酷く冷たい早朝の風を押し開きながら、錆びた電車が線路の遠くで音を立てる。
無人の改札を通り、ホームの白線を踏んで立ったのは、コートを着た少年だった。
手を引かれている少女は、後ろで俯き黒髪に顔を隠していた。
風はやや強く、人気のない薄暗い町を川向こうまで吹き抜けていった。
頬は冷気で今にも切れてしまいそうだった。
薄くぼやけた黄緑色を纏って、鉄の塊がゆっくりと近づいてくる。
少女はコートの襟元を細い指で押さえ、すぐ右前でもう片方の手を握り締めている少年を見上げた。
少年の向こうには寂寥感と同音程であるだろう音の流れを、ただ立て続けるホームの古い屋根がある。
その更に上には、涼しげに紺色を纏った冬の空が広がっていた。
少年の掌が、むきだしのまま彼女の指を包んでほんのりとあたたかかった。
「寒いね」
そういって吐いた息の白さが目の前を靄になって通り過ぎる。
少年の呟きを少女は黙って聞いた。
目尻に当たる風がとても冷たい。
会話がそれ以上続かずに、少女は口をつぐんだまま少年の手を握り返した。
静寂があれば、いいだろうに、駅周りのそこここからはひっきりなしに風になぶられ揺らされた金属やごみの擦れ合う音が寂しげに鳴り続け、沈黙には鳥の鳴き声が思い出したように入り込んでいた。
線路は一世紀も前から常にそうであったかのように、暗い石の表面にただ無言で横たわっていた。
少年がふと呟いた言葉は寂寥の雑音の表面でざわめき、少女の耳にやっと届いた。
「そういえばずっと昔も、一度こっちにきたことがあったけど。」
少女が視線を少年へと傾けた。
だけれど彼は、彼女の視線にいつものように答えを返さなかった。
少年の声の響き方もそのように、風にかき消されてあまりにも静かだった。
夜明け前の透明な青を屋根で隠すかのように一歩だけ下がり、彼女の横に並ぶ。
足元の白線より後ろに足先を揃えると、コンクリートの硬さがやけに身に染みた。
そして、不自然に崩れ落ちそうな冷たい空の重さは、波立っていた彼の心をひどく静謐にした。
「あのときの友達にも僕のことを話した。」
少女の髪がほつれて中空の雲に影を作る。
少年は、懐かしげな表情で顔を上に向けた。
遠い大陸は、どちらの方角だろうか。
地平線のどこかひとつが強いほの白さを湛え始めたら、それできっと分かるだろうけれど。
「人一倍心配性なおじさんだったよ。君とは言うことも正反対でね、」
「うるさいっ」
少年の言葉を遮って、少女が苛立った泣き声をあげた。
「そんなの、あたし知らない―」
「…うん」
少年は、静かに微笑んで少女の手を少し強く握りなおした。
「君が初めてだったよ。ここにいてもいいと言われたのは、初めてだったよ」
「だから」
少女は掠れた声で言うと、少年を見ずに唇をかんだ。
「…だから、なに」
マフラーのフリンジがふわふわと流れて、寒さに赤く染まった頬が涙の痕で濡れているのに、少年は数度瞬きをして瞳を透きとおらせた。
ホームを吹き抜ける風が項に冷たかった。
電車が駅のすぐ傍までやってきていた。
少年は瞳を閉じて、首を振った。
「君の言葉で、それだけは聞けないんだ」
少女が眉を苦しげに寄せて、彼を睨んだ。
「だからあんたは、ばかなのよ」
「…だって、ここは君のいる世界だよ?」
少年が笑った。
何度も何度も自分に問い直す必要など、全くなかった。
彼女のいる学校、毎日渡る橋、夕暮れの川、閉まった本屋、空からの水の轟く来襲。
犬の声と、公園と、寂しげに電車が土手に反響させる遠い木霊と。
冷たい雨と、通り過ぎる車から流れ逝くラジオに、それから、それから―
巨大な音が耳を支配し、心もいずれ支配するような金属音を残し、電車はホームに滑り込んだ。
ゆっくりとゆっくりと速度を落とし、流れる窓は動きを止め、鉄の固まりは息を吐いた。
少女は顔をあげた。
「だから海に日の出を見に行こう。」
少年はそう言うと、少女の手を離した。
そうして振り返った。
「きっと、空が高いよ」
少女が、静かに口を開けて、そして何も言わずに閉じた。
コートの裾が流れた。
駅名の書かれた柱に掌を当てると、心が凍りそうに冷たかった。
無人の駅が、こんなにも厭わしい。
少年は少女の黒い髪に手を伸ばす。
少女が何も言わないのは、とても珍しいことだった。
黙って泣く性格ではないことも、声を出さずに涙を流せる少女でないことも、知っていたけれども、今日ばかりは知っていることをすべて信じてはいけないのが分かっていた。
少年はもう一度彼女の手を取って、軽く引いた。
そして一言、ごめん、と言って、少女の髪に顔を埋めた。