その日はずっと、冷たい雨が降っていた。
彼女は雨のしとしとと流れゆく橋の欄干にほっそりした指先を置いて、煙る川面へと目を向けた。
少女が握り締めていたビニール傘の柄は薄い水色で、冷たい雨を伝わせて川向こうを映している。
水かさの増えはじめた川から上るざわざわとした音は耳に優しく遠く、そして冬の香りがした。
隣で白い傘を手に持っていた少年は、立ち止まった少女に合わせて自分も足を止めると、冷たい空気の中で佇む少女の横顔を眺めた。
空は雨が降っているにも関わらず真っ白で、それでいて重々しく垂れ下がっていた。
頬を掠めていく冷たい風にほぐれた黒髪が、少女の無表情な顔をどこか鋭利に見せていた。
彼女のそのような顔はいつも妙に切なく、不意に肩を引き寄せたくなる。
(もっとも傘で手がふさがっていて、少年のその思いは実行に移せはしなかったのだけれど)
短縮授業で早めに終わった学校帰りの道はいつもと比べて人通りが少なく、遠くを走る電車の響きが雨に曇って鈍く空に響いていた。
「川、見てるの?」
いつも自然にそうなってしまうように――優しい口調で、少年が少女に尋ねる。
少女は少年にいったん視線を戻してから、くるりと背を向けると川に真正面から向き合って顔をゆっくり空へと向けた。
彼女が答えないので彼がもう一度彼女に尋ねようとすると、タイミングを計ったかのように彼女は口を開いた。
「見てるわ」
「そう」
「世界の中心が自分で何が悪いんだろうと思うの、あたし」
唐突に少女が呟いた。
それはいつものことではあったのだが、それでも少年はその突然出てきた話題に軽く目を見開いて、どうして、と聞き返した。
「いいのよ、どうせ少ない人生なんだわ。数十年生きれば終わるのよあたしの人生は。あたしだけじゃないわ、人間は皆そうなのに、それなら自分中心に生きててそれに誰かが文句言ったってそんなのどうでもいいじゃない。」
「…そうかな」
「そうよ。だから自分の大事な人は大事にして、いらない人は無視して、悲しいことなんて勝手にどっかに放り去って、自分の見たいものを見て、あたしは好きに生きるわ。あたしはだって世界の中心にいるんだもの。外回りの全然知らない人を攻撃する気もさらさらないわ、あたしは自分の近くにいる人だけでいい」
風が冷たく橋を掃き、冷たい雨はそれでもただただ、二人の傘をぽつぽつと打っては流れてコンクリートに落ちていった。
「どうだっていいのよ」
少女は唇を噛んで、少年に背を向けたまま傘を持った手を、冷たさにきゅっと握りなおした。
少年は顔を切る空気に目を伏せて、少女の小さな背中から目を離した。
空を見上げれば、氷のような水をこぼす雲が重く白く、連綿と冬の地平線を覆っている。
学ランの少年は橋の上に佇んだまま忘れかけた記憶がまた押し寄せてくるのを感じとって、瞳を閉じた。
ああ、違う――忘れかけてなどいない。
もう、随分と前に彼女といた時に思い出して、あとは心を決めるだけであったから。
とぷん、と小さな音がした。
少女が川に投げた小石が、綺麗なアーチを作って川へと落ち込んだ音だということは、背中越しにも分かった。
背中を合わせるようにして立っていた少年と少女は互いに空の向こうの何かを見つめ、冬の前のひとときの雨の音に聞き入りながら静かに橋の上で冷たい風に身を晒していた。
少女がぽつりと、誰にともなしに口を開いた。
指の下にある濡れた橋の欄干はひやりと少女の身体に纏わりつき、冷たく澄んだ少女の目は川面へと向いた。
「本当はね、どうでもよかったの。」
まだ薄く残る川の波紋に瞳を落ちつけて、彼女は呟いた。
「別に幸せになりたいなんて思ってなかった。不幸なら不幸で、ヒロインぶって生きていくのもかっこいいと思ったのよ。」
少年は黙って空を仰いだ。
雨が地上に降り注ぐこの場所で、彼女の声だけが彼を地上に縫いつけているような錯覚さえ覚えるようで。
少女の声があまりに彼にとっては心地よく、それは紛れもなく少年にとっての少女の存在の大きさのためであった。
風の冷たさも雨の無情さも、全てを包み込むのは彼女の声であった。
「ちょっといいことがあったって、なくなるのも怖くなかったし、世界は汚いと思ってた。」
「……そう」
少年が呟く。
少女はそこで唇をそっと閉じ合わせ、しばらく両の目を瞑った。
過ぎゆく風は穏やかで、温度は冷たくとも、頬を切る空気がどこまでも穏やかで。
コートを羽織った背中から少年の存在が感じられるのを確認して少女はそっと目を開けた。
「別に今は世界が綺麗に思えるなんて言ってるわけじゃないのよ。」
目の前にはいつもと変わらぬ世界が雨に彩られて、そこにある。
「でも……思ったよりずっと、ここは汚くないなって、それは分かった」
少年は沈黙していた。
少女は鬱々と曇った空を仰ぎ、千切れた水の糸が降り落ちるのを黙ってしばらく見ていた。
風は次第に弱まり、川沿いの木々は葉のない枝のざわめきを柔らかに止め始めた。
川の流れが音に乗り、少年と少女の間を穏やかに流れていった。
「君が好きだよ」
少年が、少女に背中を向けたままで静かにそう言った。
少女は顔にしなだれ落ちる黒髪に空いた手をやって、目を細めた。
「好きでなんて、なくていいの」
ビニール傘の柄を握っていた手をほぐせば、弱い風に煽られて雨の中を傘はふわりと浮き上がった。
川の上へと押し出すように傘を捨て、少女は川から目を離さずに雨に濡れながら口を開いた。
「あんたがいれば他はどうでもいいなんて、思ったことすらないわ」
「…そうなの」
「…うそよ。一瞬だけならあるわ」
「そうなんだ」
少年の口調に穏やかな響きを感じとって、少女は今や遠くで流れる川に浮かんでいるビニール傘を見つめながらセーラー服の襟に手を押し当てた。
「そうよ。」
「…そうなんだ。」
少年が淡く微笑んで、瞳を閉じた。
「何嬉しがってるの、ばか」
少女がむっとして顔だけ振り返ると、少年は身体ごと振り返って少女の頭上に白い傘を差した。
「帰ろうか」
少女は目だけで少年を見上げて、それから小さく頷いた。
ほんの少し顔が赤かったのに少年はいとおしそうに顔を緩め、冷たい彼女の髪を柔らかになでた。