恥ずかしい。
混乱した頭で、首を振った。
てっちゃんが、こんなに意地悪だとは知らなかった。
ひどい。
雷怖いくせに。
セロリとごぼうが嫌いなくせに。
理不尽なやつあたりを心の中でいっぱいして、眼を逸らす。
「桜子」
ぐいと、もう一度、右腕が握られて口から引き離されて、耳元で声がする。
「声聞きたい」
答えを待つまでもなく、掴まれた右手首が押さえられて食べられた。
「や、だめいや、やっ……ぁ!!」
指と指の根を唾液でなぞられてから、指を含まれて、手のひらをなぜられて、喉から隠せない悲鳴が漏れた。
そうなったあとはもう止まらなかった。
「や、ふあっ、う、だ、だめ。……あ! あっ、ん! あ、あぁあっ」
もがくのに、離してくれなくて。
それで余計にからだが火照る。
どちらの腕もさんざん甘く噛まれて、肘まで吸われて唾液塗れにされて、指を扱かれて。
声を出せば出すほど、てっちゃんは、多分、さっきまでこのうえなく遠慮していたのだと分かった。
雷が割と近くで鳴り、びりびりと空気が揺れている。
雨音よりも自分の心臓の音の方がうるさい。
橋の上を車が通るたび、ガタガタと頭上が揺れていた。
耳元で、声が、する。
「や、ぁ」
「……な。この手、好きにしていいんだよな、いくらでも」
ああ、この掠れたのが、男の人が……欲情、している声なんだ。と、思った。
また、手を取られて、キスされている。
勝手に声が漏れて、熱の籠った息が喉からあふれる。
「ふぁ、あ……は」
「これ俺のなんだろ」
軽く、噛まれる。
声にならない声が震える。
――俺の。
朦朧とした思考の奥で、てっちゃんの言葉を、繰り返す。
ああ。そっか。
好きにしていいって、確かに私が言った。
抵抗だってしなかった。
心底、本気で拒絶すれば、てっちゃんだって止めたと思う。
これだけ好き放題にされて、私は一度もやめてほしいなんて思っていない。
また、空が光って、一瞬明るくなった。
まとわりつく湿り気は雨だろうか、汗だろうか。
また、噛まれる。
私の意志とは関係なしにそこから甘い痺れは拡がって、からだ全体を震わせる。
――きっと、もう、この両手は私のものではなくなっているんだ。
たった三日間で、私の右手も左手も、気づかないうちに、この人のものになってしまったのだ。