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『少年と少女』

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「この世が美しすぎると、困ると思うのよあたしは。だってずっと起きてなきゃいけないでしょ?」
マフラーのずれを少し乱暴に直しながら俯いて、彼女は黒い学生鞄で剥き出しの細い膝を軽く叩いた。
ぼん、とこもった音がして、反動で鞄は一瞬中に浮いた。
ひざ丈よりわずかに短いスカートと紺色のハイソックスが冷たい初冬の空気から彼女を守っているように見えて、それは清潔な印象に不思議なあたたかみを添えていた。
少女の無表情な横顔が冷たさにときどき少しだけ歪むのを、黙って見つめながら少年は歩いた。
裸になるのを待ち受けている秋の木々は、色付いた葉を乾いた音でこすり合わせてどこか究極的な切なさの体現のようでもあり、落ちゆく葉のひらめくさまも、喪失というものを思い出させる。
目を上げればそこに飛び込んでくるのは現実のまざまざとした予感であろうと彼は知っていたから、彼は少女から目を離せないのかもしれなかった。
もっとも、彼女に意識の全てが惹き付けられてしまうことは、彼にとってちっとも珍しいことではなかったけれど。
「美しいものは、あたし、きっと見てしまうわ。多分見てたら涙が出るけど、でも絶対見るんだと思うのよ」
そう言いながら風に絡む黒髪を細い指先で無造作に顔からのける彼女の、その黒い瞳はただ前方に向かう道の果て――沈みゆく夕焼けの淡い雲だったろうか――を静かに見つめていた。
「だから……」
「……だから?」
「だから、世界が綺麗じゃなくて良かったわ」
顔が切れてしまうんじゃないかと思うほどの冷え切った風がざあっと強く吹き荒んで少年と少女は思わず目を瞑ってその場に立ち竦んだ。
土埃とともに風がおさまって、散っていく落ち葉が空からゆっくりと足元へ落ちゆく頃になって、少年は頭を抑えていた手を離して顔をそっとあげた。
まだ少しだけ吹いている風に煽られて、紅の枯葉を纏った冬の木々ががさがさと風を呼んでいた。
冬を前にして薄い空色の中を淡く輝く太陽は白く、側の建物の汚れた窓ガラスを、ほのかに照らしだしていた。
落ち葉に覆われた地面は沈み込んで濃い土の色が染みて、冷たい空気に絨毯の葉が微かに泣いていた。
通学路のこの道はいつまでも前に続き、見えなくなったところで川沿いの道にと折れていく。
少女の横顔はいつものように無機質で、まっすぐな黒髪はもつれてマフラーの先とともに後ろに舞い上がり、それは彼にとってかけがえのないひとつの大きな存在だった。
「……ねえ」
「何」
少女が乱れた髪を手櫛で後ろにかきやりながらぽつりと返した。
「僕は――こんなに綺麗な世界は、ないと思うよ」
「ばかね」
少女は少年をちらりと睨んで、落ち葉を踏みしめ歩き出した。
少年は少女に並ぶようにして追いつくとコートのポケットに突っ込んでいた手を抜いて、少女の指先に触れた。
ひやりとした感覚が爪の先から伝わって、少年は切なげに目を閉じた。
「……本当に、綺麗だと思うよ」
少女はその言葉を無視して頭上から降る黄色の葉に瞳を向けた。
「世界はとても、にごってるわ。それが嫌って言うわけじゃないけど。目を閉じても、あたしは平気よ。」
少女の指先を弱弱しく握ると、彼女は抵抗もせずに彼を見返して、立ち止まった。
「綺麗なものばかりの世界なんてないわ」
「……うん、知ってる」
でも、と少年は少女の視線を静かに受け止めて、少女の手を握る力をほんの少しだけ強めた。
「でも、どんなものも今の僕には綺麗なんだよ。」
「……ばかね」
少女は少年の指先を引きはがして、少年の首にゆっくりと、何か苦しげに両腕を回した。
爪先立った少女の小柄な身体に吹きつける冬の風が、泣き出しそうな音をあげて道路を這いあがっていくのが耳の奥底に響いた。
肩にあずけた彼女の頭は、頼りなくてひどく冷たかった。
「綺麗だからって、何があるわけでもないのよ。」
「知ってるよ…」
少年の腕が少女の長いコートをきた背中にゆっくりとまわされて、少年の白い呼吸が彼女の耳元でふわりと浮き上がって見えた。
「でも、力が出てくるんだ」
「そんなの何の役にも立たないでしょ」
「ううん」
少女を抱き締めた身体がどんな屋内にいるときよりもあたたかくてそれは至上のものだと彼は心の中で我知らず悟っていくのを、冬を迎える道路の上で染み透るように感じていた。
「君のためにとても、必要なことだよ」
枯葉がかさかさと巻き上がって、秋は何かに追われるようにその姿を隠しかけ、空は重々しく冷えゆく街の上にその色を横たえていた。

冬が来る。

少年と少女