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『少年と少女』

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少女は電車の外に見える海を見ながら、膝を抱えるようにしてつま先を椅子の真下に寄せた。
ガタン…ガタタン、と規則正しい揺れ音をさせながら窓の外をすべる浜辺と海は、カラフルなパラソルや波の飛沫がきらきら光って別世界のようにガラスの向こうを通り過ぎていった。
「人少ないね」
少年が言うと、少女は肩越しに窓の外を見ながら小さく頷いた。
麦藁帽子を被った7歳くらいの子供が膝を立てて窓に張りついているのが端の方に見えて、少年は幽かに微笑った。
少女は少年の方へ視線を移して、怪訝そうに眉を寄せた。
少年がほら、と目で子供を示すと、少女はそれを見、瞬きしてからまた少年を見上げた。
「な、なに?」
「海どうだった」
「え?」
「好きだったらごめんね。あたしのせいですぐ帰ってきちゃって」
珍しく謝ってきた彼女に少年は何か暖かい気持ちを感じて膝の上で両手を組み合わせた。
「好きだったけど、いいんだ」
海はとても懐かしいのに、まるで初めて見たようで、それはもしかして彼女が側にいたからかもしれなくて。
打ち寄せる白と透明が、足もとのごつごつした石と砂を洗っていくのが信じられないほど新鮮で冷たかった。
水も大地も、こんなに心地よくいとおしいものだったのだと不意におかしなことを考えた。
海は、好きだ。
それでも彼女が具合が悪ければそんなことは些細なことで、実際彼女ほどいとおしいものがあるのかというとないのだから、言うまでもない問題で。
青い顔をしていたのに、彼女は一言も帰ろうと言わなかった。
黙って砂浜に座って、少年が海の前に立っているのを見つめていただけだった。
偉そうで小生意気で、自分勝手なのに、たまに彼女はそうやってずっと自分を押し殺している。
電車の音は、静かで規則正しくてそうこうしているうちに広がる海岸は茂る大きな林の幕の向こうに消えていった。
「あんたは、ばかよ」
少女が唐突に言ったので少年は窓から目を離した。
少女は膝を抱えたような体勢をきゅっと固めて、唇を噛んだ。
「見たいなら、見ておけばいいんだわ」
林が途切れて、海がまた遠いガラスの向こうにカーテンを引いたようにさあっと広がった。
電車の音が、心地良い。
「あたしの気使うことなんてないのよ」
「うーん……ほら、海はまたそのうち見にくればいいしさ。」
尽くす男のように見えるのだろうか。
そんなつもりはちっともなくて、自分はただ少女が幸せであれば幸せで。
そして少女は自分をけしていいようには使わない。
あれだけ態度は大きいのに、ほとんど少年には依存してくれない。
それが少し悔しいのかもしれなかった。
「……あんたはばかよ」
少女がもう一度、絞り出すように言ったので少年はなんだか傷ついて口を閉じた。
ばかでも、いいんだ。
依存してくれなくたって本当はいい。
それが彼女で自分はそんな彼女を好きで、彼女もそんな自分の側にいるのだから。
でも彼女がせめて自分のせいで悲しい思いだけはしないようにと思う。
海が今度は空に隠された。
電車が高架線を通っているんだろう。
不安そうに透き通って晴れゆく空は、夏空でかもめが優雅にすべっていく。
――紙芝居みたいだ。
「紙芝居みたい」
顔をふわりと柔らかくして、肩の下で少女が呟いた。
「あのね、あんたはばかだけど、あんたはあたしの海なの」
少女が自分の思っていたことと同じことを言ったのに驚いたのか、少女の言葉に戸惑ったのか、それすら分からないまま少年はいつものように曖昧に頷いて当たり障りない答えを口に乗せた。
「そうなんだ」
「あんたがいたから、あたしはいるの。」
そして、彼女は――きっと、これが初めて僕に向けられた――笑顔と、きっと言えるだろうものを風のように一瞬だけ顔にのせて、それから顔を逸らした。
「ありがとう」
少年の言葉に彼女は頷いて、彼の腕時計に触れた。
「本当はあんたは海じゃないわ」
「まぁ、生きてるもんねぇ」
「……馬鹿ね、そういう意味じゃないの。」
少女は言って、橋の上を走る電車の中で、軽く少年の手を握った。
「これから先、あんたがいなくなってもあたしは生きていけるもの」
「……じゃあ海じゃないね」
「そうよ。でも、いる方がずっと幸せなの。比べ物にならないくらい」
「じゃあ何だろうね」
自分の手の甲の上に置かれた彼女の頼りない指先から伝わってくるぬくもりに目を閉じて、少年は言った。
「自分で考えれば?」
よく考えれば理不尽な言葉を紡いで、少女は電車のリズムに聴き入った。
子供が開けた電車の窓から夏の風が吹きこんで、午後の時間が海のように打ち寄せていた。

少年と少女